「安楽死でしか救われない人は、そう多くない」緩和ケア医が語る日本の現状

日本における安楽死のあり方と「安らかな死」とは、どういうものなのか。緩和ケア医の西智弘さんにインタビューした。
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つらい「生」か、安らかな「死」か。

あなたなら、どちらを選ぶだろう。

がんの終末期のケアをする緩和ケア医*と2人のがん患者の出会い、そして安楽死をめぐる“対話”を綴り、noteで20万PVを突破したノンフィクション・ノベルが話題となっている。

著者で緩和ケア医の西智弘氏に、日本における安楽死のあり方と「安らかな死」とはどういうものなのか聞いた。

*日本緩和医療学会「WHO(世界保健機関)による緩和ケアの定義(2002)」定訳

緩和ケアとは、生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のクオリティ・オブ・ライフ(QOL:生活の質)を、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチである。

初めて出会った“安楽死”を明確に望む患者

――脚本家・橋田寿賀子さんが「安楽死で死にたい」と発言したり、国民の世論でも約7割が安楽死に賛成しているなど、日本でも安楽死がとても身近なものとして認識されるようになってきました。緩和ケア医をしていると、安楽死という言葉に触れる機会が増えているのではないでしょうか?

たしかに、だいぶ一般的な言葉にはなりましたが、実際のところ、具体的に「安楽死をしたい」という思いを持っている人は、は日本ではそれほど多くはいません。私にとっては、今回の本に登場する、スイスで安楽死をする手続きを進めていた吉田ユカさんという、30代の女性が、はっきりと「安楽死」を口にする初めての患者さんでした。

会話の中で、少しだけ安楽死の話題が出てくるということは、時にはありますが、それでも20〜30人に1人くらいです。

医師として、これまでも安楽死について考える機会はありましたが、吉田ユカさんと出会ったことで改めて、考え直すきっかけとなり、noteに吉田ユカさんと、看護師を目指しながら20代で静かに死に向かっていったYくんの物語を描くことにしたんです。

――それは意外でした。がんの終末期は、強い痛みや苦しみを伴うイメージがあったので、もっと多くの人が安楽死への希望を口にするものだと思っていました。

世間の人たちが考えている“死に向かっていく”イメージは、安楽死がなかったら苦しい死が待っているというものではないかと思うんです。苦痛に満ちた生か、安らかな死かの2択だと思い込んでいる人も多いでしょう。

でも、実際にはその2択しかないのではなく、緩和ケアを受けていれば、安楽死がなかったとしても、安らかな死は実現しうるんですよ。本に登場するYくんのように、在宅で最期まで社会と関わりを持ちながら、痛みを緩和して終末期を過ごすことができる人もたくさんいます。

『だから、もう眠らせてほしい 安楽死ち緩和ケアを巡る、私たちの物語』の著者・西智弘さん
『だから、もう眠らせてほしい 安楽死ち緩和ケアを巡る、私たちの物語』の著者・西智弘さん
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日本で安楽死制度を運用するとしたら?

――西先生は、緩和ケア医です。つまり終末期のQOLをできるだけあげるためにお仕事をなさっているわけですが、安楽死という言葉が特別なものではなくなり、実際、スイスで安楽死をしようとしている女性に出会った。

そんな安楽死を取り巻く、昨今の状況をどんなふうに思われていますか?

緩和ケアがあっても、100%すべての苦痛を緩和できますかといわれると、残念ながらそういうわけではありません。

日本にも安楽死制度はあってもいいのではないかと私は思いますが、どういう形で行われるのが良いのかということはもっと議論された方がいいと思います。

今までの議論は賛成か、反対かという議論をしていたので、賛成か反対かというよりも、もし日本で行うとした場合どのように運用したらいいかが議論されるべきです。

どんな病気の人に認めるのか、年齢はいくつから? 子どもも認めるのか、身体的な疾患だけではなく精神的な疾患を認めるのかなど議論されるべきことはたくさんあります。

僕ら医者がこうあるべきだと決めるのではなくて、国民全体としてどうあるべきかを決めていくべきものなのではないでしょうか。

ただ、私は医師というものは、安楽死制度があろうがなかろうが、患者さん本人が程度の差はあれ苦しまずに済むよう、安楽死を選ばなくて済むように苦痛を取り除いていく方法を突き詰めていくことに特化していくべきだとは思いますが。

――もし安楽死制度が日本で認められたら、運用をしていくのは医療従事者である先生たちになるわけですが、その負担というか、重責みたいなものはいかがでしょう。

医師が運用しなくてはいけないという考え方以外の見方もあると思います。例えば裁判所などが最終的な決定をきめるのも一つの方法です。安楽死ができる施設を制限するというやり方もあるでしょう。

