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2020年09月02日 07時02分 JST | 更新 2020年09月11日 09時57分 JST

6歳の娘を亡くした母親が、もう一度、医療的ケア児のために働くことを決めるまで

脳などに重度の障害を持って生まれてきた一人娘。6歳になったばかりでこの世を去った。今、医療的ケア児の家族らによる作文コンテストと実現のためのクラウドファンディングを始めるため、動き出している。

金澤裕香さん提供
金澤裕香さん、菜生さん

「子どもが亡くなった後も人生は続いていく。私はそれも、見せていかないといけない」

脳などに重度の障害を持って生まれてきた金澤裕香さんの一人娘、菜生(なお)さん。2019年11月3日、6歳になったばかりでこの世を去った。

お葬式をなんとかやり遂げた裕香さんは、それから毎日毎日、眠り続けた。

一時は、医療的ケア児のためにと続けてきた発信を、辞めようかと思った。 

しかし今、もう一度、医療的ケア児らのために立ち上がろうとしている。

 

「私の人生はもう終わった」拭えなかった思い

菜生さんの障害は、生まれたての時にはわからなかった。 

母乳やミルクが飲めず、生後3カ月から、入退院を繰り返すようになった。一度は「筋ジストロフィー」と診断されたが、その後撤回され、何が原因の障害なのか、亡くなった今もわからないままだ。

金澤裕香さん提供
小さい頃の菜生さん

出産前の裕香さんは、都内で製薬会社の会社員をしていた。他の多くの母親と同じように、当然のように復職するつもりでいたが、それは叶わなかった。

菜生さんの入院期間は3年という長期に及んだ。裕香さんも、付き添って病院で寝泊り。家にも帰れない3年間を過ごした。

金澤裕香さん提供
小さい頃の菜生さん

友達は、仕事に打ち込んだり、海外旅行に出かけたりしていた。キラキラ輝いて見えた。

娘はかわいい。でも「娘のせいで仕事を辞めさせられた」「病院で暮らす私の人生はもう終わった」。自分がここまで積み上げてきた人生を崩された思いがどうしても拭えなかったという。

 

「魔法のアイテム」に見えてきた

本当に娘を愛している、心から可愛いと思えたのは、菜生さんが2歳半になった頃。付き添い入院の疲労で体調を崩した裕香さんが、病院を離れて1カ月ほど、自宅で療養することになった時だった。

離れてみてはじめて、芽生えた感情。あれほど憎いと思っていた娘に、会いたいと心から思ったのだ。 

「寂しい。菜生ちゃんが、いてくれるだけで楽しかった」

自分を取り戻したような気がした。そして、医療的ケアに対する考え方もガラッと変わった。 

金澤裕香さん提供
自宅療養になった菜生さんと裕香さん

菜生さんは自力で食事ができず、呼吸の助けもたびたび必要になった。てんかん発作も頻繁に起こした。

小さな身体に、様々なチューブや機械が付いている。それを、かつては不自然で、無理やり生かされているように感じていた。

けれど、裕香さんはその時から医療機器を「菜生を助けてくれる魔法のアイテム」だと感じるようになった。

「これさえあれば、おうちにだって帰れる。生活できる。すごいことなんだ」

金澤裕香さん提供
たくさんの医療機器に助けられていた菜生さんの生活

「ナイトルーティン」人気に

3歳になった菜生さんは、ようやく在宅療養ができるようになった。

そして裕香さんは、障害や病気を持った人が交流できるSNSの運営を経て、2019年1月、NPO法人アンリーシュを設立した。菜生さんが5歳になった頃のことだった。

アンリーシュは、YouTube動画やネット上の記事で、医療的ケア児と家族のための情報を届けるメディアを運営している。日本に1万8000人いるといわれる医療的ケア児のためのまとまった情報が、ほとんどなかったからだ。 

動画には裕香さんと菜生さんも出演した。

医療機器の使い方、訪問看護サービスの使い方を解説するなどのお役立ち情報の他に、リアルな自宅での夜のケアを「ナイトルーティン」として発信、人気の動画になったりもした。

 

「すごく役に立った」「頑張ってお世話してる他のママを見て勇気をもらった」。

そんな声がたくさん寄せられた。YouTubeライブで、悩みを相談しあったりすることもできた。

 

突然、娘の体調が悪化した

自宅での療養生活は、24時間気が抜けなかった。

しかし、その頃に誕生した訪問保育サービスが使えるようになり、裕香さんは仕事にも、ある程度の時間を使うことができる環境になっていた。

「メディアとして、責任を持てる情報を、たくさんの人たちにもっと届けたい」。そう思っていた。

金澤裕香さん提供
入院中の菜生さん

菜生さんの体調が悪化したのは、2019年の初夏。

7月末からは入院、裕香さんも再び付き添い入院生活に戻ることになった。

9月からは輸血も始まった。菜生さんの髪の毛が抜け始めた。毎晩、40度の熱が出るようになった。

 

「痛い」5時間叫び続けた

菜生さんのお世話や、始めたばかりの仕事のことで頭がいっぱいで、裕香さんは、自分の体調の異変に気付く余裕もなかった。

裕香さんには腹痛があり、生理のような出血も1ヶ月以上ずっと続いていた。

少しだけ看護を離れ、妹とホテルで休んでいた9月末ごろ。安心したのか、裕香さんは急な腹痛に襲われ、救急車で運ばれる事態になった。

点滴を受けながら、病院中に響き渡る声で「痛い、痛い」と5時間近くも叫び続けた。ストレスによる子宮筋腫などの病気だったことがわかり、緊急手術を受けた。妹は泣きじゃくり、母親も倒れてしまった。

