これからは、デカい「ビジネス」よりも小さな「商売」を。

雇用者側の横暴が許されてきたのは、「社畜」に稼ぐチカラがなかったからだ。「そんなん言うならやめます」と言い返す能力がなかったからだ。あらゆる労働問題のキモはここだ。被雇用者の社会的な弱さとは、つまり稼ぐ能力の弱さである。

 いわゆる「社畜」と呼ばれる人たちの何が哀れかといえば、会社から無茶を言われたときに「そんなん言うならやめます」と言い返せないことだ。サービス残業のせいで恋人とデートに行けなくなり、強制的な飲み会のせいで欲しいDVDが買えなくなり、生まれたばかりの娘を残して遠隔地に飛ばされる――。

 そんな雇用者側の横暴が許されてきたのは、「社畜」に稼ぐチカラがなかったからだ。「そんなん言うならやめます」と言い返す能力がなかったからだ。あらゆる労働問題のキモはここだ。被雇用者の社会的な弱さとは、つまり稼ぐ能力の弱さである。

 他国の状況は知らないが、日本の労働組合はこの問題を放置してきた(というか自力で稼ぐという発想すらなかったのかもしれない)。労働者の味方だという大義名分を掲げながら、実際には「雇用者との共存・共栄」を指向し、労働者の社畜化に尽力してきた。労働者の「稼ぐ力」には注意を向けてこなかった。

 それが、ほんとうに労働者の味方だと呼べるだろうか?

 言うまでもないが、ヒトはカネがないと生きていけない。子供たちは親のカネで命をつなぎ、専業主婦は夫の稼ぎで生きている。ホームレスだって、最低限のカネを稼ぎながら暮らしている。カネはいくらあっても幸せにはなれないが、貧乏はそれだけで不幸だ。なぜなら、死に直結するから。

 シマウマにとって生きるということは、草をはむということだ。ライオンにとって生きるということは、獲物を狩るということだ。そしてヒトにとって、生きるということはカネを稼ぐということだ。幸福はカネでは買えないけれど、カネがなければ生きていくことすらままならない。

 では、どうすれば貧困をなくせるだろう。

 国家や大企業といった巨大組織に命を脅かされず、私たちが自由で主体的に生きるには、どんな社会が必要だろう。現在の日本で広がる貧困は、いったい何が原因だろう。

 たとえば「再分配の政策が機能を果たしていないから」とか、「定年延長のせいで若年層の雇用が奪われているから」とか――。たしかにそれらも格差拡大の重大な原因で、できることなら今すぐ解決すべき課題だ。

 しかし何より、日本の労働者は成長過程で「稼ぐ能力」を剥奪されている

 いちばんの問題はここだ。

 自由な市民ならば当たり前に身につけるべき「稼ぎ方」を、日本の子供たちは誰からも教わらない。ごく一部の本当に見識の高い子供だけが、独学で身につけている。多くの日本人は「稼ぎ方」を――自立して生きる方法を知らないまま、組織に守られて一生を終える。

 しかし今、国家も企業も私たち個人を守ろうとはしなくなった。だからこそ、就労や貧困にまつわる問題が一気に噴出したのだ。


      ◆


 私たちには「起業する人=特別な人・ひとかどの人」というイメージがある。というか、成長する中でそういうイメージを植えつけられる。

 しかし、それっておかしくないだろうか?

「自分が作ったものを売る」のは、じつに原始的な行為だ。

 そもそも「取引」は、ヒトをヒトたらしめる行動の1つだ。ヒト以外に、物やサービスの交換を自由に行える動物はいない。交尾の見返りとしてエサを与えるといった行動なら珍しくないが、しかし、交換の対象が最初から決まっている。ところがヒトは、あらゆるものを交換の対象とできる。これはヒト以外の動物には──チンパンジーでさえも──できないことだという。「取引」は、火の使用や道具の二次製作のような、ヒトを特徴付ける行動の1つだ。

 何度でも書こう:「自分が作ったものを売る」のは、じつに原始的な行為だ。

 誰にでも許されているはずの行動であり、参入障壁は低くなければならないはずだ。

 しかし現代の日本では、親たちも先生たちも、ほとんどのオトナは組織に守られて暮らしている。子供たちは「自力でカネをかせぐことの重要さ」に気づかないまま大人になる。私はべつに、FXとかデイトレとかを小学校で教えろと言いたいのではない。

