コロナ禍、3度目の年末年始で後退した公的支援

3年ぶりとなる「行動制限のない」年末年始、あなたはどのように過ごしただろうか。私はと言えば例年通り困窮者の支援会に参加、多くの人に会い、多くの悲鳴に触れた。
「年越し大人食堂」で食料配布に並ぶ人々=2021年12月30日、東京都千代田区の聖イグナチオ教会
「年越し大人食堂」で食料配布に並ぶ人々=2021年12月30日、東京都千代田区の聖イグナチオ教会
時事通信社

3年ぶりとなる「行動制限のない」年末年始、あなたはどのように過ごしただろうか。

コロナ禍で初めて帰省した人もいれば、久々に海外旅行に出かけた人もいるだろう。また、年末年始にコロナ感染してしまい、正月休みはずっと寝込んでいたという人も少なくないはずだ。私はと言えば、例年通り、困窮者を支援する越年や相談会、炊き出しに参加していた。

多くの人に会い、多くの悲鳴に触れた。

1月3日、反貧困ネットワークの移動相談会で会った若者は、大晦日から野宿になったと話してくれた。住まいを失い、カプセルホテルのチェックアウトが迫っている若者もいた。また、とにかく家族全員分の食料がほしいとトランクを持参し、弁当や食品を持ち帰った女性もいた。

その中でも印象深いのは、12月30日、やはり反貧困ネットワークの移動相談会で出会った男性だ。

赤羽、北千住、新宿をバスで巡って相談会をしたこの日、私は相談員をつとめていた。都内某所の相談会近くで支援者が声をかけた男性は、寒い中、コートも着ておらず、終始震えが止まらなかった。所持金はゼロ円。しばらく食事もしていないというその人は、渡されたおにぎりとバナナを一気に食べた。路上生活になったのは11月だという。

前回や前々回の年末年始であれば、そのような人はすぐにホテルに案内していた。東京都が年末年始、住まいのない人に無料でホテルを提供していたのだ。しかし、今回の年末年始はそのような公的支援が大きく後退した。

例えばコロナ禍1〜2年目は、ネットカフェ生活者支援をする東京都のチャレンジネットが年末年始でも窓口を開けていた(すべての日程ではないが)。役所の窓口が閉まるこの時期はネットカフェ生活をしていた人々が「初めての路上生活」を経験することが多い時期でもあることから臨時に窓口を開いていたのだ。

そうしてそこで手続きをすれば、住まいのない人が年明けまで無料でホテルに泊まれたというわけである。

これは非常にありがたく、コロナ禍1〜2年目の年末年始にはチャレンジネットが入る建物の隣の新宿・大久保公園で「コロナ被害相談村」が開催され、私も相談員として参加した。

ここで支援者らが相談を受け、住まいがない場合はそのままチャレンジネットに同行、ホテルに泊まる手続きをする。

このような形で、年末年始に路上で過ごさざるを得なかった人たちが、暖かいホテルの部屋で新年を迎えられた。そうして年始、仕事始めと同時に何割かが仕事に戻り、何割かは役所で生活保護を申請。このような形で、年末年始のホテル利用というワンクッションは確実に多くの人の生活再建を手助けしてきたのだ。

しかし、今回はなし。チャレンジネットの臨時開庁も年末の2日間に限定された。

背景には、国の旅行支援によってホテルの値段が高騰したこと、「3年ぶりの行動制限のない年末年始」でホテルが埋まってしまったこともあるだろう。「全国旅行支援」という形で、お金のある人は支援され、住まいのない人は路上に放置される。そんなことを多くの人がグロテスクとも思わないほどに、格差社会は当たり前のものになってしまった。

ということで、冒頭の男性には近隣のネットカフェに泊まってもらうことになり、同行。年末の華やいだ街を歩き、駅前のネットカフェに足を踏み入れた瞬間、面食らった。住まいを失ったと思われる人々が年の瀬、そこに多くいたからだ。大きな荷物を持ちながらも、旅行者には見えない人たち。動揺しながらも無事に受付を済ませ、男性には年明けまでそこにいてもらうことになった。そうして役所が開けば支援者が同行して生活保護申請だ。所持金もなく住まいもなく仕事もないのであれば、生活保護でまずは生活を再建するしかない。放っておけば間違いなく凍死・餓死してしまうような状況だ。

本当に偶然、相談会に出会えてよかった……。

ほっと胸を撫で下ろしたものの、1月2日、衝撃的な事実が発覚する。もろもろの手違いから、男性は元日の夜、ネットカフェを追い出されてしまったというのだ。頭が真っ白になり、みんなで頭を抱えた。

