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2015年08月05日 22時28分 JST | 更新 2016年08月05日 18時12分 JST

広島原爆70年

今年6月14日、私は広島駅に新幹線からおりた。広島に来たのは被爆者の方々のお話を聞きにきた。

昭和20年8月6日広島は快晴だったそうだ。8時15分17秒に原子爆弾リトルボーイがアメリカ軍によって投下された。リトルボーイは広島の中心部相生橋付近地上600m上空で炸裂し、最大直径280m中心部温度は摂氏100万度を超える火球となり、爆心地付近の地表面の温度は3000-4000度にも達した。被爆当時広島には35万人の市民や軍人がいたと考えられている。原爆によって死亡した人の数については放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年12月末までに、約14万人が死亡したと推計されている。

(広島市原爆被害の概要から http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111637106129/

今年6月14日、私は広島駅に新幹線からおりた。広島にくるのは25年ぶりだった。14日は日曜日で原爆ドームの前では反核、憲法9条改正反対デモがおこなわれていた。歴史は繰り返そうとしているのか。広島に来たのは被爆者の方々のお話を聞きにきた。日本人として私たちは原爆の恐ろしさ、を世界に伝える義務が在ると思う。

細川浩史さんの話。

細川さんは当時17歳、爆心地から 北東に1.3km離れた広島逓信局4階で被爆した。

当時の日本は敗戦色こく情勢は緊迫していて、17歳の細川さんは勤労動員で広島逓信局に配置されていた。細川さんは前日まで逓信局の仕事で九州に出張しており、8月6日に2ヶ月ぶりに広島逓信局に出勤した初日だった。

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始業開始直後8時15分。突然強烈な閃光と爆風によって叩き付けられた。私の席は末席で柱の陰だったので熱線を浴びずに火傷はしなかったが、全身打撲、窓ガラスが凶器となって突き刺さってきた。私は閃光の「ピカ」しか知らない。聴力が一時的にやられたのか、ドンは憶えていない。全身血まみれだったが歩く事はできた。必死で階段をつたっており外に出た。逓信局正面玄関である石造り階段にはたくさんの人の血まみれの手の跡がついていたのを今でも鮮明に憶えている。同僚とともに近くの京橋川に逃れる途中、 全壊した住宅の下から救いを求める声が聞こえたが、私たちにはその人たちを救出する力は残っていなかった。河原では大火傷の崇徳中学校1年生から水を求められたが、『火傷の重傷者に水を飲ませたらすぐに死ぬ』といわれていたので、水は与えなかった。今思うと、最期に水を飲ませてやればよかったと悔やまれる。放射能のことなどなにもしらなかったので 屋外にとどまり、その夜は市内の同僚の家に泊めてもらった。翌日広島は焼土となっていた。焼け跡には白骨、半焼け、炭化遺体、性別のわからない膨れた遺体が転がり不気味なほど静かだった。徒歩で自宅のある宮島までかえった。そこで妹の死を知った。

私の妹は6月に13歳になったばかりだった。爆心地から800m地点で建物疎開作業中に被爆した。瀕死の妹は軍事トラックで広島市内から郊外に運ばれ近所の主婦にみとっていただく 。妹は『小母ちゃん、手をにぎらせて』といってその方の手を握って6日の夜に息を引き取ったそうだ。7日妹の遺体が帰ってきた。衣服は焼け落ち全身火傷の遺体には浴衣がかけられていたが、顔はきれいだった。妹の作業場では引率教師と生徒228人が全員死亡した。行方不明で遺骨さえ見つからない人もたくさんいるなか、妹が郊外に運ばれたことは不幸中の幸いだった。広島市内で学徒動員の作業中に原爆で亡くなった数は7000人にものぼるという。私の生涯の悲しみは妹を原爆で失ったことである。

