有史以来、人が「物」として人を所有する奴隷制は世界中で行われてきた。
中国の奴隷制度は1910年に法律上禁止されたが、共産中国成立の1949年までは残っていた。(中国西南部に住む少数民族イ族の奴隷制度は、1956年に廃止)。
日本の奴隷制(奴婢制)は律令制と共に10世紀初頭に崩壊したが、人身売買は江戸時代まで行われていた(「唐行きさん」を含めれば明治時代まで)。
反逆者家族の奴婢化と奴婢世襲を法定化
朝鮮での奴隷制度は箕子朝鮮時代に始まったとされ、紀元前194年から千年以上の存続と廃止を繰り返し、918年高麗王朝に復活した。
中世の高麗王朝の下では、既成の奴婢構成のなかに反逆者家族の奴婢化が加えられるようになった。そして社会経済の発展に伴い奴婢の数を確保する必要から、奴婢世襲を法定化する〈賤者隨母法〉を制定(1039)し、身分の統制を強めた。
一方、奴婢たちは身分統制と収奪の強化に抗して、しばしば身分解放を求める反乱を起こした。
公・私奴婢に分け掌隷院が厳しく管掌
近世の朝鮮王朝になると、治国法の一つ〈刑典〉に、公賤と私賤に分けて公・私奴婢*1の身分と刑罰に関する綿密な条項を定め、さらに刑曹(司法省にあたる)の外局として、奴婢の帳籍と訴訟事務を管掌する掌隷院(チャンネウォン)を設けた。また逃亡した奴婢を原状に戻すための時限立法〈奴婢推刷法〉を制定することもあった。
ちなみに1592年、壬辰倭乱(文禄の役)で放火された王宮・慶福宮の犯人は秀吉軍だといわれるが、実は混乱に乗じ掌隷院で管理していた奴婢の簿籍などの消滅を図った奴婢たちの犯行であった。
同居、通い、独立奴婢に分かれ、独立が増加
ところで奴婢は、官衙内または所有主の家に住みながら、労役させられる〈率居奴婢〉、官衙内や所有主とは同居せず、隷属する官衙の労役か、所有主が指示する労働に従事する〈外居奴婢〉、官衙や所有主にしかるべき金銭や物を納付する条件で独立した生活を認められる〈独立奴婢〉に分かれた。
そして初期は〈率居〉と〈外居〉の奴婢が多く、社会的性格は人として扱われる割合が四,物として扱われる割合が六の〈人四物六〉といったところであったが、後期になるにつれて〈独立奴婢〉が増え、社会的性格は〈人六物四〉へと変わっていった。しかも〈外居〉と〈独立〉の奴婢は私有財産の所有を認められ、奴婢を所有して働かせることもできた。
なお蓄財をした奴婢のなかには良民の戸籍を買って身分を変える者も現れた。さらに商業の発展、農業生産力の増大により〈外居〉〈独立〉の奴婢の経済的自由は広まった。それは奴婢から良民への身分変動の加速をもたらし、奴婢制度の崩壊へとつながるものであった。
甲午改革で奴婢制度は法的には撤廃し崩壊へ
奴隷制度は日清戦争が起きた 1894 年の甲午改革で法的には撤廃されたが、1905年の段階でも多数の女性が奴婢の遺制である床奴(サンノ=食膳運び)、上直(サンヂギ=奥方の下女)の身分にあった。1910年、朝鮮総督府は奴隷の身分を明記していた旧戸籍を廃止し、新戸籍制度を導入した。
奴婢制度撤廃後、違法に行われた奴婢売買文書
こうして、北東アジアから奴隷制は一応、姿を消したが、北朝鮮では「政治犯強制収容所」出現と同時に実質的な奴隷制度が再現されている。中国でも、多数の脱北女性が人身売買の対象とされて農村部や風俗店に売られている。のみならず、中国人の子供までが人身売買の対象になっている。失踪した子供の数は、年間 20万人と言われている。21 世紀の今日でも行われている「奴隷制」は、一日も早く根絶されなければならない。
*1. 「奴」は男性、「婢」は女性奴隷を意味する。
韓国語で奴婢はノビという。公奴婢は官衙に所有され、私奴婢は両班などに所有された。
(文/大宅京平/北朝鮮難民救援基金NEWS JUL 2016 No.101より転載)
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