「不謹慎狩り」の原因は震災報道にあるのでは?

被災者たちの生活は、被災していない視聴者が感傷に浸るための道具ではありません。

熊本地震に関連して、芸能人への「不謹慎狩り」と言われる行動が話題になっているようです。たとえば、笑顔の写真をアップした芸能人に対して「震災が起こっているのに不謹慎ではないか」などの非難の声が寄せられるとのこと。

不謹慎狩りをする人たちはおそらく、自分がお悔やみの気持ちを抱いている中で、自分の目に触れる人は同じような心境でいて欲しいと思っているのでしょう。それゆえ違う心境のように見える人々が許せないのだと思います。つまり、一種の「同調圧力」です。   

表裏一体の関係にある震災報道と不謹慎狩り

ただ、確かに不謹慎狩りという現象は由々しき事態であるというのには私も賛同しますが、テレビ番組に出演している著名人やコメンテーターがこぞって不謹慎狩りをする人々を非難していることに対しては、大変違和感を覚えました。

というのも、不謹慎狩りという同調圧力の源泉である「同調欲」を育てているのは、テレビ番組自身のように思うからです。

実際、震災を扱っている番組でも、報道番組というよりも、内容はもはや「震災ドキュメンタリー番組」と言えるものが大半です。家族や地域の絆を描いたものも多く、視聴者が感傷に浸るストーリーのものが多いように感じます。このような番組を視た視聴者は、震災に対して必要以上に共感性が高まるのは間違いありません。

このドキュメンタリー化は震災報道に限らず、テレビ番組の様々な場面で行われています。たとえばスポーツもそうです。海外の報道では選手に対して賞賛も批判も同じように起こるところも多いですが、日本ではワールドカップ等で負けて帰国した代表選手に対しても「よく頑張った!」「感動をありがとう」という同調的視点のものも多いです。

また、日本のスポーツ報道は選手の苦労した過去の経験を美談のように紹介するシーンが多いという傾向もあると思います。以前、朝日新聞社WEBRONZAに寄稿した「五郎丸歩の真似を一般人がしてはいけない ~メディアによる「良妻幻想」の再生産~」という記事でも触れましたが、妻による支えが過度に賛美されるのも、スポーツのドキュメンタリー化の典型例と言えるでしょう。

被災者のためにドキュメンタリー化にノーを言おう

このように普段からテレビというメディアが、「絆」や「一体感」等のような心地良い同調を提供する番組を数多く報じています。視聴者が求めていることが先か、報道が先かはわかりませんが、この仕組みによって日本人の同調欲は常に満たされており、結果として同調しない人々に過敏に拒否感を抱くようになっているのだと思うのです。

不謹慎狩りは、同調欲を刺激する震災ドキュメンタリー番組の副作用として当然のごとく出てくるもの。それを理解し、視聴者の同調欲を過度に刺激するような「震災のドキュメンタリー化」こそ、テレビ局や出演者は「自粛」したほうが良いのではないでしょうか?

被災者たちの生活は、被災していない視聴者が感傷に浸るための道具ではありません。

番組を視ている視聴者の方々にも、「自分が感傷に浸るためのドキュメンタリーは要りません」という強い決意を表明することがまず、被災者を想うことの第一歩だと気が付いて欲しいと思います。

(2016年4月26日「勝部元気のラブフェミ論」より転載)

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