大震災5年後の被災地 「飯舘村」住民の苦闘(下)「安全」は確保されたのか?

飯舘村比曽の人々が培った優良農地は一変した。

「実証事業(居久根に関わる除染実験)をしたい」と環境省福島環境再生事務所から比曽行政区に話があり、それが実施されたのは昨年10~11月だ。ただし、菅野義人さんによると、「これでは、とても帰還などできない。再除染をしてもらいたい」という行政区の度重なる要望に応えたものではなく、事務所側は「(同じく放射線量が下がらないとの声が上がった)他の地区からつつかれるので、おおっぴらにしないで。事前にマスコミに出さないで」と要請し、「確認し合ったことを文書にしてほしい」という行政区の求めにも応じず、実施日も明らかにしないという異例の措置だった。

実施の個所については行政区から、除染後の検証測定で玄関側と居久根側の放射線量の差が大きい家々の中から3戸を選んで要望した。それらの測定値は、A宅:玄関側0.72マイクロシーベルト、居久根側2.7~3.1マイクロシーベルト、B宅:玄関側0.61マイクロシーベルト、居久根側3.1~4.7マイクロシーベルト、C宅:玄関側1.12マイクロシーベルト、居久根側5.9~7.4マイクロシーベルト。いずれも極端な差があり、政府による「年間20ミリシーベルト以下」という避難指示解除要件の毎時単純換算の数値をはっきりと超えていた。 

不十分だった「実証実験」

「ここが『実証事業』が行われた現場だ」。昨年12月下旬、菅野義人さんから実施済みの一軒に案内された。現場の家の裏手にまわると、杉の居久根が、家の端から続く高さ5メートルほどの急な斜面の上にあった。その斜面の表土がはがされ、一番下の端に土砂流出防止の土留めが埋められていた。はぎ取りの深さは5センチ程度とみられ、重機ではなく作業員の手による工事だった。

問題は斜面のはぎ取りが、家との境から約5メートルという狭い範囲だったことだ。同省福島環境再生事務所による報告があったのは、比曽行政区が12月4日に開いた除染協議会の席上だ。「環境省側からは、除染効果が上がった、放射線量の低減率はおおむね半減した、と報告があった。が、その資料は回収された」と菅野義人さんは振り返った。

実証事業が5センチのはぎ取りを行ったことは事実だったが、「わずか5メートルの範囲では放射線量の低減効果が限られ、居久根全体を生活圏と認めてほしいという我々の要望からも遠かった」。それでも行政区側は「再除染として全戸で実施し、住民の不安を取り除いてほしい」と訴えたが、その結果を基に基準をつくって除染のガイドラインに盛り込む――との回答が後に残されただけだった。 

「批判を浴びた基準」に説明なく 

「除染後も高い線量が残る場所でフォローアップ(追加)除染を行う」。環境省は昨年12月21日に開いた原発事故被災地の環境回復検討会(第16回)で、「フォローアップ(追加)除染の考え方について」という方針案を公表した。飯舘村のほか南相馬市、川俣町、葛尾村で同様の実証事業(斜面など計30カ所)を行って検討したという。

従来「土砂崩れの恐れが出る」と実施しなかった斜面でのはぎ取りを特例的に認めたが、その理由は比曽行政区など地元からの強い要望があったからでなく、「(政府が決めた17年3月までの)避難指示解除を助けるため」(環境省除染チーム)という政府内の事情ゆえの方針転換だった。除染後も高い放射線量が残る場所を再測定した上で実施を判断する、としているが、その判断基準は、被災地の住民の常識とは違っている。

環境省が公表した資料は、「年間20ミリシーベルトを下回る」という政府の避難指示解除要件を満たさない場合を挙げるが、基準は毎時単純換算の2.28マイクロシーベルトでなく、「3.8マイクロシーベルト」だという。これは、屋外に8時間、屋内に16時間とどまる――という生活パターンを想定した独自の計算だ。国際放射線防護委員会の勧告にこうした注釈はない。

文部科学省も11年、この計算による「3.8マイクロシーベルト」を福島県の学校における校庭・校舎使用の基準として通知し、平常時の基準1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロシーベルト)と比べて「あまりにも高線量」と保護者らの強い批判を浴びた(*)。その経緯がありながら、避難指示解除後にやはり子どもが帰るかもしれない被災地にまた適用しようとしている。

環境省除染チームは筆者の取材に「3.8マイクロシーベルトは政府・原子力災害対策本部の方針で、それに準拠する」と答えた。が、政府方針として決定された前述の「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」(改訂版)に、この規準は明記されていない。丸川環境相はまず、比曽の住民たちが「高線量」と受け止める「3.8マイクロシーベルト」の科学的根拠についてこそ、被災地に向けて説明するべきだったのではないか。(*11年4月、福島県の学校への通知に内閣官房参与の小佐古敏荘東大教授=当時=が「年間1ミリシーベルトで管理すべき」と泣いて抗議し、辞任した。文科省は通知を撤回し、あらためて「年間1ミリシーベルト」以下を目標にすると発表した)。

農地に居座る「仮々置き場」

「標高約600メートルの比曽は冷害常襲地だった。30年前に地区挙げての水田の基盤整備事業をし、土も凍る吹雪の中、トラクターで堆肥をまいた。10アールから11俵(660キロ)も収穫できる優良農地に肥やしたんだ」。菅野義人さんら飯舘村比曽の人々が培った優良農地は一変した。

家屋除染に続き昨年6月から、環境省が田畑の表土5センチをはぎ取る除染を進めている。集落の中央を占める水田に汚染土の仮々置き場(約30ヘクタール)が造成されており、汚染土の黒いフレコンバッグの山が日々広がる。その黒い山は、比曽の共同墓地の真ん前にもそびえ、衝撃的な風景になった。

