「子育て」の空気と日本の空気

子育て個人ブログを掘り起こすと、天国のような親子関係が綴られたブログもあれば…

ここ十年ぐらいで、インターネット上で子育てについての文章を見かける機会が多くなった。子育て個人ブログを掘り起こすと、天国のような親子関係が綴られたブログもあれば、天国を装った地獄を垣間見せるブログもあって、娑婆世界の広さに驚かされる。

さておき、インターネットのトラフィックをさらっていくのは、幸福な子育ての、個人的な記録などではない。育児負担やストレスに潰れそうな話、育児にまつわる夫婦の摩擦の話、そういった「不幸な子育ての物語」が専ら注目を集める。ときには、それが社会問題として議論されることもある。

インターネット上で流行りやすいのは、ちょっと主語が大きめで不幸寄りな子育ての「物語」、いや「コンテンツ」ということだ。

のみならず、子育てについて成人同士で会話をする時にも、子育ての苦労話には引け目はあまり感じず、子育ての楽しい話をする際には"遠慮"が要る。

"遠慮"ではなく、上記に倣って"慎み"と言い直すべきかもしれない。大人社会に順応するためには、こういう"慎み"は重要だ。オンラインでもオフラインでも、子育ての楽しさの真髄は語られるべきではないとされ、"慎み"のオブラートに包んだかたちで子育ては語られなければならない。

でも、これって本当に良いことなんだろうか?

おおっぴらに子育てを語る際の「空気」

子育ての体感は、苦しさが優勢な家もあれば、楽しさや育て甲斐が優勢な家もあるだろう。いや、ひとつの家庭、ひとつの親子でも、苦しさの勝る時期もあれば、楽しさが勝る時期もある。子育てが苦しさ一辺倒というのも、楽しさ一辺倒というのも、少数の例外でしかない。

ところが、オンラインでもオフラインでも子育ての苦しい部分は話題にしやすいのに、子育ての楽しい部分・やり甲斐のある部分は話題にしにくい。本当に幸せそうな子育てブログが静かに営まれていることが示すように、そういうのは拡散もしにくい*1。

結果、インターネット内外で「子育ては苦しい」「子育てはストレス」と強く印象付けられやすい。子育てをしている人はともかく、子育てをしていない人はとりわけそうではないだろうか。だが、これは子育ての内実の半分ぐらいしか言い表していない声であって、公正を期するなら、ネット内外には「子育ては楽しい」「子育てには遣り甲斐がある」といった言葉がもっと流通しても良いのではないだろうか。

もちろん、こうした「子育ては楽しい」「子育ては遣り甲斐がある」といった声には反発もあるだろう。

例えば、「その楽しい子育てを見て傷ついている人もいるんだ!」「楽しい子育てを見聞きしたら、苦しい子育てをしている人に申し訳ないだろう!」といったものである。

そういった懸念は、あるていど実際そのとおりだろうし、それが"慎み"を生むというのも理解している。しかし、子育ての苦労話やストレス話しか許容しない空気や雰囲気が社会に蔓延するのも、それはそれで問題ではないだろうか――つまり、子育てについては苦しさやストレスを語るのが適切で、楽しさや遣り甲斐について語るのは不適切とみなす空気によって、日本社会の子育て観は不当に歪められているのではないだろうか。そして、"慎み"の名のもと、そのような空気を支え合うことによって、私達は"奴隷の鎖自慢"のような状況に加担しているのではないだろうか。

上記リンク先につけられたはてなブックマークコメントを見ていても思うのだが、仕事も子育ても苦労話しか許容せず、楽しい話をブッ叩く雰囲気がモクモクできあがるのは、日本社会のすごく良くないところだと私は思う*2。

インターネットを眺めていると、普段、空気に流されがちな日本社会を批判しているアカウントが、子育ての話題になるや「子育ては苦しい」「子育てはストレス」的な論調しか許容しない態度をとり、"察しと思いやり"を言外に要求しているのが垣間見えることがある。そういうのをみるたび、やはり日本は空気の国、"察しと思いやり"の国なのだなぁと再認識せずにいられない。

「子育ての苦しさ」はコンテンツになるが、「子育ての楽しさ」はコンテンツにならない

どうしたら、この「空気」を変えられるのだろう?

かりに、子育て当事者それぞれが「子育ての楽しさ」「子育てのやり甲斐」を語れば解決するとしたら、既存の子育てブログやアカウントがもっと人気を集めて、もっと影響力を持っていたっていいはずだが、残念ながらそうはみえない*3。

たぶん、「子育ての苦しさ」「子育てのストレス」はそのまま物語やコンテンツになり得るけれども、個別の「子育ての楽しさ」「子育てのやり甲斐」は物語やコンテンツになり得ない。また、前者は、当事者の体験談がそのまま社会問題や社会正義の話として語られ得るけれども、後者はそのようなアングルを持ちえない。これも大きい。

「社会問題がメディアに抽出されるのは良いことじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、喜んでばかりもいられないと私は思う。社会問題がメディアに抽出されるのはもちろん良いことだが、社会問題ばかりがメディアで目につきやすいのは、それはそれで偏っている。まして、その偏りが世間の空気に加担しているとなれば、尚更である。

「子育ての楽しさ」が「子育ての苦しさ」という空気を押し戻していくのは、相当難しいと思う。もちろん、子育て家庭それぞれの平均的な苦しさやストレスが全般的に解消に向かえば「空気」も緩和されるかもしれないが、子育て言説の消費状況を眺める限り、空気を読み合う"察しと思いやり"が幅を利かせる状況と、それによって生じる"奴隷の鎖自慢"っぽい空気は、それだけでは解消されないように思う。

それでも、「隗より始めよ」の精神で、私自身は子育てのポジティブな面を積極的に語っていきたいな、と思う。

*1:ちなみに、メディア受けの良いように整形された子育ての楽しさなら、遠くまで拡散することがある。だが私は、それらの造り込み感に辟易してしまう。子育ての楽しさの、艶やか過ぎるシミュレーション。

*2:ただし、リンク先の文章は少々喧嘩腰なので、それで反発コメントが集まっているという側面もある。

*3:もっとも、人気や影響力を集めるにつれて、子育ての楽しさややり甲斐はメディアの力場に汚染されていくので、人気や影響力を集めないほうが不幸を避けやすいとは言えるが。

(2016年7月19日「シロクマの屑籠」より転載)

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