原爆体験を話し始めたのは10年前からだった。語るのを拒んでいた訳ではないが、 思い出したくもない出来事である。私の体験は当時広島であの原爆にいた人たちにとって誰もが体験したことだろう。 私は今87歳。残された時間は少ない。戦争は国家的テロで人間を凶器にし、その究極は原爆である。原爆は"広島と長崎"ではなく、"人類全体"に落とされ人間の存在を否定した、と考える。今の広島平和公園は美しい。でも70年 前ここには人々の暮らしが在り、賑わいがあったことを知ってほしい。それが一瞬にして廃墟となり、その暮らしは原爆と共に消えてしまった事を知ってほしい。今後も被爆実体験をとうし『核廃絶の魂の叫び』を自分も言葉でかたりかけ、人々の感性と倫理に訴えていきたい。

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細川浩史さん逓信局正面玄関階段跡にて撮影

白石多美子さんの話

小学校1年生7歳の時、爆心地から4kmはなれた宇品国民小学校で被爆した。当時の宇品国民小学校では児童に縁故疎開をさせていたが、1−2年生はその対象から外れていた。朝8時に登校して白石さんは1人で校庭を半周ほど走ったそうだ。お腹がすいていてそれ以上走る気がせず教室に入った。教室には疎開しなかった高学年の生徒数人を含め、10人ほどいた。

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防空頭巾をはずし、机の横にかけ着席し本を出したときだった。北側の窓に光がはしり、なんだろう、と思うと同時に轟音と共に窓がふきとんできた。 教室は大騒ぎとなりみんな泣いていた 。空襲時に備え、防空訓練を受けてきたが、なにもできなかった。私も多分泣いていた。

廊下にあった下駄箱がなくなっていた。道はガラスの欠片であふれていたが裸足で家まで歩いて帰った。家は倒れてはいなかった。母の顔を見てほっとしたのを憶えている。母は『あんたの顔どうしたんね』といった。頭に2カ所5センチほど、左手首近くにも2カ所ガラスが刺さっていた。母はピンセットを使って足の裏のガラスも、頭、手のガラスも丁寧に取り除いてくれた。近くの外科病院にいったが、陸軍の暁部隊が重症患者をつれ始めてきていて、外傷の軽い私は家に帰された 。

8月7-9日は死体の山の中を母と祖母を探した。祖母は6日の朝に散歩にでたままで行方不明だった。爆心地の近くにもいき、広島は遺体であふれていた。9日に、ある救護所で祖母を見つけた。背中が黒こげでうつぶせに寝かされていた。背中には大きな蠅が止まっていた。自宅そばの医療施設に祖母をうつし私も看病にいったが、私ができることは団扇で祖母の背中に群がる蠅を追い払い、ウジ虫を取り除く事だけだった。12日に祖母は死んだ。

小学校3年生の時、血便と高熱が出て入院した。熱のためうわごとをいう私のことを洗濯場でまだあの子死んでないのだね、と母とは知らずに話しかけてくる小母さんもいた。1年後に復学したあと、同級生から原爆はうつる、といじめられた。仲の良かったお友達にもいじめられた時はつらかった。でも母がいつも励ましてくれた。

21歳で結婚したときには夫と夫の家族に被爆体験のことはいわなかった。差別がこわかった。ある時私の被爆体験が夫にわかってしまった。その時夫は"そうかなっておもっていたよ"といっただけだった。

原爆は思い出したくないことだった。ただ生前母と、このまま誰にも伝えないでいいのかね、と話をしたことがあった。母が他界した後、2000年にピースボランティアに入るが、実体験は13年間話せず、2年前からやっと話せるようになった。話し始めたら当時のことをいろいろ思い出すようになった。話したいわけではない。ただ話さなければ、という使命感が毎年強くなっていく。いろんな人に核のことを考えてほしい。今の私があるのは夫と母のおかげだと思う。 家族、身の回りの人たちに優しい気持ちをもつこと、それが平和への道だと思う

