どうすれば報道メディアは信頼を取り戻せるか。インド被差別カーストの女性記者から私たちが学ぶこと

インドのドキュメンタリー映画『燃えあがる女性記者たち』は、信頼される報道機関とは、どういうものかを考える上で大きな示唆を与えてくれる作品だ。報道に対する信頼度が低下するいま、本作から私たちが学ぶことは多い。
『燃えあがる女性記者たち』
『燃えあがる女性記者たち』
©Black Ticket Films

「報道」に対する信頼度が世界的に低下している。

民放オンラインが紹介する「デジタル・ニュース・レポート」によれば、調査対象46カ国でニュースへの信頼度は過去10年下落し続けているという。

民主主義が機能するためには報道は欠かせない存在だ。報道に対する信頼度の低下は、社会全体にとって大きな課題といえる。

インドのドキュメンタリー映画『燃えあがる女性記者たち』は、信頼される報道機関とは、どういうものかを考える上で大きな示唆を与えてくれる作品だ。

本作が写すのは、インドの不可触民「ダリト」と呼ばれる被差別層の女性たちが運営する新聞社「カバル・ラハリヤ」の活動だ。

カーストとジェンダー、二重の差別で危険と隣り合わせの生活のなか、彼女たちは地域の問題点を丹念に取材し、広く問うことで市民から信頼されるジャーナリズムを実践している。

カバル・ラハリヤの記者たちは、マフィアの利権が絡む事件や刀を見せびらかす自警団リーダーにも臆せず粘り強く取材していく。腐敗した権力にも臆することのない彼女たちの報道姿勢は、忖度のようなものとは無縁だ。

この映画を監督したリントゥ・トーマス氏とスシュミト・ゴーシュ氏に、女性記者たちの活動について話を聞いた。

監督を務めたリントゥ・トーマス氏(右)とスシュミト・ゴーシュ氏(左)
監督を務めたリントゥ・トーマス氏(右)とスシュミト・ゴーシュ氏(左)
HuffPost Japan

ダリトであり女性である、ということ

「ダリト」とはヒンドゥー語で「壊された人々」を意味し、インドがかつて敷いていたカースト制度の外に置かれた「不可触民」と呼ばれる最下層民たちが自らつけた呼称だ。

カースト制度が廃止された今も、ダリトの人々に対する差別感情は根強い。さらに、家父長制が強固なインド社会において、ダリトで女性であるということは、理不尽な二重の差別にさらされることを意味する。

とりわけ、カバル・ラハリヤのあるインド北部のウッタル・プラデーシュ州は、家父長制的価値観が強く、女性に対する暴力が絶えないのだという。

ゴーシュ監督は、この地域でダリトの女性であることは「外を出歩くだけで危険」であり、そうした人々だけで新聞社を運営している自体が驚くべきことだという。

「この地域の男性は、そもそも妻を外で働かせたくないんです。カバル・ラハリヤの中心的存在であるミーラの夫は、自分が無職だからしぶしぶ承知しているという状態です。

女性に対する暴力が多い地域ですから、そもそも外出するだけで危険が伴うので、妻や娘を外に出したくないと考える人も多い。そういう場所で、彼女たちはマフィアの利権が絡む現場や、腐敗する警察などを相手に取材活動をしているのです」(ゴーシュ監督)

ジャーナリストに学歴は必要ない

2002年に週刊の地方紙として立ち上がった「カバル・ラハリヤ」は、2016年からYouTubeチャンネルを開始、デジタルへと進出していく。

映画は、そんな同紙の記者たちが初めてスマートフォンを手にするところから始まる。

スマートフォンを触るのが初めてという記者も珍しくないようで、使い方をレクチャーするシーンも映される。なかには文字の読み書きに不安がある新人も見受けられる。

一般的に記者やジャーナリストは高学歴であることが多いが、カバル・ラハリヤはそうしたイメージからはかけ離れている。記者を採用する基準は何なのか。

「たとえ文字が読めなくても、それは問題になりません。映画のなかにも登場しますが、ミーラという先輩がきちんと教育しますから。

彼女たちは、読み書きができないから記者にはなれないとは考えていないのです。もし当人たちにそういう考えがあったとしても、教育することで心に変化が起こることを彼女たちはよくわかっているのです。

文字が読めないと記者になれないというレッテルをなくすために、この新聞社は教育を重視しているのです」(トーマス監督)

