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2021年09月15日 12時30分 JST

水中考古学者、ミクロネシアの浅瀬でゼロ戦に出会う

海底や川底などに沈んだ遺跡や沈没船などといった水中文化遺産を扱う「水中考古学」。日本ではまだ数少ない水中考古学者が海の底で出会った「ゼロ戦」が教えてくれたこととは。

新潮社フォーサイト
ミクロネシアの青い海の底に今も眠る「ゼロ戦」 ©山舩晃太郎

日本、サイパン、グアム、ミクロネシア連邦、そしてオーストラリア――。

近年これらの国々で重要視されている研究対象がある。太平洋戦争で沈んだ船舶や航空機といった水中戦争遺跡だ。2045年には戦後100年を迎える。それまでに水中戦争遺跡の保護をしよう、と太平洋各地で様々なプロジェクトが立ち上がっているのだ。

世界の海で船の発掘・研究を行う水中考古学者、山舩晃太郎氏が太平洋の島国・ミクロネシア連邦で経験したプロジェクトについて、初著書『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』より一部抜粋・再構成してお届けする。

山舩晃太郎『沈没船博士 海の底で歴史の謎を追う』(新潮社)

チューク諸島と日本の歴史

ミクロネシアとは、グアムやサイパンがあるマリアナ諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島、そしてパラオやカロリン諸島といった国や地域の総称である。

ミクロネシア連邦はその中の1つの国だ。ポンペイ州、ヤップ州、コスラエ州、そしてチューク州の4州から構成されている。「チューク州」「チューク諸島」という名前には馴染みが無いかもしれないが、「トラック諸島」と聞けば日本史の授業で出てきたのを、何となく覚えている人もいるのではないだろうか。このチューク諸島が、今回の現場だ。

人々の暮らしは日本に比べたら質素だが、それを「貧しい」という言葉で表すのは正しくない。「あまり外部の影響を受けていない」という方がしっくりくる。チューク諸島の中心となるウェノ島には、私が到着した国際空港もあり、ホテルも5つほど建っている。ただ、道路が舗装されているのはこの島の東側のみで、それ以外の場所の道路は雨が降るとよく冠水している。緑の山とコバルトブルーの海に囲まれた景色はとても美しい。飛行機の窓やウェノ島の山から見下ろすと、息を飲むほどだ。色が濃く、生き生きとしている。

チューク諸島を含んだミクロネシア連邦の島々には、2000年前にはすでに人が住んでいたとされている。1528年にスペイン船がやってきて、属州にさせられた。

それ以降、ドイツの属州になったり、日本の委任統治領になったりと歴史に翻弄されてきたミクロネシア連邦には、太平洋戦争時の船舶や航空機が多数海底に沈んでいる。

ここで少し日本とチューク諸島の歴史を紹介したい。なぜ、チューク諸島に戦争遺跡が多いのか、ということに関わってくるので、しばしお付き合いいただきたい。

1914年に日本の統治下となったチューク諸島は日本からの入植者も増え、1934年頃には現地民約1万人に対し、日本人は約1万7000人も住んでいたとされる。

1941年、太平洋戦争が開戦すると、太平洋のど真ん中にあるチューク諸島は大日本帝国海軍連合艦隊の重要な拠点となった。当時世界最大の戦艦だった「大和」と、その姉妹艦の「武蔵」も停泊していた。

しかし、1944年2月10日、アメリカ艦隊のチューク諸島沖への接近を察知した日本海軍は、海軍の主力艦のほとんどをパラオに後退させた。そのため民間から徴収された補給船と輸送船がこの諸島に残されたという。

日本海軍が撤収してからわずか1週間後の2月17~18日、連合艦隊による集中爆撃「オペレーション・ヘイルストーン」が開始された。主力艦隊がすでに撤退していた諸島の施設は防御も薄く、ほぼ無防備の状態で爆撃を受けた。その後も日本軍の補給基地だったチューク諸島は、日本政府がポツダム宣言を受諾し無条件降伏するまで何度も襲撃を受けた。落とされた爆弾の総量は6878トン。18カ月間の攻撃で、日本側は52隻の船舶と約400の航空機を失ったとされている。日本人の死者は5000人、そのうちの4000人が船と共に海に沈んだと言われる。

これだけ美しい島が、そんな目にあっていただなんて……。私自身、初めて知ることばかりだった。

これらの戦争遺跡のほとんどが、今でもチューク環礁内の海の中に沈んでいる。大型船舶や一部の航空機が、チューク諸島における沈船ダイビングの人気ポイントとなっているのだ。

