【箱根駅伝】なぜ「箱根」が舞台?「幻の候補地」が不採用となった理由

お正月の風物詩である「箱根駅伝」。“箱根の山は天下の険”とも呼ばれる険しい山道を駆け上がる“山上り”の5区は、箱根駅伝を象徴する区間でもあり、ドラマチックな展開が繰り広げられます。そもそも、この駅伝はなぜ「箱根」を舞台に始まったのでしょう。他に挙がっていた候補地とは――。
箱根の山中を駆け抜ける2代目“山の神”柏原竜二(東洋大)=2012年
箱根の山中を駆け抜ける2代目“山の神”柏原竜二(東洋大)=2012年
時事通信社

学生ランナーが新春の箱根路を駆け抜ける「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」。

東京・大手町の読売本社ビルから、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て、箱根の芦ノ湖まで、往路5区間(107.5km)、復路5区間(109.6km)の合計10区間・総距離217.1kmをつなぐ、学生長距離界最長の駅伝競走だ。

この駅伝を象徴するのが、箱根の山中を駆け抜ける“特殊区間”の5区と6区。

往路の5区は(20.8km)は“山上り”と呼ばれ、箱根の玄関口である箱根湯本駅から国道一号線最高点まで、標高差約800m以上の上り坂を一気に駆け上がる。箱根最大の難所とされるが、数分の差をひっくり返す逆転劇も起きやすく、今井正人(順大)、柏原竜二(東洋大)、神野大地(青学大)といったスターを生み出してきた。

対して、“山下り”の6区(20.8km)は、芦ノ湖を背にスタートし、国道一号線最高点を過ぎてから小田原中継所まで、標高差800m近くを一気に駆け下りる。カーブが急でスピードも上がるため、脚への負担が大きく、走り終えた後に、シューズに血がにじんだり、足の裏の皮がベロリとむけたりする様子が見られるほど、過酷な区間だ。

特殊区間は平地の走りとは異なる特性が求められるゆえに、差が付きやすい。そのため、この区間を走れる“スペシャリスト”をいかに育てるかが、各大学の課題でもある。

大逆転やスターの誕生など数々の名ドラマを生み出してきた箱根の山だが、そもそもなぜこの駅伝は「箱根」を舞台に行われるようになったのだろうか。

大手町のスタートを一斉に飛び出す1区の選手たち。箱根駅伝のコースはどのように決まったのか
大手町のスタートを一斉に飛び出す1区の選手たち。箱根駅伝のコースはどのように決まったのか
時事通信社

箱根駅伝は、アメリカ大陸横断駅伝の「予選会」だった

箱根駅伝誕生の背景には、NHK大河ドラマ『いだてん』(2019年)の主人公にもなった、“マラソンの父”金栗四三(1891〜1983年)の熱い想いがあった。

金栗は1912年のストックホルム五輪にマラソン代表として出場したものの、レース途中で日射病により途中棄権。世界との差を痛感して失意のまま帰国したが、「世界に通用するランナーを育てたい」と、一度に多くの長距離選手を強化できる駅伝大会の創設を提案した。

関東学生陸上競技連盟の「箱根駅伝70年史」(1989年発行)によると、1919年10月、小学校の運動会の審判員に駆り出された金栗ら3人の陸上選手は、帰りの汽車の中でマラソン談義に花を咲かせていた。その話し合いのなかで、「日本人がアメリカ大陸を走って横断したら世界中が驚くのでは」との壮大な構想が生まれたという。

金栗らが描いた「アメリカ大陸横断駅伝」のコースは、サンフランシスコを出発し、アリゾナの砂漠を走り抜け、ロッキー山脈を越え、ニューヨークへゴールするというもの。この構想を実現するため、翌年2月に予選としての出場選手選考会が行われることになった。

現在は10月の予選会を経た「本戦」である箱根駅伝だが、当時はアメリカ横断の代表選手を決める「予選会」という位置づけだったのだ。

箱根の山を舞台に繰り広げられる戦いは見どころのひとつ。実は箱根以外にも候補地があり…
箱根の山を舞台に繰り広げられる戦いは見どころのひとつ。実は箱根以外にも候補地があり…
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箱根以外に候補地に上がったのは…?

このアメリカ大陸横断駅伝の代表選手選考レースを行うにあたり、以下の3つの候補が提案されたそうだ。

🎽徳川御三家にちなんで、水戸―東京間片道8区間

🎽日光の湯元から宇都宮を経て、陸羽街道を通って東京に着く片道8区間(約180km)

🎽東京の報知新聞社前(現在の有楽町駅前)を発着点とし、東海道を箱根の関所跡で折り返す往復10区間

(黒田圭助「日本駅伝競走史」1986年、関東学連「箱根駅伝70年史」参照)

箱根駅伝70年史によると、関係者がコース研究を進めた結果、①片道コースは運営上の難点がある②陸羽街道は道路や交通機関との関連が悪く、中継地の選定にも難があり、大勢の宿泊も容易ではない――といった理由から、水戸案、日光案は取り下げられたという。

最終的に、“天下の険”の箱根の峠をロッキー山脈になぞらえた「箱根ルート」が選ばれた。コース選定の理由には、風光明媚なうえに、同じ道を東京に引き返すという往復コースのほうが勇壮であり、宿泊や通信連絡も便利だという点も挙げられた。

また、時期については長距離トレーニングの効果を上げるという観点から、金栗の「厳寒か酷暑がよい」という意見が採用され、1920年(大正9年)2月11、12日に開催された。現在の正月開催になったのは1956年(昭和31年)から。その後、1987年(昭和62年)に日本テレビが全国放送を始めたことから、“正月の風物詩”としてお茶の間に定着していった。

結局、アメリカ大陸横断駅伝はどうなった?

初の箱根駅伝(当時は四大校駅伝競走)の開催から2年後、明治大学と早稲田大学の選手が代表となり、毎日新聞の協賛を得て渡米した。しかし、早稲田の学生がサンフランシスコで暴徒に刺されて亡くなる事件が起き、この計画は頓挫してしまったという。

当初の“アメリカ大陸横断駅伝”という壮大な夢は叶わなかったが、創設時の理念である“箱根から世界へ”は後世に引き継がれ、数々の学生ランナーが箱根路から五輪の舞台に巣立っている。

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