はじめて書いたブログが、私を変えた。大切なのは「文章力」だけじゃなかった。

自分語りが苦手だった大学生が、勇気を出して自分のことを話してみた。

今年の3月11日、私はひとり被災地にいた。津波で甚大な被害を受けた仙台市荒浜地区の慰霊祭を取材をするためだった。

右も左もわからないけど、とにかくやってみるしかない。メモとペン、そして自前の一眼レフを持って大勢の報道陣に紛れ込んだ。

なんとか取材を終えて、記事を掲載した後。ほどなくして、取材先からこんなメールが届いた。

「どこの新聞やテレビよりも、丁寧で真摯な言葉を綴ってくれてありがとう。これからも『言葉』を大切に記者のお仕事を頑張ってください」

パソコンを閉じてから、天井を見上げて、ふーっとため息をついた。そうか、私は記者になったのか。生意気だけど、初めて認めてもらったような気がした。

PhotoTalk

毎日ではないが、ふと携帯やテレビを見ているとき、たまたま時計が14時46分をさすと、妙な胸騒ぎがすることがある。普通にしていれば、何事もなく過ぎていく1分。その1分に、私は無関心ではいられない。

東日本大震災で被災した私は、3.11からずっと時間が地続きでいるような感覚がある。もう7年も経って以前よりは気持ちが落ち着いてきたが、それでもあの日のあの瞬間がフラッシュバックすることがある。当時中学生だった自分の記憶が、未だ成仏できずにしがみついているのだ。

昨年、ハフポストに「中間被災者として考えたこと」と題したブログを綴った。初めてのブログ、拙い筆致ではあったが、新聞に紹介されラジオに出演する機会に恵まれた。それを見たり聞いたりした人がわざわざ連絡をくれたり、ソーシャル上では「救われた」「ありがとう」「実は私も」という言葉を乗せて共有してくれる人もいた。

ブログを書く前の私は、人を傷つけたくない一心から、震災に関する一切のことに口をつぐんできた。友達にも、恋人にも、家族にも、自分が抱える悩みやトラウマを打ち明けられなかった。自分よりも被害が大きかった人たちの気持ちを考えると、普段の何気ない言葉選びにも過剰に敏感になっていった。

私なんかが「つらい」と言ったら、もっとつらい人たちは壊れてしまう。どうせ誰かを傷つけるくらいなら、何も喋らないほうがいい。そう言い聞かせて、どんどん自分の殻に篭っていった。

そんな孤独や葛藤をはじめて吐露したのが、このブログだった。メディアが伝えてきた「被災者」ではないけれど、第三者にもなれない。漂流する気持ちを「中間被災者」と表現した。

当然、迷いもあった。こんな記事、公開してもいいのかな。また誰かを傷つけたりはしないかな。そんな私に、「きっと同じ悩みを抱えてる人がいるから」と背中を押してくれたのは、先輩の記者だった。

Getty Images/EyeEm

今回、ハフポストの5周年企画「#アタラシイ時間」開設に合わせて、竹下編集長がブログを書いた。その中に、こんな印象的な言葉があった。

"文章が書ければ、人に自分の苦しみを訴えられ、人に喜びを伝えられる。人生の次のステップを切り開ける"

ハフポストでの私の主な業務は、国内・海外問わずニュースを書く、ニュースエディターの仕事。その中でもとりわけファッション、カルチャー、芸能など、トレンドに明るい若者としてできることを必死で模索してきたつもりだ。

一方で、自分の内面や考え方を書くブログは本当にヘタクソだった(正直今でも得意ではない)。だからこんなにささやかで、ちっぽけな自分語りに耳を傾けてくれる人たちがいるのは、シンプルに尊いことだ。読者の反応に色んな思いを馳せて一喜一憂することもあるが、それも私の言葉に血が通っている証拠だと思う。

つながり過多の時代、自分の発する言葉で「誰かを傷つけるんじゃないか」「私なんかに語る資格はあるのか」と、どうしようもなく不安になるときがある。そう思える人はきっと「やさしい人」なんだろう。他人の気持ちに土足で踏み込む前に踏みとどまり、立ちすくむ感受性があるということだから。

でも、やさしい人が押し黙って傷つくだけの世界は、もうおしまいにしたい。

pic_studio via Getty Images

ハフポストで働き始めた昨年10月、#MeTooムーブメントがソーシャルメディアを席巻していた。ハリウッドを震源地とし、その後洋の東西を越え日本でも大きなイシューとして取り上げられるようになった。ハフポストも「Break The Silence」という特集を組み、連日その動きを伝えている。

性の被害は長らく、深い沈黙の中に閉じ込められてきた。勇気を出して告白したとしてもバッシングに遭うこともある。そうして瓶詰めになった言葉は、行き場を無くし、漂流する。だったら私たちは、黙っている方が良いのか。私たちにできることは社会を信じ、祈り続けることだけなのだろうか。

社会学者の岸政彦さんは『断片的なものの社会学』の中で、こう書いている。

「神でない私たちは、それぞれ、狭く不完全な自分という檻に閉じ込められた、断片的な存在でしかない。そして私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる『権利』がある」

#MeTooのハッシュタグに後押しされた言葉の数々は、それぞれは断片的なものであっても、それがいつしか大きなうねりとなり、強い連帯を結んだ。私たちには声をあげる権利がある。少なくともそれだけはできるのだ。

「中間被災者」のブログを書いたのも、同じ理由だ。今まで語られてきた「被災者」からこぼれ落ちてきた存在だからこそ、そのモヤモヤを発信し、「実は私も」というきっかけになれたらと思った。

これが正義だとか、メディアのあるべき姿だとか、そんな筋肉質なことが言いたいわけではない。普段からブログを書いているわけではないし、内定先もマスコミじゃない。

けど実際に、私の書いた記事に共感してくれて、「書いてくれてありがとう」「救われた」「実は私も」と言ってくれる人々の存在も忘れたくない。あれだけ口に出すのが怖かった言葉も、今では私をそっと支える位置についてくれている。

文章を書くようになってからは、書くからこそ誰を傷つけるかに自覚的になれたし、その分守りたいものも明確になった。両者を天秤にかけながら言葉を選ぶのはそれなりの覚悟と勇気がいる。でも押し黙ってモヤモヤしていた頃よりも、できる範囲でアタラシイ自分を生きようとしている。

文章を書くことは、ライターだけの特権じゃない。それは自分自身に向き合う時間を作ることだ。私もこの原稿を大学の授業の空き時間に書いていたりする。ともするとどこか遠くの、自分が予想もしていないようなところで、この言葉が誰かのきっかけになるかもしれない。なんて思いながら。

そんな「#アタラシイ時間」を教えてくれたハフポストに感謝している。

HuffPost Japan

文章を書くことは、アタラシイ自分に出会うチャンスかも。

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