『燃えあがる女性記者たち』
『燃えあがる女性記者たち』
©Black Ticket Films

当初、スマホの操作ができるか不安に感じていた若手の記者も場数を重ねていくにつれ、堂々と振舞えるようになっていく姿も描かれる。

何かを伝えたいという意思さえあれば、読み書きができなくてもジャーナリストは務まるということを、この映画は教えてくれる。

彼女たちのデジタル戦略は功を奏し、カバル・ラハリヤのYouTubeチャンネルは再生回数1億回以上を記録するほどの成長をみせる。

地方の小さな新聞社がスマートフォンを通して世界とつながり、大きな力を獲得していく様を映画は活写する。この時代、スマホがあれば、世界に何かを伝えることができる、誰もがジャーナリストになれる時代なのだと映画は伝えているのだ。

取材者が被取材者と同じ世界に暮らす

『燃えあがる女性記者たち』
『燃えあがる女性記者たち』
©BLACK TICKET FILMS

彼女たちは農村ジャーナリズムを掲げ、自分たちが暮らす地域の問題を丹念に取材する。

彼女たちが報じるのは、地元の採掘現場の利権や道路の舗装問題、ダリトの家庭のトイレの問題といった身近な課題から、女性に対する性暴力の実態など、地域密着の姿勢を貫いている。大手メディアなら車で移動するであろうところも、彼女たちは一般市民と同じようにバスと徒歩で向かう。

カバル・ラハリヤの記者たちはダリトで女性という立場であるため、取材対象者と心理的距離の近い関係を築いている。

例えば、違法採掘現場の取材を担当した20歳の若い記者スニータは、自らも児童労働者として鉱山で働いた経験を持っている。女性への暴力の問題ともなれば、被害者と同じような生活圏で暮らす記者がほとんどであり、女性差別の実態を身をもって経験しているから被害者遺族に寄り添った取材ができる。市民の抱える問題に対して、市民と同じ目線に立てることが信頼を勝ち取る1つの理由になっているのだろう。

そうした姿勢で大手メディアならひるんでしまうような危険な事件にも、彼女たちは臆せずに飛び込んでいく。しかし、女性が出歩くだけで命が危ぶまれる地域で、彼女たちはどのように安全性を確保して活動しているのだろうか。

「一般的なジャーナリストは、取材が終われば自分たちの住む世界に戻っていきますが、彼女たちの場合、自分たちの住んでいる世界を取材しています。

それゆえ、失敗しても逃げる場所がないことを彼女たちはよくわかっているのです。だからこそ、大きなトラブルなく取材するスキルを彼女たちは訓練して身に着けています。

マフィア絡みの事案など危険な取材をしているにも関わらず、カバル・ラハリヤは創業以来、大きな事件に巻き込まれていないそうです。それは彼女たちがとても賢く立ち回り、地域を知り尽くしているからこその知恵もあり、記者としてのスキルも高いからです」(ゴーシュ監督)

『燃えあがる女性記者たち』
『燃えあがる女性記者たち』
©BLACK TICKET FILMS

また、地域の市民からも信頼されていて、行政や警察のなかにも彼女たちに好意的な人々がいて協力してくれるのだそうだ。それは、カバル・ラハリヤが報じることで、実際の地域の生活にポジティブな変化が生まれたことが何度もあるからだという。

地域密着の姿勢で問題点を見つめ、市民と同じ目線に立っているので、問題の本質をとらえた報道が可能になる。

とりわけ女性への暴力が多く、警察も腐敗しているこの地域では、「ラハリヤだけが私たちの問題を取り上げてくれる唯一の希望だ」という人も作品内に登場する。

下水道が未整備でトイレがない家庭も多く、女性ですら外で用を足さなければならないという、行政の公式発表とはまるで異なる現状もつぶさに彼女たちは報じていく。

「彼女たちは、自分たちが報じなければ誰もこの地域の問題に気が付かないと知っています。そうした使命感に彼女たちは突き動かされているのです。

だから、センセーショナルな表現で報じるのではなく、事件の背景をふまえ、被害者の女性の未来はどうなるのかなど、より本質的なことを伝えるのです。ダリトの人々は不可触の存在ですから、それを変えていくために、彼女たちは報道するのです」(トーマス監督)

ジャーナリストに必要なこととは

どうすれば報道メディアがもう一度信頼を取り戻せるのか。

カバル・ラハリヤの活動には、そのヒントがある。必要なのは学歴ではないし、立派な機材でもない。スマートフォンと伝える意思さえあれば、世界のどこからでも情報は発信できる。

民主主義が適切に機能するためには、権力を監視する存在が不可欠だ。メディアは第4の権力と言われるが、本当の意味で対抗的な権力として機能するためには、市民からの信頼は欠かせない。

市民と同じ世界で生活しているからこそ、同じ目線で問題意識を共有でき、それを報道することで社会をより良くしていく。そうして信頼を勝ち取ることで、より大きな仕事ができるようになっていく好循環が、映画を観るとよくわかる。

ジャーナリズムのあるべき姿がこの映画には映されているのだ。

(取材・文:杉本穂高 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

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