パキスタンのマララ・ユスフザイさんが史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞した。
タリバンの暴力にも負けず、命を懸けて子どもの教育、特に女の子の教育の重要性を説く彼女。
若干17歳にも関わらず、その信念と情熱、そして勇気には、感動の一言だ。
彼女の受賞スピーチはこちら。
そのスピーチや姿勢は素晴らしく、将来はパキスタンの首相になると堂々と宣言する。
彼女は本当に新時代のリーダーであり、希望だ。
今回彼女がノーベル平和賞を受賞したことは、手放しで嬉しくて、良かった。
私も子どもや女の子の教育の重要性を信じている。
ノーベル平和賞によって、その活動や情熱が注目を浴びて、さらに活動拡大させるという点で、ノーベル平和賞は素晴らしいし、存在意義がある。
実は、ノーベル平和賞に関しては、私はその価値や存在意義をしばしば疑っている。
2009年にオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したが、この時までの彼の実績は「核なき世界を目指す」と言ったプラハ演説くらいだ。
その発言はアメリカ大統領としては、価値があるものだと思うが、正直これはその後の彼の活動を期待しての受賞でしかなかった。
ノーベル平和賞をあげる側は、ノーベル平和賞を授けることで、オバマ大統領の今後の動きをコントロールできるとでも思ったのだろうか。
世界最高の権力者に対して、それは大きな勘違いであることは、歴史が証明している。
過去にはPLOのアラファト議長が受賞したこともあった。
現役で世界を動かしている政治の人間に、強い影響力を与えようとノーベル平和賞を与えることは、ノーベル平和賞の価値を貶めているようにしか見えない。
そこにノーベル平和賞の選定をする人間の、色々な思惑が見え隠れして、とても素直に喜べない。
ノーベル賞はマーケティングそのものなのかもしれないが、その目標や手段はもっと純粋であって欲しい。
そういうことで、ノーベル平和賞は、私にとって、どんどん価値が薄いものになっていた。
それだけに、今回の受賞は純粋に喜ばしいものだ。
パキスタンと対立するインド出身の人権活動家カイラシュ・サティヤルティさんが同時に受賞したことも、粋だ。
受賞にあたり、その二人がポジティブにコミュニケーションしていたことも、本当にあたたかい光景だった。
マララさんは、この受賞で活動を注目されると同時に、さらにタリバンからその命を狙われることになる。
日本では子どもが教育を受けること、女の子が教育を受けることは、あまりにも当たり前のことだ。
しかし、世界ではその当たり前のために、命をかけている17歳がいる。
私達はそういう17歳を知って驚き、応援する。
そういうことが世界的に注目される場として、今回のノーベル平和賞は本当に喜ばしく、価値があったのだ。
アリヴェデルチッ!
(2014年12月12日「yubu23.com」より転載)