世界に大きな変化が起きそうな2016年。現代日本人に必要な備え

今後最も深刻になるであろう問題をあえて一つだけ選べと言われたら、あなたなら何を選ぶだろうか。私は、並み居る大問題の中からこれを選ぼうと思う。『大変化』だ。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

▪今年最も深刻になる問題

昨年末に準備していた2015年の総括(10大ニュース)が、多忙のため年内に書ききれなかったため、2016年の年初は、昨年同様、本年および今後のトレンドをいくつか取り上げてまとめようと思って書き始めたが、誰でも思いつくような内容をここで繰り返したところで、さほど意味もないし面白みもない気がしてきた。

重大な問題がない、というのではもちろんない。それどころか、2016年の日本の同代人が共に直面し、苦闘しなければいけない問題は数多くかつ重い。テロと戦争、テクノロジーが変える社会の激変、世界経済の崩壊、少子高齢化社会への対応、急速に広がる貧困等々、あげればきりがない。

だが、日本のごく普通のビジネスマンの立場で、今後最も深刻になるであろう問題をあえて一つだけ選べと言われたら、あなたなら何を選ぶだろうか。私は、並み居る大問題の中からこれを選ぼうと思う。『大変化』だ。

今後、個人の経験はもちろん、過去の歴史の教訓でさえほとんどあてにできないような激変の時代が本当の意味で幕をあける。2016年にはそのことを誰もが意識せざるをえなくなると考える。

昨年は、2015年は『テクノロジー・ドリブン』すなわち、技術が社会を大きく主導する時代が到来することを意識せざるをえなくなると述べたが、2016年はそれはもちろん前提とした上で、その影響が社会の様々な部分に及び、土台を揺さぶり、また思いもよらない新しい出来事が起きてくる、そんな年(そのトレンドをいやでも感じざるをえなくなる年)になると考えている。

▪変化を恐れる日本人

変化はそれ自体、価値中立的、すなわち本来、良し悪しを初めから決めつけることはできないものだ。それを受け止める側の心がけ次第で良くも悪くもなりえる。もちろん、テロや戦争のように良い方向など見出せない変化もあると言う向きもあろうが、押さえつけられた矛盾や鬱積の発露がテロや戦争だとすれば、それをきっかけにして、根本的な改革を実現するチャンスにはなりえる。変化で没落する人もいれば、変化をきっかけに躍進する人もいるはずだ。

ところが、今のほとんどの日本のビジネスマンは変化を恐れ、変化を望まなくなっているのではないか。マクロの大変化が好ましくない方向だろうが、好ましい方向であろうが、その変化についていけずに脱落することに対する恐怖で身も竦む思いをしている人がほとんどではないか。そんな人に、統計学をやれだの、プログラミングを身につけろだの焚きつけたところで、いかほどの気休めにもなるまい。

しかも、変化の果てに到達すべきゴールやありうべき状態が想定できても、そこにどのようにたどり着くことができるのか、その方法が皆目見当もつかないのがほとんどの人の正直な実感だと思う。

▪『安全』『安心』社会への過信

昨今の日本で『望ましい社会のあり方』を問えば、一番に出てくるのは、『安全』『安心』であることは誰しも異論がないところだろう。来たるべき『大変化』の時代を遺憾なく体感し飛躍するための『自由』より、過剰気味の管理を受け入れてでも、『大変化』に翻弄されるくらいなら『安全』や『安心』に逃げ込みたいのが現代の大半の日本人なのではないか。

極論すれば、全ての人間にGPS機能付きのチップが埋め込まれた究極の監視社会でさえ、『安心』『安全』が保証されるのであれば受け入れかねない。そんな空気を感じるのは一人私だけではないはずだ。

これが大変ゆゆしい事態である理由はいくつもあげることができるが、何より憂うべきと私が感じるのは、社会から高等な感情や感性、情操、愛情、深い共感等が見失われてしまい、そこが生きるに値する『場』ではなくなってしまうように思えてならないことだ。『安全』で『安心』な社会であっても、テクノロジーの進化の恩恵として貧困がなくなっても、格差がなくなったとしても、そんな社会はほどなく死滅してしまうことは必定だ。