それから2週間ほど、裕香さんは菜生さんと同じ病院の、別の階に入院することになった。


「最後の治療方法」を決める

菜生さんの体調が急変したのは、10月27日のことだった。ICUに入った菜生さんは、見たこともない数の点滴を受けていた。

 「でも体力が回復すれば大丈夫」。そう楽観視していた。

金澤裕香さん提供
ICUでの菜生さん

しかし、3日目、いよいよ菜生さんは呼吸を保つことが難しくなっていた。

医師からは、「最後の治療の方法」に関する説明を受けた。

延命治療は最小限にしてもらった。「パパと娘」「ママと娘」だけの時間を作ってもらった。

11月3日、最後の瞬間。全ての点滴を外し、パパに抱っこされた状態で、菜生さんは息を引き取った。

頬には大きな赤いあざができていたが、表情は穏やかだった。

「頑張ってくれてありがとう」。自然とそんな言葉が出ていたという。

 

ふがいない自分にまた涙

医師から医療解剖の打診があり、家族で話し合って、菜生さんの脳や臓器など全ての部分を提供した。最後まで医療の発展のために貢献したほうがいい、そんな気持ちだった。

金澤裕香さん提供
自宅で行ったお葬式

菜生さんの葬儀は、それから1週間後、自宅で行うことになった。

葬儀の支度をしていた裕香さんは、自宅で突然嘔吐し、立ち上がれなくなってしまった。胃潰瘍と、ストレスで胃酸が異常に増えているというのが原因だった。

菜生さんと自宅で過ごす、貴重な時間。「最後の大事な時間を無駄にして、情けない」。自分への不甲斐なさと痛みで、涙が止まらなかった。 

自宅で納棺、お葬式、火葬を済ませて、再び自宅へ戻った裕香さん。それから、極度の疲れで全く何もできなくなってしまった。

「その頃のことはほとんど何も覚えていないんです」。

最初の一カ月は、1日のうち22時間ぐらいは眠り続けていた。様々な連絡がスマホに届いていたが、疲れ果てていて、一切誰にも連絡が取ることができなかった。

 

「私たちの人生は続いていく」

「菜生ちゃんを失って、私がこのまま情熱を持ち続けられるだろうか。アンリーシュも辞めようか」

誰かの困りごとをみても、「でも、あなたの子供は生きてる。それだけで十分じゃないか」。どうしても、羨ましい気持ちが拭えなかった。 

しかし、菜生さんの世話を続けながら、自分でアンリーシュなどの仕事を始めた時、裕香さんには決めていたことがあった。

「もう誰かの人生を変える仕事以外は、しない」

大事な娘を誰かに預けてまでしたい仕事ってなんだろう?どうしても、そう考えざるを得なかったからだ。

そして、この理念を元に、様々な仕事を手がけてきた。もし、ここで自分が挫折のような形でアンリーシュを辞めてしまったら…。

「辞めちゃったら、その人たちの人生はどうなっちゃうの?と。YouTubeに勇気をもらったとコメントをくれた、頼ってくれた人に、なんて言えばいいの?そう思いました。子供が亡くなったからやめるのは違うなって。子どもが亡くなった後も、私たちの人生は続いていく。それも、見せていかないといけないなと思いました」

 

新しい挑戦が始まる

連絡が一切取れなくなった頃も、アンリーシュの動画や文章は他のメンバーが更新を続けていた。

守ってくれていた仲間と、頼りにしてくれていた人たちのため、もう一度やろう。

2月ごろ、ようやく心が固まった。仲間にもそう伝え、徐々に仕事に復帰できるようになると、情熱も戻ってきた。 

金澤裕香さん提供
金澤裕香さん(中央)とアンリーシュの共同代表の竹内真さん(左)、理事の坂田奈緒子さん

アンリーシュの方針も少し変えた。これまでは、自分自身が出演して、半分は個人のもののようにも捉えていたメディアだった。

もう一度、最初の理念に立ち返り、様々な医療的ケア児の家族の話を届けていく。もっとみんなの役に立つ、公的なものにしていきたいと、仲間たちと相談して決めた。

そして今は、医療的ケア児の家族らによる作文コンテストと実現のためのクラウドファンディングを始めるため、動き出している。

医療的ケア児はこの10年間で倍に増えている。新生児医療の発達で、以前は出産前後に亡くなっていた子の命が助かるようになっているからだ。医療的ケアを受けながら生きる子たちは、今後も増えることが予想される。

そんな子どもたちが、適切なケアや教育を受けられるようにするために。

家族がもう一度社会に出て働けるようになるために。

当事者や関わる人からの声を集め、もっと多くの人に医療的ケア児の存在を知ってもらいたいというのが狙いだ。

Yuriko Izutani / HuffPost Japan
金澤裕香さん

当事者同士の支え合いから、もっと社会に広く届けるものに。メディアを進化させようとしている。

「『知らないから』『前例がないから』という理由で、お出かけもできず孤立している医療ケア児とその家族は大勢います。せひ現状を当事者の声で届けたい。知って欲しいと願っています」。裕香さんはそう話している。 

(作文コンテストにはハフポスト日本版も協力しています)