箱根駅伝、あの名シーンが再び。100回のドラマを報道写真で振り返る企画展をレポート

第100回を迎える箱根駅伝の名場面を報道写真で振り返る企画展が、東京・日本橋三越本店で来年1月9日まで開かれている。大会の創設者・金栗四三のシューズや日記も期間限定で公開される。

正月の風物詩である「箱根駅伝」(東京箱根間往復大学駅伝競走)の歴史的な名場面をたどる『報道写真で振り返る箱根駅伝』が、東京・日本橋三越本店で開催されている。企画展では、読売新聞社提供の写真パネルを展示し、カメラが捉えたさまざまなドラマを追憶できる。1月3日までは、箱根駅伝の創設者・金栗四三のマラソンシューズなども展示される。

〈開催概要〉

展覧会名:箱根駅伝100回記念「報道写真で振り返る箱根駅伝展」

主催:関東学生陸上競技連盟 共催:読売新聞社

会期:2023年12月27日〜2024年1月9日(1月1日は休業)

会場:日本橋三越本店(東京都中央区)本館1階ステージ

問い合わせ:03-3241-3311(日本橋三越本店大代表)

箱根駅伝の名場面をとらえた写真パネルが並ぶ企画展
箱根駅伝の名場面をとらえた写真パネルが並ぶ企画展
読売新聞社提供(写真パネル)

戦後初の箱根駅伝のスタートを映した貴重な写真

戦後復活した箱根駅伝で東京・有楽町のスタートから一斉に走り出す選手たち
戦後復活した箱根駅伝で東京・有楽町のスタートから一斉に走り出す選手たち
読売新聞社提供(写真パネル)

箱根駅伝は、1920年(大正9年)に「四大専門学校対校駅伝競走」の名称で始まった。来年1月に第100回の節目を迎えるが、現在のように毎年開催されていれば「第105回」となるはずで計算が合わない。

その理由は戦争による空白期があったからだ。箱根駅伝は、戦時色が色濃くなった1941年(昭和16年)1月の大会から中止された。軍需物資の輸送などの理由で東海道の使用が禁止されたことが背景にあったという。

43年に「関東学徒鍛錬継走大会」として復活し、戦勝を祈願して靖国神社から箱根神社間を往復したものの、46年まで中止を余儀なくされた。

写真は、戦後初の開催となった47年の第23回大会で、東京・有楽町の読売新聞社前(当時)を一斉にスタートする選手たち。当時、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の統治下に置かれており、関東学連が道路の使用許可など交渉を重ねて実現した大会だった。

紙吹雪と小雪がちらつくなか、6連覇のゴールテープを切る中央大のアンカー
紙吹雪と小雪がちらつくなか、6連覇のゴールテープを切る中央大のアンカー
読売新聞社提供(写真パネル)

今大会、駒澤大が2年連続大学駅伝三冠を達成するかが注目されるが、これまでの最多連覇記録は、59年の第35回大会から64年の第40回大会まで、中央大が成し遂げた6連覇だ。

写真は第40回大会で、紙吹雪と小雪がちらつくなか、1位でフィニッシュする中央大の選手。沿道には傘をさした多くの観客が詰めかけている様子がうかがえる。

大逃げや一斉スタート…様々なドラマを生んできた箱根路

2012年の第88回大会1区で区間賞の快走を見せる早稲田大2年(当時)の大迫傑さん
2012年の第88回大会1区で区間賞の快走を見せる早稲田大2年(当時)の大迫傑さん
読売新聞社提供(写真パネル)

箱根駅伝は長い歴史の中で、悲喜こもごも数多くのドラマを生んできた。企画展では、多くの人々の記憶に残る、さまざまな名場面や名選手をとらえた写真パネルを展示している。

写真は、2012年の第88回大会の1区で、区間賞の快走を見せる早稲田大2年(当時)の大迫傑さん(現・ナイキ)。前年の大会でも1区に登場し、序盤から飛び出すというセオリーを破る走りで区間賞を獲得し、早稲田の学生駅伝三冠に大きく貢献した。

2016年の第92回大会の鶴見中継所、一斉に繰り上げスタートする10区のランナーたち
2016年の第92回大会の鶴見中継所、一斉に繰り上げスタートする10区のランナーたち
読売新聞社提供(写真パネル)

箱根駅伝には「繰り上げスタート」のルールがあり、先頭から一定以上の差がついてしまった場合、前の区間の走者が中継所に到着しないうちに、次の区間の走者が出発する。チーム間の差が広がる復路でよく見られる光景で、たすきを繋げなかった走者の無念がにじむ。

写真は、16年の第92回大会の鶴見中継所で繰り上げスタートする10区の走者たち。左奥には、神奈川大の走者が見えるが、わずか数秒及ばなかった。“筋書きのないドラマ”とも呼ばれる箱根駅伝には、陽もあれば陰もある。だからこそ、多くの人々の心を掴むのだろう。

企画展では、往年の名選手、現在のエース同士の「ライバル対決」を切り取った一枚や、三越伊勢丹に勤める歴代ランナーの写真が展示されている。「あの選手が…!」と懐かしい気持ちになる駅伝ファンも多いだろう。

これが日本のマラソンシューズの原型だ

1月3日までは、箱根駅伝の創設者であり“日本マラソンの父”として知られる金栗四三ゆかりの貴重な資料が展示されている。

金栗四三が開発に携わったマラソンシューズ(個人所蔵)
金栗四三が開発に携わったマラソンシューズ(個人所蔵)
ハフポスト日本版

写真は、金栗四三の足型に合わせ、オーダーメイドで作られたシューズ。1950〜51年に、マラソン足袋などを手掛けていた老舗「ハリマヤ」で作られたもので、今のマラソンシューズの原型ともいえる。外側に出っ張った作りで、当時のランナーにとっては「足に優しく走りやすい」と好評だったそうだ。

金栗四三が書いた日記からは、彼が中心となり箱根駅伝が生まれたことが分かる(熊本県玉名市所蔵)
金栗四三が書いた日記からは、彼が中心となり箱根駅伝が生まれたことが分かる(熊本県玉名市所蔵)
ハフポスト日本版

1919年(大正8年)11月に金栗四三が書き記した日記。埼玉県内での運動会に審判員として参加した際、東京高等師範学校の後輩や明大生、早大生らと箱根までの「対校長距離リレー」を開催することを話し合った、との記述が残っている。

また、復路ゴール後の1月3日午後3時30分より、箱根駅伝ランナーの経験を持つ俳優の和田正人さん、3代目“山の神”こと神野大地さんなどの豪華ゲストを迎え、箱根駅伝の魅力を語るトークイベントも開催される。

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