私が1996年-2002年まで過ごした米国で人種間の紛争が起きている。「人種差別はいけない」と声高に叫びたいところだが、米国で白人と黒人の間にある大きな溝を体感したせいか、どうしても別の言葉を探そうとしてしまう自分がいる。
渡米する前の米国についての情報源は、もっぱら映画とスポーツだった。人気映画「ダイ・ハード3」や「ザ・エージェント」では白人と黒人の主人公が友情関係を築き、アメリカンフットボールでは白人と黒人プレイヤーがハイタッチを交わしていた。しかし、実際に米国に行ってみて、こんな人種間交流はテレビの中だけの夢物語だという現実を知った。
まず、私はテレビに頻繁に黒人が出てくるから、黒人が米国の全人口の3-4割くらいとか思っていたが、実際は13パーセントに過ぎないということに驚いた。そして、その大部分が大都市かその周辺に固まって暮らし、平均所得は白人の6割である。
今回の事件が起きたミネソタ州ファルコンハイツはミネアポリスという大都市周辺だし、ルイジアナ州バトンルージュも州内有数の都市である。そして2014年におきた事件も、ミズーリ州のセイントルイスという大都市近くである。大都市から車で1時間離れた片田舎に暮らす白人にとって、黒人はとても遠い存在で、プライベートで一度も口をきかずに一生を終える白人なんてざらにいる。
私が高校時代に暮らしたオクラホマ州タルサも、同じような規模の都市だった。白人と黒人の住んでいる地域は完全に分かれており、黒人しか通わない大学や高校があり、黒人しか行かないスーパーがあった。私がホームステイした家は白人家庭だったため、黒人を周辺で見かけることは稀だったし、ましてや黒人が家に入ってくることなど皆無だった。
アメリカの都市部を運転すると、どこが黒人地域なのか一目瞭然でわかる。車社会のアメリカは基本、歩行者は少ないのだが、突然、数十人、数百人の黒人が縦横無尽に道を歩いたり、道端でたむろしている地域にでくわすことがある。他地域と比べ、車所有率が低いため、外を出歩くことがより多く、住居が狭く、窓が小さいため、暗い家の中よりも、広々した道端に座り込みたい人がより多くいるためである。
私の高校には全校生徒700人中250人ほどが黒人の生徒だった。日本と違って教室は自由席のため、カフェテリアでも教室でも黒人と白人の生徒が混じって座ることは稀だった。毎年一回、優秀な男子生徒と女子生徒5人ずつが選抜され、全校生徒の投票によってナンバーワンを決めるイベントがあるのだが、選抜された5人の中に黒人が一人入れば、250票がその候補に自動的に流れるため、投票する前から結果はわかっていた。
アメリカの卒業式では、卒業者が名前を呼ばれて登壇する際、その人の友人や親戚が立ち上がって声援を送る。白人が呼ばれれば、白人の観衆が立ち上がり、黒人が呼ばれれば黒人が立ち上がる。そして、会場が一番大きな声援に包まれたのは、白人と黒人の混血の生徒が登壇した時だった。その時は会場のほぼ全員が立ち上がった。
だから、オバマ大統領が当選したとき、人種差別の歴史に終止符が打たれたなんていう専門家はただの無知としか思えなかった。私からすれば、混血である彼の当選は、逆に純血の黒人に対する根深い人種差別の証左でしかなかった。
渡米当初、英語がほとんどできなかった私は、なかなか友達ができなかった。唯一の楽しみは、週末に一人で自転車で川沿いを走り、屋外にあるバスケットボールコートでバスケをすることだった。米国では見知らぬ人同士がコートに集まってバスケをする習慣があり、たまたま、そこは黒人が暮らす地域だったため、周りのプレイヤーは全員黒人だった。
ある日、私がコート近くの公衆トイレに行き、戻る途中、コートの隅に置いた私のカバン近くを歩く黒人少年二人の姿が見えた。私がカバンの中を確認すると、私のウォークマンがなくなっていた。