日本からも以前はチューク諸島で亡くなった日本兵の遺族の方が慰霊に訪れていたが、遺族の方々の高齢化も進み、ここ10年はめっきり数が減ったそうだ。現地で観光ガイドも行っている日本人の方の話では、近年ではダイビング目的がほとんどで、遺族の方や陸上にある遺跡への慰霊訪問は1カ月に数人いるかいないかだそうだ。

 

水中文化遺産を守れ

太平洋戦争時の日本軍と連合国軍の水中文化遺産を見るために世界中からやってくる沈船ダイバー達は、ミクロネシアの観光産業の重要な収入源だ。

また、世界遺産に登録されているナン・マドール遺跡といった水際にある重要な文化遺産も、地球温暖化の影響で水没遺跡となりつつあった。そのため、ミクロネシア連邦は水中文化遺産の保護に力を入れ始めたのである。その一環として、2018年にユネスコ水中文化遺産保護条約に批准した。

この条約の原則は、海から引き上げた文化遺産の商業的利用、つまり売却を禁じるというものだ。さらに海洋考古学者を自称するトレジャーハンターに対抗するため、水中文化遺産の「原位置保存」の推奨を明記した。そして水中文化遺産の定義として「水中に100年間沈んでいる人工物」とした。逆に言えば、2020年時点ではまだ沈没後100年経っていない第二次世界大戦時以降の水中戦争遺跡はこれに含まれない。

この条約は水中文化遺産の扱いに関するガイドラインとして機能しており、批准している・いないにかかわらず、水中考古学者や水中文化遺産の研究を行う研究者達は、この条約に従い水中文化遺産を守っている。

ミクロネシア連邦の各州にはHistoric Preservation Office(歴史保存局、以下、HPOと表記する)という、日本の自治体の埋蔵文化財課にあたる部署が配置されている。彼らは陸上の遺跡や歴史的建造物の管理には慣れているが、水中の遺跡や文化遺産の保護を行ったことはなかった。

そこでユネスコからの依頼で、チューク諸島で水中考古学フィールドスクールを開催することになった。説明が遅れたが、このスクールに私も講師として招かれたのだ。

 

珊瑚の生息地になったゼロ戦

水中考古学フィールドスクールにはミクロネシア連邦の4つの州と、パラオやマーシャル諸島などの周辺地域のHPOから10人の職員が集まった。それに加えオーストラリアと香港からも1人ずつ水中考古学者が研修として参加してくれた。

実習では2つの水中戦争遺跡を利用した。

1つ目は、水深8メートル程のところに沈む零式艦上戦闘機だ。通称・ゼロ戦と言われた太平洋戦争の日本軍を代表する戦闘機である。私がHPO職員達に先立ち海に飛び込むと、すぐに戦闘機が見えた。全長は10メートル弱で、翼幅はそれよりも少し長く11~12メートル程であろうか、私が何となく頭の中で想像していたものよりも大きかった。機体はひっくり返った状態で沈んでいる。

とても幻想的だ。機体の中や、下に様々な枝珊瑚が森のように生えているのだ。まるで樹海に埋もれた戦闘機だ。

水中に佇む戦争遺跡は、確かに何も知らなければ、廃墟のようで一見不気味に見えるかもしれない。しかし近づくと沢山の魚が住み処にしているのだ。カラフルな熱帯魚が群れを成して泳いでおり、まるで水族館の水槽の中にいるような錯覚を覚える。チューク諸島の水中戦争遺跡を目当てに世界中からダイバーが集まるのも理解できる。

フィールドスクールで使用したもう1つの水中戦争遺跡を、私達は「小砲艦」という意味の「ガンボート」と呼んでいた。残存部分は全長10メートル程だ。とりあえずガンボートと呼んだのは、船体上部にかつては砲塔をはめ込んでいた穴(基部)のような構造が左右に2つあったからだ。当時の軍艦の砲塔は重力のみで基部にはめ込まれており、転覆時に外れることが多かった。ただ、船体の半分が金属劣化によって崩壊しており、実際のところどのような船舶だったかは分かっていない。

ガンボートが沈んでいる場所は水深6メートル程で浅い。潜るとすぐに美しい熱帯魚の大群が迎えてくれた。この水中遺跡も船体に沢山の珊瑚が生息しており美しい。

今回のフィールドスクールに参加したHPO職員は、皆この水中考古学フィールドスクールに参加するためにダイビングのライセンスを取ったばかりであった。しかしそこはさすが海に囲まれたミクロネシアの若者だ。全員すごく泳ぎが上手い。普通、ダイビングのライセンスを取ったばかりの人は、慣れない機材と水中への恐怖感から、緊張した動きをするものだ。具体的に言えば「無駄な動き」が多くなる。