▪『感情の劣化』と過度な『法化社会』

思想家の東浩紀氏の主催するゲンロンカフェに、最近何度も登場するようになった社会学者の宮台真司氏は、東氏との議論でも、最近度々言及するようになった『感情の劣化』*1について繰り返し述べているが、この原因として70年代後半から80年代にかけての日本社会の変質をあげている。

箱ブランコなどの主要遊具の撤去等に例を見るような、親や教師の過剰介入により、子供の生活空間を過剰に『安全』で『安心』な場にしてしまった結果、子供なりのリスク、混沌、恐怖体験が存在する一方で、子供を自立した大人に育て上げる土壌とも言える『子供の領分』が喪失してしまったと述べる。

だが、考えてみればこれは子供の世界にのみ起きたことではなく、ある時期から日本社会全体が熱病に浮かされたように、過剰な『安全』『安心』を求め始めたことと軌を一にする。そして、その現れの一つとして日本の社会は行き過ぎた『法化社会』(社会の隅々まで法的ルールが浸透し、公正な裁判を通じた紛争解決とそのインフラ整備が高度に実現した社会)へと暴走を始める。

宮台氏も指摘するように、結果として、概念言語だけで物事が解決すると思い込む者が激増してしまった。概念言語の外側には、音楽等の芸術、愛情、感情のような『概念言語ではないもの』があり、人間社会はその両方のバランスで成り立っていることが軽視されるようになってしまった。

そもそも法化先進国の欧米でも、その問題点は指摘されていたが(訴訟社会のストレスや市民的自由の後退等)、案の定、どんなささいな問題の解決でも安易に法律に丸投げすることで、共同体や個人どうしの具体的で、人間的な問題解決能力を失わせ、それ以上に共同体や個人間の信頼感や一体感を失わせることになった。法的な、言語概念に偏った『安全』『安心』を安易に求めた結果、社会や共同体が保持していた『安心感』やその源泉自体を消し去ることになってしまった。

▪ニューエイジ的感性の忌避の負の影響

東氏は、同種の現象に対して、オウム真理教事件の衝撃で、人々が宗教的/オカルト的なものに過剰な警戒感を抱き、宗教/神秘的なものとは切っても切れない関係にあったはずの思想/哲学からこれを切り離してしまったことにその主要な原因を求めているようだ。90年代に端を発したこの動向が行き着いた末に、人々はエビデンス/統計数字偏重となり、文系を蔑視し、文学的/SF的想像力が衰退してしまった結果、日本のIT文化は過度に工学的/合理主義的な文化との親和性が高くなってしまったと語る。

ニューエイジやヒッピーの思想と今でも親和性を失わない米国のIT文化は対照的に、工学的な先進性もさることながら、思想や文化としての世界的な影響力も桁違いに大きい。東氏は、最近刊行された『ゲンロン1現代日本の批評』*2でも、このことに言及している。

よく言われることですが、九〇年代に到来する情報技術革命は、思想的にはニューエイジと深く結びついています。ところが、日本では、オウム事件をきかっけにニューエイジ的な感情が社会的に認められなくなってしまった。『疑似科学』のひとことで片づけてしまっている。それが二一世紀に入って以降、日本で思想を立ち上げることをひどく困難にしているように思う。

ニューエイジでなにが問われていたのか、正しいとかまちがっているとか以前に、思想的に検討する必要がある。その背景が共有されていないと、情報技術が社会を変えるという話も、金が儲かるというビジネスの話から外に出ないんですよね。アメリカでは情報技術革命は人類文明を変えるみたいな話が、たいへんまじめになされているわけだけど、日本ではそういう話はすべて『疑似科学』になる。

私自身、欧米で盛んに交わされている技術革命に関わる議論をチェックしていると、『情報技術革命は人類文明を変える』という主張に強いリアリティを感じるし、議論は益々ヒートアップして来ているように見える。だが、日本でこれを持ち出しても『大人気ない』『オカルト』『まじめな議論ではない』というような驚くほどクールな反応しか返ってこないことが多い。(日本の思想が、オウム事件後面白くなくなったことは、私自身過去何度も書いてきたことでもある。)