寒さに震えている中、やっと暖かい場所にいられることになったのに、よりによって元日に夜に路上に放り出されてしまうなんて――。

私だったら心が折れてしまうだろう。心が折れるだけだったらいい。極寒の野外に追い出されるということは、最悪、命を落としかねないことだ。本人に連絡したくても、携帯も何も持っていない。頼みの綱は、支援者が渡していた名刺に書かれた携帯番号と、やはり渡していたテレホンカードだけ。

しかし、奇跡は起きた。1月3日に再び開催された「移動相談会」の最中、男性から反貧困ネットワーク事務局長の瀬戸大作氏に電話が入ったのだ。すぐに支援者が迎えに行き、相談会の現場に来てもらい、その日からシェルターに入ることになった。

元日の夜に追い出されてから二晩を路上で過ごした彼は、公園で寝ている間に衣類を盗まれたことを話してくれた。彼から衣類を奪ったのは、おそらく同じ境遇の人ではないだろうか。自らが生きるために、同じ境遇の者から衣類を奪う。そうしないと生き残れないから。「路上に出る」ことの過酷さを、改めて思い知った気がした。

さて、この年末年始には移動相談会だけでなく、多くの現場に行った。

12月31日には渋谷越年と池袋の炊き出し(TENOHASI主催)。また1月2日には横浜・寿町の炊き出しにも行った。

横浜・寿町の炊き出しでは、568食の雑炊があっという間になくなった。年末年始の3日間、池袋のTENOHASIには、延べ1198人が食品を受け取りにやってきたという。

そんな光景を見ながら、思った。

私が20代の1990年代、このような光景を目にしたことはなかったと。

ないどころか、想像すらできないものだった。「炊き出し」は災害時の言葉で、ホームレス問題は自分たちとは無関係。私にとっては海外の映画に出てくるもののイメージだった。なにしろ日本は豊かで経済大国だと、多くの人が信じていた。

それがどうだろう。86年に派遣法が施行されて以降、雇用と生活はじわじわと破壊され、それまで普通に働いていた不安定雇用の人々が、あっという間に住まいを失うようになった。

2007年、そんな人たちが「ネットカフェ難民」として発見された時、この国の人々は大きな衝撃を受けた。

だけど、今はもうネットカフェで暮らす人々の存在は当たり前のものになっていて、それは都市の一風景に過ぎない。

十数年かけて、この国の人々は貧困に慣らされていった。何をどう憤ろうと何も変わらず状況が悪化するだけであれば、人は怒ることをやめる。そして思考停止し「自己責任」ということにしてしまえば心理的な負担は軽くなる。そのような過程でホームレス状態の人々はどんどん若年化し、女性の割合も増えていった。そこを直撃したのがコロナ禍だ。この3年間、私は派遣法の破壊力をまざまざと見せつけられている気持ちだ。

そうして23年がやってきたわけだが、今月からはある制度を利用した人々にとって一層厳しい状況が訪れる。

それは緊急小口資金や総合支援資金の名前で最大200万円を貸りることができた国の特例貸付。この返済が今月から始まるのだ。

貸付総数は約335万件で総額は1兆4268億円。住民税非課税世帯などは返済が免除されるが、すでに22年10月の時点で免除申請は貸付を受けた人の3割以上にのぼっている。また、自己破産も7500件以上確認されている。返済免除の対象はもっともっと拡大されるべきだろう。

そんなコロナ禍3度目の年末年始は、民間の支援団体の息切れもひしひしと感じた。

コロナ禍1回目と2回目の年末年始に開かれた「大人食堂」(食品配布と生活相談、医療相談など)は開催されず、またやはり前回、前々回の年末年始に開催された「コロナ被害相談村」も開催されなかった。だいたい2年連続、それぞれ定職を持つ人々が正月休み返上で極寒の中、ボランティアをしていたこと自体が奇跡なのだ。

さて、このような場面こそ、「公助」の出番である。フル稼働すべき時である。

岸田首相の「異次元の少子化対策」という言葉を空々しく聞き、8ヶ月連続で実質賃金マイナスというニュースにおののきながら、今年こそ公助が機能し、多くの人が公的支援に救われるよう、祈っている。

(2023年1月11日の雨宮処凛がゆく!掲載記事『第621回:コロナ禍、3度目の年末年始で後退した公的支援。の巻(雨宮処凛)』より転載)

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