人はどこで死ぬのだろう。
厚生労働省「人口動態統計」をみると、2014年に死亡した127万人のうち医療機関である病院と診療所で死亡した人(以下「病院死」)が77.3%、福祉施設である老人保健施設と老人ホームで死亡した人が7.8%、自宅で死亡した人(以下「在宅死」)が12.8%となっている。
今とは逆に1951年の「病院死」は11.6%、老人ホームを含む「在宅死」は82.5%だった。
その後、「病院死」が増加し、1976年に「在宅死」を上回り、1999年に8割を超えた。2011年以降は減少傾向にあるのだが、医療機関における死亡が5割程度である欧米諸国に比べると日本の「病院死」の割合は非常に高い。
その背景には戦後の医療の発展および皆保険制度により多数の国民が過大な負担なく終末期医療を享受できたことがある。また、核家族化の進展で一人暮らし高齢者が増え、在宅での看取りが難しくなったこともあろう。
高齢化が進展した今日、自宅で最期を迎えたいと願う高齢者が増えているが、訪問診療や訪問介護が十分ではないために、なおも「病院死」が大半を占めているのかもしれない。
かつて「在宅死」が普通だった時代、多くの人が親や祖父母などの近しい人の最期を自宅で看取り、その経験から「死の迎え方」を学ぶことができた。今では「死」を病院に委ね、家族や自らの死について考える機会が乏しい時代になってしまった。
長生きすれば体のどこかに不具合が生じるのは当然で、それに医学的に病名を付与し、治療と投薬を行うことは可能だ。よく「老化」は病気ではないと言われるが、長寿による「老衰」は徐々に身体機能を低下させながら「死」に向かう自然のプロセスなのだろう。
医療の目的は、人間を総体としてより良い状態に回復させることであり、個別の検査結果に基づき対症療法を重ねるような「病気を診て人を診ない」ことではない。医療が発展した現在、終末期医療は人工呼吸器の装着など延命治療である場合も多い。
しかし、人生の看取りに大切なことは本人や家族が望む「最期」をサポートすることであり、すべての医療行為を受けることが本人や家族にとって常に最善の選択とは限らないのではないだろうか。
私たちは単に長く生きたいのではない。幸せに生きて、幸せに逝きたいのだ。そのためには自らのリビングウィル(生前の意思)を明確に示すことが必要だ。
寿命が延びて長い老年期を生きるようになった現在、心安らかな穏やかな人間らしい「最期」とはどのようなことかを考えることが重要である。
自分らしい「死」を迎えるQOD(Quality of Death)は、自分らしい生き方QOL(Quality of Life)の実現と表裏一体だ。幸せな「最期」を迎えるために、長寿時代の"看取り図"が求められている。
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(2016年3月8日「研究員の眼」より転載)
株式会社ニッセイ基礎研究所
社会研究部 主任研究員