私は二人を追いかけ、彼らが入っていったアパートのドアをノックもせず開けた。2階建ての家で、リビングルームに黒人少年一人がおり、私が入って来るやいなや、立ち上がって、両拳を前に構えた。そして、「ジョスティン!ジョスティン!カムヒア!(ここに来い)」と、二階を見上げながら叫んだ。私の勝手な想像だが、幸いにも、彼は私が東洋人だから柔術ができるのだと思い込み、1対1では勝てないと思ったのだろう。私は「ウォークマンはどこだ?」と尋ね、少年は「そこだ!」とリビングルームの端を指さした。私は黙って、それを手に取り、家を出た。
そのまま一人でバスケを続けていると、別の少年がその家から出てきた。おそらく、彼がジョスティン。彼は私の方へ歩み寄り、うまく聞き取れない英語で話しかけてきた。表情は硬く、明らかに殺気立っている。何度かやり取りを繰り返した結果、ジョスティンは、部外者である私が勝手に家に入ってきたことにより、両親から叱られたという。
私が「ウォークマンを取ったお前らが悪い」と、どうしたら英語で言えるだろうか考えていると、突然、ジョスティンが私の顔を殴り始めた。一発、もろにもらい、二発目はよけた。私の鼻から血が出てきた。
私は「アイムソーリー」とだけ言い、自転車に乗ってその場を去った。もし、あの家に数人の仲間がいたらと思うと、背筋が凍る。
数か月して、野球部の部活が始まり、ポツポツと友人ができ始めた。部員はほとんどが白人で、自然と私は白人のグループに入った。
大学進学後も白人の友人ばかりだった。仲良くなった白人のジェイのお父さんは公然とした黒人差別主義者で、運転中、道路を渡る黒人たちに「どけ!黒人ども!」と怒鳴ったりした。私の大学は、1年生は全員、寮で共同部屋での生活を義務付けられ、ジェイのルームメートは黒人だった。その黒人は、ジェイが部屋にいるにもかかわらず、高校生の黒人の彼女を連れてきて性行していた。
別の白人の友人は、一緒に電車に乗っている際、5歳くらいの黒人の少年を見ながら、小声で「彼は私の年齢になるまでに、20人の女性と性体験を持つだろう」と言った。
ジェイがある日、高校時代の思い出話をした。「俺の友達がさ、昼休みにふざけけてピザの残りを女子生徒が座っているテーブルに投げたんだ。そしたら、そこにいた4人の女子が全員立ち上がって、みんなの前で、そいつをボコボコにした。女子が男子をボコボコにするんだぜ」。
私はそれを聞きながら、「その女子生徒4人は黒人かい?」とジェイに尋ねた。ジェイは、一呼吸置いて「よくわかったな」とだけ言い、その瞬間、私は、自分に黒人に対する偏見が植え付けられているという事実を突きつけられたのだ。
人種差別はいけない。そんなのは誰だってわかっているし、私もその想いで難民支援に従事してきた。でも、人間関係って、綺麗ごとだけでは語れない、ドロドロした現実をベースに成り立っている。
多くの日本人にとっては、今回の騒動は遠い国で起きた差別事件だろうけど、私からしたら、私たちの日常にある悲惨な現実が悲惨な形で露呈しただけである。
米国の白人と黒人が全く別世界で生活していることにショックを受ける日本人がいるなら、ぜひ、伝えたいことがある。私はこれまで計8カ国で暮らし、海外在住17年になるが、海外に住む日本人も、日本人だけのテニスクラブ、日本人だけのゴルフクラブ、日本人だけのジョギングクラブを作るなど、プライベートの時間の9割を日本人とだけ過ごす人が多い。
私はそれ自体、全然悪いことだと思わない。言語の壁もあるし、味噌汁やうどん、納豆などを一緒に楽しめる人と食事がしたいとなると、どうしても選択肢が限られてしまう。
でも、この同胞との密着性が、他者への閉鎖性につながっているのではないかと疑われるケースもある。ある国で日本人数人とバスケをしようと公園のコートに集まった際、反対側のコートで地元の人が一人でやっているのを見た一人が「人数も足りないし、誘いましょうよ」と行きかけたところを、別の日本人が止めた。
止めた理由は今でもわからない。当時、新参者だった私が口を挟むのも気が引けたというのもある。ただ、この出来事は、私が初めて米国に行った時、 英語の話せない東洋人をバスケの輪の中に入れてくれたのは他でもないアメリカの黒人だったということを思い出させてくれた。
もしあの時、ウォークマンを盗んだうえに私を殴ったのが白人だったら、私のその後の米国での生活は180度変わっていたのかもしれない。