未熟な承認欲求、成熟した承認欲求

愚直に承認欲求を充たそうとあがくのでなく、長期的な人間関係が成立し、成熟に役立つよう、コミュニケーションを意図的に選択していく必要がある。

私は、「承認欲求は是か非か」という問いは、あまり意味がないと思っている。生まれながらにして社会的生物であり、関係性の欲求を求めずにいられない人間にとって、それは「食欲は是か非か」ぐらい意味がない。

しかし、承認欲求にモチベートされたひとつひとつの行動には、是もあれば非もある。

わかりやすい例を挙げると、承認欲求にモチベートされた結果として、愉快犯が劇場型犯罪を繰り返すのは明らかに悪い行動である。本人にとっても、社会にとっても、こんなかたちで承認欲求が駆動するのは残念と言わざるを得ない。

対照的に、承認欲求と本人の才能が噛み合って社会的に大きな成功をおさめる人や、修めるべき技能をきっちり習得していく人もいる。そのような承認欲求を非とみなす道理も無いだろう。

承認欲求そのものの是非を問うべきではない。承認欲求にもとづいて何を為そうとしているのか・何を為しているのかの是非を問うべきだ。そして個人ひとりひとりにおいては、承認欲求をモチベーション源として自分自身の未来をどのぐらい好ましい方向に傾けられるのか・周囲の人達との共存共栄にどうやって役立てられるのかを振り返ってみるべきだと思う。

■ 未熟な承認欲求と成熟した承認欲求

さて、承認欲求とひとことで言っても、未熟なものもあれば成熟したものもある。

たとえば、すぐに褒められなければ我慢のきかない承認欲求・褒められたり評価されたりしなければ即座に不安に陥ってしまう承認欲求は、成熟しているとは言えない。そのような承認欲求を抱えている人は、目先の評価に右往左往されやすく、絶対に褒められそうなことしかトライできず、人の顔色にも過敏になりやすい。

必然的に、そうした承認欲求を抱える人は、長期的な展望がききにくく、トライアンドエラーが狭くなりやすく、行動が行き当たりばったりになりやすい。承認欲求の「溜め」や「こらえ」が利かないため、欲求と社会的要請との折り合いをつけるのも大変である。

他方、承認欲求を持ってはいるけれども「溜め」や「こらえ」が利く人は、目先の評価や人の顔色にもそれほど左右されずに済む。すぐには褒められる目途の立たないことにも挑戦しやすい。自転車操業の家計よりも一定の預金残高のある家計のほうが戦略的に生活プランを立てやすいのい似て、承認欲求もまた、「溜め」や「こらえ」の利く人のほうが戦略的に精神生活をマネジメントしやすい。

承認欲求が未熟でコントロールしにくい状態であるよりは、承認欲求が成熟して「溜め」や「こらえ」を備えたコントロールの利きやすい状態であったほうが、個人の社会適応は有利になる。少なくとも、目先の承認欲求に振り回されにくくなる。だから承認欲求を本当に活かしたいと思っている人は、自分自身の承認欲求を未熟でコントロールしにくいものから、成熟してコントローラブルなものへとレベルアップさせていけるよう、意識すべきだろう。

■ どうやったら承認欲求はレベルアップするの?

では、どうやったら自分の承認欲求をレベルアップさせ、成熟させていけるのか?

マズローの欲求段階説の例のピラミッドどおりに考えるなら、承認欲求が成熟したら自己実現欲求に変化する......と主張すべきかもしれないが、私は、現実にはそんな事はあまり起こらないと思っている。

そもそもマズローの書籍を読むと「自己実現欲求はレア」と書かれていて、自己実現欲求の例として挙がっているのはトーマス・ジェファーソンやシュヴァイツァーのような偉人達である。とてもじゃないが「誰でも彼でも自己実現」というわけにはいかない。

ところが「じゃあマズローさん、平々凡々とした私達はどうやったらいいんですか?」という問いに、マズローはあまり多くのことを教えてくれないのである*1。

だから承認欲求をレベルアップさせて成熟に至る道は、マズローだけ追いかけていてもわからない。

そこで私は、自己愛の成熟について語ったコフートの理屈に沿って承認欲求について考えるようにしている。コフート風に承認欲求を考え始めると、それだけで一冊の本になりそうな分量になってしまうので、ここでは承認欲求のレベルアップに関連のありそうな条件を大雑把に箇条書きにしてみる。

・承認欲求は、ただたくさん充たせばレベルアップするような単純なものではない。むしろ、承認欲求の充たし方次第では、要求水準がダダ上がりして苦しくなる。

・ある程度長続きする人間関係を介して承認欲求を充たしたり充たさなかったりを続けたほうが、不特定多数を相手どって間欠的に承認欲求のシャワーを浴びるよりは見込みがある。