そうすると医師一人ひとりが「この人に安楽死が必要なのか」を悩む必要はなくなりますよね。

それに僕は、本当に安楽死が必要な人、安楽死でしか救われない人はそんなに多くないと思っているんですよね。

安楽死でしか救われない人は、そう多くない

――それはどういうことでしょうか。

最近考えているのですが、僕は死には3種類あると思っていて

①社会的な死

②精神的な死

③肉体的な死

多くの方が思い浮かべる死は③ですよね。

①は、社会から自分の存在感が失われるとか、自分のことを「生産性がない」などと感じてしまう状態です。客観的にというより、自分自身が自分は価値がない人間だと思ってしまうというもの。ここでいう「社会」には家族も含まれていて、父親としての役割、母親としての役割を果たせなくなるというのもひとつの社会的なことであり、役に立つことができないという感覚につながっていきます。

そして①の状態になると、②のように気持ちが弱っていき、「明日も生きてもいいかな」と思えなくなる。その状態が精神的な死です。

最終的に③に至るわけですが、できるだけ①②から③に移行する期間を短くすることがとても大切です①を迎えてから③までの時間が長ければ長いほど、苦痛は増します。

家族や医療従事者からは、治療をし、生きなくちゃいけないと「生」の方向へ、周りから向かされ、体もまだ死ねない。それは辛い。そこに「安楽死」というささやきが聞こえる。

だから①→②→③の移行期間を近づけることができれば、できるだけ苦痛のある時間を短く③をむかえられると考えています。

そういう意味で、安楽死が本当に必要な人は少ないのではないかと。

――では、逆に安楽死でしか救われない人というのは、どんな人を想定していらっしゃるのですか?

本の中で、在宅で緩和ケア医をしている新城拓也先生との対談のところで書きましたが、体に苦痛があるかないかにかかわらず、自分が考える「自分の尊厳を保てるライン」、―吉田ユカさんだったら「歩けなくなったら」ーが確固たる人には、医療で何もしてあげられないんですよ。

それでも、吉田ユカさんのように、実際に歩けなくなったとしても、人生のいいところはそれで全部なくなってしまうわけではなくて、会話ができたり、ご飯をたべることができたりする。そうすれば、歩くことはできなくなったけれど、まだ生きていてもいいかなと思える人もたくさんいるんです。

だから、確固たる尊厳を保てるラインを超えてしまったから、その先の人生を捨ててしまうのはもったいないと思うけれど、それでも苦しくて、死を迎えたいというのであれば、もし安楽死制度があればそれが選択の一つになっていくのでしょうね。

朝目が覚めて、「今日もなんとかやってけるかな」と朝思ってもらって、1日終わるころには、「今日もなんとか乗り切ったから、明日ももうちょっとやってみよう」と思ってもらう。「明日目が覚めたら、辛くて仕方がない。明日、目が覚めないようにしてほしい」と思う人を1人でも減らすのが、緩和ケアのがんばりどころなんです。

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患者が孤独感を抱かないために

――少し前に厚生労働省が「人生会議」(もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組み)を発表したりしましたが、人はあまり自分の死に方や終末期の過ごし方を考える機会が少ないですよね。

前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組み)を発表したりしましたが、人はあまり自分の死に方や終末期の過ごし方を考える機会が少ないですよね。

緩和ケア医として、いろいろな患者さんと触れていて思うのは、人生会議のように真正面から「じゃあ、考えましょう」ということじゃなくて、ちょっとした会話のなかで、そういった考えや価値観を話していることってあるんです。それなのに、家族や、まわりの人たちがそれに気づかなかったり、誰も覚えていなかったりするということがあります。だから、あとで振り返って「おじいちゃんの言ってた、あれって…」と後から気付いたり。

僕はそれでもいいと思うんです。おじいちゃんがもう意識不明で数日以内に亡くなるかもしれないという状態の時に、その言葉に気づいて、きっと今おじいちゃんはこうしてほしいんじゃないかと、家族が気付くというのでも。

人生会議といってわざわざ時間をとって、生きる死ぬを語っても、いざとなったら気持ちが変化したりもするものですから、会議のその場でというよりも、生前のフレーズを大事にしていくというのが大切なのではないでしょうか。

本人も家族も治療者も前向きに「生きる」方向で治療に進んでいるときはいいんです。段階的に終末期に入っていくにあたって、まず医者が現実を受け止めて、次に患者さん本人も自分の病状に気付き出す。でも家族が「まだできることができるはず」ととにかく頑張らせる方向を向いたままで家族と患者さんの足並みが崩れると、患者さんが1人取り残されて孤独感を感じてしまいます。

そういうところに僕のような緩和ケア医が入っていって、患者さん本人の言葉を思い出してもらったり、家族の都合のいいように解釈している場合は軌道修正をしたりするんです。だから、体に苦痛、痛みがある、ないを基準にせず、早めの段階で、緩和ケアを受けるのが大事なことなんですよ。安らかに生きて、その先の死を迎えるために。

西智弘『だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語 』晶文社
西智弘『だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語 』晶文社
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