 しかし、せめて複式簿記と、基本的な商習慣ぐらいは教えるべきではないか。

 いまの日本人には「簿記は商科や経営学科のための専門科目だ」という印象があるだろう。しかし複式簿記や売買のマナーは、じつは何百年も前から初等教育に組み込まれていた。現代でしか通用しない「流行の考え方」ではなくて、本当ならどんな時代のどんな人も身につけるべき人類の叡智だ。

 法律は10年もしないうちに改正されるが、簿記の基礎は500年前から変わらない。たまたま現代日本では初等教育から取り除かれているだけだ。これは教育制度を設計した時代の施政者のせいだろう。彼らはきっと、自由で自発的に商売をする市民の増加を嫌ったのだ。敗戦国から復興するには、勤勉で忠誠心の高いサラリーマン兵士が必要だった。組織に頼らず商売する能力は、邪魔だった。

 しかし時代は変わった。

 つい先日ケータイをアンドロイドに変えたが、アプリ市場の元気よさに驚かされた。技術の高さはもちろんのこと、何よりもアイディア勝負な印象で、カンタンなプログラムを書けるなら小中学生でも商売を始められる印象を受けた。

 しかし、カネの管理と売買のマナーは絶対に必要だ。そして、それらは教わらないと身につかないのだ。

 学校教育は「進学して就職していい収入を得る」ためのマイルストーンではない。世の中のさまざまな階層の子供と出会い、ともに生きていく方法を身につける場所だ。世界の広さを学ぶ場であり、民主主義の実践の場だ。

 教室は、サラリーマン兵士の採れるキャベツ畑などではない。


      ◆


 たとえば趣味の一環で作ったアプリを売るとか、魔改造したフィギュアをヤフオクに出品するとか――べつに「さあ起業だ!」みたいに気を張らなくても商売は始められる。何千人・何万人を相手にする必要はなく、まずは周囲の20人が喜ぶものを作ればいい。その20人が、それぞれ知人の20人にそれを紹介して、その人たちがさらに他の20人に――と、今の時代は情報が拡散していく。

 この口コミのネットワークは、7人目まで進むと日本人口を超える。たった7人だ。

 まずは周囲20人を驚かせること。それが肝要だろう。

 周囲の20人を相手にした「商売」、ビジネスと呼ぶにはあまりにも小さな「商売」、そういう商売だけで食べていくのは難しいかもしれない。効用水準を高めるには就職を目指したほうがいいかもしれない。しかし、それでも、「会社で働くことだけが生活手段」という生き方はもうやめよう。

「商売」は、特別な人だけに許された神聖な行為ではない。

 ほんの数十年前まで、商売を日常の一部に組み込んだ自営業者がたくさんいた。たとえば朝食のトーストを焼くような、あるいはシャツを洗濯するような ――「商売」は、そういう当たり前の営みなのだ。


      ◆


 技術革新がありながら失業率の増加が進むのであれば、それは技術革新が悪いのではなく、新たな仕事を生み出せない社会構造の側に問題がある。

 日本は世界でもとくに情報化の進んだ国の一つだ。そういう国である以上、「どうやって失業者にカネを配るか」という対処療法だけでなく、「新しい仕事を生み出す世の中をどうやって作るか」を考えなければいけない。さもなくば私たちの仕事は機械に奪われ、街は失業者で溢れてしまう。

 先日、「楽しい!」を仕事にしようという記事を書いたところ、「楽しい仕事の奪いあいに勝たなくてはいけない」というコメントを頂戴した。しかし奪い合うもなにも、楽しい仕事は自分で作り出すモノであるはずだ。

 また、楽しい仕事は大企業にもあるから無理にフリーになる必要はない、というご意見もいただいた。まったくその通りで、カネのかかった大規模なプロジェクトを先導するのはとても楽しいはずだ。が、しかし日本人全員が大企業に入れるわけではない。

 圧倒的多数の大企業に入れない人が――あるいは組織での生き方に馴染めない人が――どうやって生きていけばいいのか。負け組の烙印を押されずに幸せを掴むには、なにをすればいいのか。

 今までの日本では、劣悪な労働環境から抜け出すにはペンを握り、死ぬ気で勉強するしかなかった。世の中を変えるには、学歴を身につけるか、あるいは銃を握るしかなかった。

 けれどペンも、銃も、本当の自由はもたらさない。新しい支配層を生み出すだけだ。

 私たちが主体的に生きるのには、強いリーダーも優秀な官僚も要らない。

 組織に頼りきった生き方はやめて、個人のゆるやかな連帯のなかで生きよう。

 自立した個人の共同体――未来型のギルド――のなかで生きよう。


 ペンでも銃でもなく、私はそろばんを握りたい。


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