BLOG
2018年04月23日 12時19分 JST | 更新 2018年04月23日 21時35分 JST

ホセが強制的に送られた施設は、ナチスの収容所でも、刑務所でもなかったが…

ホセは「生きている死者」とみなされたのです。

日本財団
アメリカ・ルイジアナ州カーヴィル国立ハンセン病博物館で展示されている手錠。カーヴィル療養所には、拘束されてくる患者もいた。

現在、日本ではハンセン病の新規患者は、ほとんどいなくなりました。たとえ発症しても有効な治療法があります。にもかかわらず、ごく最近まで患者や病いから回復した人たちの置かれている状況は極めて苛酷なものでした。そしていまも彼らへの差別や偏見がなくなったわけではありません。まだまだ多くの発症者がいるアジアやアフリカや南米はもちろん、いわゆる先進国においても、ハンセン病に対する差別は、根強いままにあります。

ホセ・ラミレス・ジュニアは、アメリカ在住の私の大切な友人の一人です。かつて、彼はある「施設」に強制的に収容され、名前を剥奪され、以降「2855」の番号で管理されることになりました。そこには様々な制約があり、無断で施設の外に出ると、逮捕されて「罰」を与えられました。その「施設」とは、ナチス政権下の強制収容所でも、刑務所でもありません。アメリカ合衆国のルイジアナ州にあった国立ハンセン病病院、通称カーヴィル療養所です。ホセが収容されたのは、20歳の時にハンセン病を発症したためでした。それほど昔の話ではありません。「サマー・オブ・ラヴ」の言葉で象徴されるヒッピー文化とカウンターカルチャーが花開いた時代、すでに公民権法が制定されていた1967年のことでした。

ホセは、テキサス州出身。同地の病院でハンセン病と診断され、翌日には司祭による「最後の秘跡」が行われ、カーヴィルに移送されます。カーヴィルまでは、霊柩車で運ばれました。「救急車は生者のため、霊柩車は死者のため」というわけです。ホセは「生きている死者」とみなされたのです。

アメリカの国立ハンセン病病院は、1894年にハンセン病対応療養所として設立され、1921年から国立の施設になりました。ホセが収容された60年代後半には、その設備や環境はかなり改善されていましたが、依然としてそのエリア全体は有刺鉄線の高いサイクロンフェンスと2つの監視塔に囲まれていました。また世界最先端のハンセン病研究・治療施設である一方で、アパルトヘイトを連想させるようなルールも多く、例えばスタッフと「患者(完治した人も含む)」を分ける仮想線を超えることは禁止されており、カフェテリアや礼拝堂にまで、そのような仮想線が設定されていました。また第二次世界大戦までは、「患者」たちには、国政選挙や州選挙での投票権がなく、公共交通機関の利用も禁止され、既婚者の多くは離婚を強制されていました。

日本財団
カーヴィルに並ぶ患者番号と偽名が刻印された墓石

ホセ・ラミレス・ジュニアは、カーヴィルで7年間を過ごしました。病気は完治し、退所した後、長年のガールフレンドであったマグダレナと結婚しました。彼女は、母親の反対にも関わらず、7年間、彼を待ち続けていたのです。現在、ホセは世界中を飛び回り、「カーヴィル最後の語り部」として療養所での体験を伝えています。それを通して、ハンセン病に対する正しい知識の啓発や差別撤廃を訴えています。

カーヴィルの収容患者数は、1940年に450人、1983年に300人。新規患者を受け入れることを停止した1999年には130人でした。2000年には、その一部にハンセン病博物館が設立されました。しかし、ハンセン病が歴史からなくなったわけではありません。現在も、アメリカ合衆国では毎年約100人の新規患者が発見されています。

日本財団
ホセ・ラミレス・ジュニア、マグダレナ・ラミレス夫妻