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白石多美子さん新校舎現在の宇品小学校前にて撮影

佐久間邦彦さんの話

当時、生後9ヶ月だった佐久間さんは爆心地から3kmほどの自宅で母親と被爆した。 8月6日は月曜日だったので父は仕事に出かけていた。

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母は洗濯していたそうだ。9ヶ月の私は縁側で眠っていたそうだ。ピカッとひかり、ピシャーと音がした、と聞いている。すべての窓がこわれて、瓦が落ちたが、私たちの家は全壊しなかった。そして母におぶわれ避難場所に逃げる時に私たちは黒い雨にあった。

私は小学校4-5年生の時に腎臓と肝臓を煩っていたので被爆していることはしっていたが被爆者として意識を持ったのは井伏鱒二の「黒い雨」を読んだときだった 。黒い雨と子どもの時の病気、自分の体験が重なった。

その時私は東京にでていた。当時つきあっている人の両親に"広島の人"ということで 差別を受けた。本当に好きだったら、それでも道はあったのかもしれない。しかしとても抵抗を感じた。その後広島に帰ってきて結婚して、子どもも授かった。原爆の影響は家族には今のところでていない。でも子どもに影響がでないか、という心配はある。でもそれを声に出して言う人はいない。

定年前は被爆者としての活動はなにもしていなかった。両親が亡くなった年以外は平和記念式典にもほとんど出席しなかった。今思うと逃げようとしていたのかもしれない。定年間近から自分よりもっと困っている被爆者のために何かしたい、と考えるようになり、原爆症認定集団訟訴に関わり被爆者相談所で手伝うようになった。被爆者の手帳申請の相談にあたり、たくさんの人たちとお話をした。申請のためには当時のことを思い出さなくてはいけない。涙がとまらなくなる人、不眠症になった人もみてきた。私は当時のことはおぼえていないが、その人たちの話をきくことによって当時の事を私は学ぶ事ができる。そういう繰り返しのなかで今日にいたっている。

被爆体験とは、70年前原爆が投下された時の体験だけではなく、原爆投下から今まで続いている生きてきた過程すべてが被爆体験だと私は思う。

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佐久間邦彦さん広島平和公園原爆の子の像の前にて撮影

広島平和公園には折り鶴の少女、佐々木禎子さんモデルの原爆の子の像がある。

禎子さんは昭和30年に原爆による白血病が発病して同年10月に享年12歳、1年も満たない闘病生活の後亡くなった。禎子さんと同じ年のピースボランティアの山根和子さんは爆心地から1.5kmはなれた西区楠1丁目で被爆した。禎子さんが被爆したところから100mも離れていないそうだ。山根さんの3歳年上の兄は爆死したそうだ。被爆後山根さん家族は北東に避難し助かり、禎子さん家族は北西に避難し黒い雨に降られた。被爆10年後の禎子さんの発病、死亡 は禎子さんと同じ経験を共有している同世代への衝撃は大きかった。山根さんは発病の不安のなか、結婚、子どもを産み、今は被爆3世の孫がいるそうだ。山根さんは命の大切さを孫に伝えたい、と思い活動を始めた。

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山根和子さん楠町にて撮影

禎子さんの死後、同級生の呼びかけによりはじめった『原爆の子の像』設置運動がはじまり昭和33年原爆の子の像が広島平和公園完成した。原爆の子の像の前の碑には

これはぼくらの叫びです

これは私たちの 祈りです

世界に平和をきずくための

と刻まれている。

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私は戦争を知らない。でも70年前日本は戦争していた。広島には原爆が落ち、たくさんの無実の命が落とされた。私たちはその事実を忘れてはいけない。

取材にご協力いただいた広島平和記念館様、広島県原爆被害者団体協議会の大中伸一さん、お話を伺わせていただいた細川浩史さん、白石多美子さん、山根和子さん、佐久間邦彦さん、どうもありがとうございました。