比曽行政区が環境省側から、用地として水田の賃借を求められたのは14年秋。「復興の妨げになる。山林などに造成を」と菅野義人さん、菅野啓一さんらは反対した。しかし、役員会には借地料が示され、田んぼが10アール当たり18万円、牧野が9万円だったという。

「除染しても、今の市場流通では、ここで作るコメに買い手がつくかどうか。それよりも、収入を得た方がいいのではないか」との意見が過半を占めた。「寄りかかったら、一歩を踏み出せないし、そういうお金は自助、自立の復興に結びつかない。お金で土地を売り、原発を造らせたのと一緒。除染は手段であって目的ではない。政府はそれを考えない。はぎ取られるのは、結束しなくてはならぬ住民の気持ちだ」と菅野義人さんは当時語った。

懸念の通り、仮々置き場は政府方針の避難指示解除の期限である17年3月を超えて居座る見通しだ。汚染土の搬出先となる中間貯蔵施設(福島県双葉町、大熊町)の用地確保が遅れているためだが、環境省からは説明も撤去時期の約束もない。

中間貯蔵施設は最大2200万立方メートルになると推計される福島県内での除染後の土、廃棄物を集約し、30年間保管する施設として計画された。環境省は15年1月の搬入開始を計画したが、地元の同意を得る作業が遅れて着工に至っていない。14年6月、当時の石原伸晃環境相が「最後は金目でしょ」と発言し陳謝したのは、その交渉の過程の出来事だ。

同省の資料では、地権者(登録総数2365人)との契約実績は今月12日現在で50人(約15ヘクタール)にとどまる。それでも環境省は「廃棄物受け入れ・分別、土壌貯蔵など主要施設の建設工事に10月にも着手。17年1月に受け入れ・分別施設を稼働させ、同年秋に汚染土壌の貯蔵を始める。廃棄物の本格輸送も早ければことし4月から実施する」(同20日の河北新報より)との方針だが、あくまで一部でも稼働を急ぐという段階だ。

「仮々置き場はどうなるのか。避難指示解除までに、農地の復旧はできるのか」。15年5月27日、先に紹介した比曽の住民と村幹部の「行政区懇談会」で、この問題についてある農家の男性が質問した。17年3月までに避難指示が解除されたとしても、生業再建の場となる農地が再生され、住民の手に戻るのか、という当然の確認だった。誰もが古里での未来をいまだに描けずにいる。避難先から比曽へ何人戻る意向なのか、住民自身も互いに分からないままだ。 

「天明の飢饉」でも生き残った農家

菅野義人さんは11年3月の福島第1原発事故が起きるまで、稲作と和牛繁殖を営んだ。2.4ヘクタールの水田は仮々置き場の下に埋まり、自宅裏の牛舎には当時いた牛36頭の名札が残るだけだ。原発事故後の4月、全住民避難を政府から指示された後、実際に比曽を離れたのは7月。手塩に掛けた牛を処分しなくてはならなかった。

「牛を積んだトラックが連なって家畜市場へ処分に向かった。生まれたばかりの子牛もいた。苦労して築いた産地が音を立てて崩れた日だ」「空っぽの牛舎を見て人生の全てを失ったと感じ、避難するのを忘れて寝込んだ。もう牛を飼ってはいけないのではないか、と自責の念に今も苦しむ」。

仮々置き場に農業復興を阻まれる状況でも、「帰還して生業を取り戻す」と決意している。除染で土をはぎ取られた牧草地を耕して畑にし、まず野菜を作るつもりだ。避難先の二本松市から通い、牧草地跡に独力で延長計160メートルの配水管を埋設した。「除染作業で土を踏み固められ、雨水があふれていた。排水不良では作物が育たない」。畑開墾への第一歩だった。

比曽では1780年代の天明の飢饉(ききん)の折、91戸あった旧比曽村(当時は他地区も含む)で残ったのが3戸。そのうち1戸が先祖だ。「自分たちはどう生きるか、歴史から試されている。生死を懸けた先人の労苦があっての比曽を捨てることはできない」。

環境相は住民に耳を傾けよ

丸川環境相は今月12日の会見で、「(年間1ミリシーベルトの目標に)何の科学的根拠もない」などとした発言が批判を浴びた末に撤回し、「しっかり福島の皆さまの思いに応えることが大事。引き続き職責を果たしてまいりたい」「被災者の皆さまに対し誠に申し訳なく、あらためて心からおわび申し上げる」と謝罪した(発言は、同13日の河北新報より)。

環境省の先人は、1971年、「子孫のために自然を取り戻す」と語って事実上の初代長官に就いた大石武一氏(故人)だ。経済優先の乱開発時代、尾瀬沼の観光道路建設を中止させた英断がいまも記憶に残る。沼のほとりで小屋を経営していた故平野長靖さんの直訴に耳を傾け、何度も足を運んで、利権がある関係省庁の反対を押し切った。大石さんを晩年まで知る人は「現地視察もせず事業を決める役人に憤っていた」と語る。

未曽有の放射線災害からの古里再生に苦闘し、帰還のためのより安全な環境を取り戻してほしいと願う当事者を、丸川環境相は一度でも訪ね、思いを聴いたことがあるのか。「福島の皆さまの思いに応える」との行動はそこから始まるのではないのか。「17年3月で帰れと言われて生業をどうしろというのか。除染を終えて仮々置き場を撤去し、それから避難指示を解除するのが筋道ではないか。政府は『復興』を早く宣言しようと、その筋道を切り離したのか」。こう問う菅野義人さんらに自ら答えてほしい。

飯館村比曽地区中央の水田を埋めて居座る仮々置き場=2016年1月下旬(筆者撮影)

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寺島英弥

河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2016年2月25日フォーサイトより転載)

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