・face to face なコミュニケーションのほうが有利。オンラインのやりとりだけでどこまで上手くいくのかは不明。

・目標設定の目安は「ハイレベルな承認欲求が思い通りに充たせるようになること」ではなく「よりバリエーションに富み、より日常的なコミュニケーションを介しても承認欲求が充たせるようになること」「自分自身の承認欲求に対する要求水準を下げ、大仰な評価でなくても承認欲求が充たされたと感じられるようになること」。

・なんであれ、承認欲求を欲しがって(100%とはいかないにせよ)実際に認められたり満足したりする体験は必要。場数が足りなければレベルアップが狙いにくい。

これらは、あるていど確かだと私は思っている。

だから、承認欲求を未熟な状態から成熟した状態へとレベルアップしていくためには、オフライン中心の人間関係のなかで、継続的に承認欲求を充たす(ときには充たせないことがあってもどうにか人間関係が続いていく)ことが重要だ。

逆に考えると、オフラインの人間関係で承認欲求をおおむね充たし合えるような境遇を維持できない人は、承認欲求のレベルアップが遅延しやすい、ともも言える。そして承認欲求のレベルアップが遅延してしまえば、まさにそのことによって人間関係の継続がますます困難になり、承認欲求のレベルアップも遷延してしまう......という悪循環に陥りやすい。

そのような悪循環をひっくり返す手段としてインターネットを使う際には注意が必要だ。

インターネット、特に今日のインターネットは、不特定多数を相手取って承認欲求を充たすのが比較的簡単だ。twitterでもブログでも動画配信でも「誰でも15分だけは時の人になれる」。しかし、オンラインで承認欲求を求める行為は、ともすれば、ハイレベルな要求水準へとインフレを起こしやすく、「ある程度長続きする人間関係を介して承認欲求を充たしたり充たさなかったり」という要件を外れやすい。そのうえ、オンラインだけの繋がりでは face to face なコミュニケーションに特有のエッセンスを補えない。なんらかのかたちでオフラインコミュニケーションのエッセンスを補完しなければ、承認欲求のレベルアップが成立しにくいと推定される。

■ インターネット承認欲求にはご注意ください。

リンク先の文章内容は間違っているがタイトルは正鵠を射ていて、現代のネット社会において「承認欲求は不可欠な要素」になっているのは事実である。

しかし、個々人の承認欲求のレベルアップや成熟について考えるなら、今日のネット社会のありようは褒められたものではない。むしろ脅威ですらあるかもしれない。不特定多数に向かって瞬間湯沸かし器のような承認を求めたところで、承認欲求のレベルアップは期待できないし、むしろ承認欲求のインフレを助長してしまいかねない。にも関わらず、種々のネットサービスは、そのような承認欲求の充足を促している――そのほうがトラフィックが盛んになって儲かるからだ。

今日のネットサービスが「いいね!」ボタンのたぐいを設けているのは、ネットユーザーの承認欲求が成熟していくことを期待してのものではない。単に、ネットユーザーの承認欲求を駆動力として自社の利用頻度やシェアを高めるためのものである。ユーザーとしては、そこのところを勘違いしてはいけないし、ネットアーキテクチャのデザインにどのような意図が反映されているのか、十分に警戒すべきだと私は思う。

そしてもし、インターネットを活用しながら承認欲求のレベルアップを図っていくとしたら、愚直に承認欲求を充たそうとあがくのでなく、なんらかのかたちで長期的な人間関係が成立し、承認欲求の成熟に役立つよう、コミュニケーションを意図的に選択していく必要がある。

ただ人気者を目指すだけでは、承認欲求のレベルアップは覚束ない。むしろ承認欲求のインフレを起こしてしまい、かえって苦しくなるかもしれない。だったら、どういう風に(ネット)コミュニケーションしていけばいいんですかね?

承認欲求の執着無間地獄を脱出する鍵は、スポットライトの檀上で頬をテカテカさせながら演説している人のところには無いと私は思う。もっと地味で、もっと落ち着いたコミュニケーションを大切にすべきだ。

*1:それどころか、マズローはたびたびホーナイという精神分析家の名前を挙げて「神経症的欲求は俺っちの守備範囲外だから、ホーナイの本を参考にしてね」と未熟で悪循環に陥りやすい欲求については"投げて"いる。ちなみにホーナイは面白いことをたくさん書き残した人だけど、精神分析の系譜のなかで彼女がどういう位置づけなのか気を付けながら読まないと誤読しやすいと思うので手に取る時はご注意を。

(2015年11月16日「シロクマの屑籠」より転載)

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