日本の社会がゆっくりと息苦しくなっていくメカニズム

スポーツ選手や歌手が被災地を訪問します。被災した人達とひとしきり交流し終えると彼等や彼女等はテレビカメラに向かって判で押したように「逆にこっちが元気をもらった」と言います。それはおそらく被災地に入る前から言うと決めていたフレーズです。いったいなぜ彼等や彼女等はそうやって同じことを言わなくてはならないのでしょう?そこにはもちろん理由があります。

スポーツ選手や歌手が被災地を訪問します。被災した人達とひとしきり交流し終えると彼等や彼女等はテレビカメラに向かって判で押したように「逆にこっちが元気をもらった」と言います。それはおそらく被災地に入る前から言うと決めていたフレーズです。いったいなぜ彼等や彼女等はそうやって同じことを言わなくてはならないのでしょう?そこにはもちろん理由があります。

インターネットやSNSの普及に伴って「安全な場所から誰かを糾弾して喜びたい人達」の存在感が増しています。安全な場所から誰かを糾弾して喜びたい人達は、インターネットやSNSでの炎上騒ぎが大好物です。彼等や彼女等は「何らかの理由で今すでに袋叩きされている人」を見つけると喜んで集まってきて集団リンチに参加します。彼等や彼女等はその恥ずべき行為を「正義」だと思い込んでいます。自分は悪い人を懲らしめる作業に協力したのだと本気で思っているのです。実際には彼等や彼女等が行った行為は「反撃できない相手に向かって安全な場所から一方的に攻撃を加えて、相手とは無関係の自分個人のストレスを解消する」という卑劣な行為なのですが、彼等や彼女等は自らの醜さに気づいていないどころか良いことをしたつもりでいるわけです。

インターネットやSNSで袋叩きにされたくないと思うとスキを与えないように気をつけなくてはいけませんから、被災地で軽率な言動や尊大と思われてしまうような発言は控えなくてはいけません。そのため「逆にこっちが元気をもらった」と言うしかなくなるわけです。

現在の日本ではこうやって互いに互いの行動の自由を縛りあう傾向が強くなりつつあります。

特に若い世代ほどその傾向が顕著で、10代20代の若者達は群れからはぐれて袋叩きされる側になってしまうことを異常なまでに怖れています。お互いがお互いの顔色をうかがい、空気を読みあって、空気を読みきれていない人を見つけるとあうんの呼吸で袋叩きにします。

30代や40代、あるいはそれより年配の人にとって、インターネット上で炎上することは不快なことではありますが、それほど恐怖を感じるようなことではありません。もしブログのコメント欄が炎上したら、コメント欄を見ないようにするかコメント欄を閉鎖するかブログ自体を削除するか、いずれにしても炎上騒ぎが実生活に影響を与えることはまずありません。一方で10代や20代の若者は、各種SNSによって友人や知り合いとつながっています。彼等や彼女等は地元の知り合いとも学生時代の友人とも職場の同僚ともSNSを通してつながり続けています。この世代の人がインターネット上で炎上すると、その不名誉な事実と炎上の原因はSNSを通してすべての知り合いに筒抜けになります。少数の親友と深い友人関係を築いてきた世代には理解しにくいかもしれませんが、SNSを通してたくさんの人と薄く広く友人関係を築いている世代にとってインターネット上の世界と現実の世界はひとつのものなのです。

30代以上の人の感覚では、小学校や中学校のような閉鎖された空間で生きている子供達が嫌われ者になることを怖れる気持ちは分かります。しかし世界の広さを知った20代の若者が嫌われ者にならないことを最優先事項だと考えている姿は異常に映ります。ところが現実に、10代や20代の若者はSNSでつながってしまっているがために大人になっても小学校や中学校のような閉鎖された世界から抜け出せないでいるのです。仮に自分一人がSNSをやめてしまっても、自分の知り合い達がSNS上で自分の情報をすべて持っているわけですから状況は変わりません。もし変なあだ名をつけられるような失態を犯したら、もし無様なフラれ方をしてしまったら、そういった恥ずかしい情報はこれから先もずっと知り合い達に共有され続けることになります。過去の知り合いだけではなく、これから知り合う人達に過去の失態を共有されてしまう可能性すらあるわけです。彼等や彼女等にとって世界はとても狭くとても息苦しく、少しの過ちも犯してはいけない場所なのです。

インターネットやSNSの普及は、日本人の国民性のよくない部分をよりいっそう濃くしつつあります。特にインターネットやSNSと共に成長してきた若い世代にその傾向が顕著です。

普段はお互いに空気を読みあい気をつかいあいます。波風が立つようなことはできるだけ避けて、少々のことはうやむやにして済ませてしまいます。そうやって溜め込んだ鬱憤は「批判されている人」を見つけた時にまとめて吐き出されます。特に、直接に接する人に気をつかいすぎている反動で匿名になった時には別人のように汚い言葉を投げつけます。同時に、目に見える範囲の小さなコミュニティーの中で空気を読みすぎている反動で、想像力の枠を超えるほど大きなコミュニティーではまったく空気を読もうとしません。(たとえば彼等や彼女等は、学校や職場といった小さなコミュニティーの中では必要以上に気をつかいあいますが、国と国との外交といった大きな話になると国際社会の空気を読もうとはしません。)

場の空気を読めるのは日本人の長所でもありますが、行き過ぎると「空気を読まなくてはならない」状況を招きますし、最終的には「うかつに本音を語れない」社会になってしまいます。現実に、日本の社会は徐々に息苦しくなりつつあります。このままの状況を放置すれば、戦中の日本のような誰も本音を口に出せない状況に陥る可能性も否定できません。

自分よりも若年の人に向かって「最近の若者はなさけない」と言いたがる人はどの世代にも一定数いますが、この話に関してはこういった指摘はあてはまりません。

というのも、昭和の農村のムラ社会に嫌気がさして都会に出た人は「濃密なつながりのある社会を拒否してつながりの薄い世界を選択した」わけですが、実際にはそれは個人の力だけで選択できることではありませんでした。社会全体が貧困から抜け出すと個人のプライバシーを守るだけの経済的余裕がうまれます。結果として個人主義的でつながりの薄い社会になっていきます。ちょうどその時期に若者であった人達はその流れに乗れたということであって、自力だけでそれを選択できたわけではありません。

インターネットやSNSが普及すると、SNSを介してつながりがうまれます。結果としてムラ社会的な、孤立しにくいかわりに息苦しい社会になっていきます。ちょうどその時期に若者である人達はその流れに逆らうことができません。どの世代の若者は気骨があったとかなさけないとかという話ではありません。

今後もおそらく、人々が孤立し過ぎたことへの反省から「人と人とのつながり」が強くなっていく流れはゆっくりと進むものと思われます。それは、互いに監視しあって足を引っ張り合う息苦しい世界になっていくということでもあります。我々にできることは、これから先さらに息苦しくなっていくであろう日本の社会を少しでもマシな社会にするよう努力することだけです。

まずは若者達に「すでに攻撃されている人を一緒になって攻撃する」ことが恥ずべき行為でなさけないことだと理解してもらうことができたら、彼等や彼女等が感じている息苦しさも少しは緩和されるのではないでしょうか。

あなたはどう思いますか?

(2014年4月23日「誰かが言わねば」より転載)

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