しかし彼らHPO職員はダイビング初心者なのに、熟練ダイバーのように水中でもリラックスして泳いでいる。幼い頃から海で泳ぐことに慣れ親しんでいたのであろう。泳ぐ前は「うまくできるかなぁ」と不安がっていたが、ガンボートの周辺を人魚のように泳ぎ回り、水中遺跡の表面を丁寧に写真撮影していた。

 

「戦争遺跡は遊び場だった」

フィールドスクールの最終日、私にはフィールドスクールを通じて彼らと信頼関係を築けた今、どうしても「日本人」として聞きたい、いや、聞かなければならない質問があった。

「日本の戦争遺跡の保護について皆はどう思っていますか?」

今回のフィールドスクールの講師をするにあたって、日本が占領していた頃のミクロネシアの歴史を初めて知った。恥ずかしい話だが、この依頼を受けるまでは、漠然と「トラック諸島」という名前を歴史教科書の中で見たことがあるという程度だった。

実際は第二次世界大戦前、日本人とチューク諸島地元民の関係は良好だったというが、戦況が激しさを増す中で、飢餓が起き、空襲によって建物や農地は徹底的に破壊された。記録ではアメリカ軍の攻撃による地元民の死者は123人とされているが、実際には1000人以上の地元民が戦争中に亡くなったといわれる。これは当時の地元民の9~10人に1人にあたる。

今回のフィールドスクールに参加した現地職員達が真剣に水中戦争遺跡の保護について学んでいるのを目の当たりにして、どうしてもその質問の答えを聞きたかったのだ。

地元チューク諸島のHPO職員で20代半ばの1人が答えてくれた。

「俺のお祖母さんは昔よく、戦争が始まる前に島にいた日本人達との良い思い出を聞かせてくれた。それに戦争遺跡は小さい頃から遊び場でもあったんだ。生まれた頃からそこに在ったんだよ。だからミクロネシアの多くの人々は、戦争遺跡を日本だけの文化遺産だとは考えていない。私達にとっても大事な、私達のお祖父さんやお祖母さんを思い出すことのできる、自分達の文化遺産だよ」

これに周りのミクロネシア人達も頷いていた。ありがたいことに彼らの祖父母は、戦争が始まる前の、日本人の入植時代のことを良い思い出として、彼らの子供や孫達に伝えてくれていたのだ。そして現在、ミクロネシアの人々は戦争遺跡を自分達の遺産として次の世代に残そうとしているのだ。

 

戦没者の眠る場所として

現在、チューク諸島に沈む遺跡に限らず、太平洋の水中戦争遺跡は、ほとんどが忘れ去られ、荒らされ、朽ちつつある。

私は、水中戦争遺跡は戦争に巻き込まれて亡くなった方々の「墓所」でもあると考える。

もし「先祖のお墓が、存在を忘れられ、誰にも手入れされずに、雑草がぼうぼうに生え、他人に荒らされ、お墓自体も壊れそうになっている」状態になっていたら、どう思うだろうか。そこに眠る亡くなった方々に、本当に静かに眠ってもらうには、お墓を綺麗に保ち、そこに眠っている方を忘れず、供養の気持ちを向けることが大切であろう。

そして、将来、私達の子孫が改めて歴史とは何なのかを考えられるようにするために、私達がしっかりと次の世代に「歴史の証拠」である水中戦争遺跡を残すための努力をしなければいけない。

水中戦争遺跡の保護活動は、「遺跡を引き上げる」というものでは決してない。戦争自体や歴史解釈について議論するというものでもない。集中すべきことは、水中戦争遺跡を1日でも長く忘れず、残すための活動だ。

確かに、太平洋戦争時の船舶は私にとっても考古学研究の対象外だ。それでも1人の日本人として、これからも私の大切な活動の1つとして太平洋の水中戦争遺跡の保護を続けていくつもりだ。

山舩晃太郎 1984年3月生まれ。2006年法政大学文学部卒業。テキサスA&M大学・大学院文化人類学科船舶考古学専攻(2012年修士号、2016年博士号取得)船舶考古学博士。西洋船(古代・中世・近代)を主たる研究対象とする考古学と歴史学の他、水中文化遺産の3次元測量と沈没船の復元構築が専門。著書に『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』(新潮社)。

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(2021年9月2日フォーサイトより転載)