もちろん、私も『オカルト』や『危険な宗教的熱狂』に安易に与するものでは決してないが、過度なニューエイジ的感性の忌避の負の影響が、『過度なエビデンス/統計数値偏重』『文系の蔑視』『文学的想像力の衰退』等、連綿と表面化しつつある現代では、これも宮台氏が述べるような『感情の劣化』の原因であり結果であることは明白だし、この問題を放置したままではもはや日本は立ち行かないとさえ感じる。

▪感情を軽視し、感情で自滅する人間

公平に見て、『感情の劣化』は実際に起きていると言わざるをえないし、若年層の性/結婚からの撤退に象徴されるような、社会かから『精気』が抜けてしまったような状態が現出してきていることとの関係もまた否定できない。また、つまらない扇動にやすやすと乗って感情が暴走してしまうような現象も各所に見られるようになったが、同根の現象の一環と見てよさそうだ。

世界で盛り上がる情報技術革命(および人類文明の変革)に背を向け、変化を嫌い、狭い『安全』『安心』に自閉しようとする姿勢は、まるで合理化と技術化が進んだ果てに、魂が葬り去られたような社会を先取りしているように見えてなんとも寒々とする。これでは、機械が栄えて人間社会が死んでしまいかねない。

前回の記事でも述べた通り*3、人工知能に人間のような自意識が宿ることは当面期待薄だとしても、人工知能が人間の感情を高度にシミュレートして豊かな感情に溢れた人間のような振る舞いをするようになることは実現性が高いと考える。

だが、感情は場所や時代によってかなり違う。果たしてどの時代の感情を参考にするのだろうか。ことによると、シミュレートの結果として人工知能のほうが豊かな感情や感性を持ち、人間のほうが古臭いロボットのような存在になりかねない。これはあながちブラック・ジョークと笑飛ばせないものがある。

宮台氏もこの問題を取り上げていて、『かねてSF映画は『ターミネーター』(1984年)に見るように非人間的なコンピュータが人間を滅ぼすというビジョンを描いて来た。だがそうならない。人間よりずっと人間的なコンピュータが、人間的なものを保全するためにこそ人間を滅ぼす可能性の方が、現実的だ。』とさえ語る。

そして、すでに、水島精二監督・虚淵玄脚本『楽園追放』(2014年)では、物理空間を生きる旧式電脳ロボットだけが、かつての『人間らしさ』を保存する、という主題が取り扱われていることにも言及している。

私もその主題には大いに興味をそそられるが、おそらくそんなコンピュータが直接人間を滅ぼす以前に、人間よりずっと人間的になったコンピュータに、人間らしさを失ってしまった人間が心理的に過度に依存し、依存から脱することができなくなる(依存症等)ことのほうが、一層現実的で深刻な社会問題になるのではないかと思う。

▪自画像を明らかに

『大変化』について述べるはずが、少々脱線が過ぎたきらいがあるが、『大変化』が深刻であればこそ、変化を恐れる現代日本人の自画像を明らかにすることは避けて通れないと信じる。自画像が明らかでなければ、自分が本当に恐れている理由も、自分が本当に恐れているものも知ることはできない。しかもそんな状態で如何に理想的な未来を語ってもそこには決して到達できない、という意味で単なる幻に過ぎなくなるとも言える。

だから、『大変化』の時代を乗り切るために不可欠なのは、今再び、自らと自らの所属する社会の変遷をたどって、問題を明確にしておくこと、と言えそうだ。特に、自分や自分の周囲が『概念言語』ばかりになっているとすると要注意だ。この際、『感情』を軸にしっかりと見直してみることを強くおすすめする。

今回の記事は、あくまで私の立場から見えてしまうことを語っただけで(しかも年末年始の緩んだ頭で朦朧として記事を書いた)、賛同していただける人は必ずしも多くはないかもしれない。だが、これを読んだ皆さんが1年の計を考えるにあたって自分自身の足元を見直すきかっけとしていただけるのであれば、望外の幸せである。

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