私たちの「もの」の捉え方

最近話題にもなっていることですが、科学的な発見には常に再現性の問題がついて回ります。正当な研究であっても、少し実験条件や分析対象を変えるだけで、結果が予測と異なってしまうことは多々ある。

三条河原町通り沿いの、とある大型書店の中をブラブラと歩いていたら、面白そうなタイトルの本が目に飛び込んできて、思わず手に取って購入しました。

行動経済学の始祖で 2002 年のノーベル経済学賞受賞者でもあるダニエル・カーネマン (Daniel Kahneman) 博士はベストセラーとなったその著作 "Thinking, Fast and Slow" の表題が示す通り、ヒトには大きく分けて二つの思考システムが備わっていることを、博士自身の研究成果や、多くの先行研究を挙げながら説明しています。

直観的な思考パターンがシステム1であり、論理的に考える時間と労力のかかる思考パターンがシステム2です。例えば私たちが普段赤信号を見ると、何も考えなくても立ち止まります。信号が青に変わったらアクセルを踏み、あるいは歩き始めることでしょう。その時には、特に何も考えていないはず。

普段の仕事でも決まったルーティーンがある場合、ほとんど意識しなくても、勝手に体を動かすことができる。最初に仕事を教わったときは、慣れるまで相当の時間を要したはずですが、慣れてしまえば考えなくてもスムーズに仕事を進めることができるようになった経験は、誰しもがお持ちだと思います。

一方でシステム2は、論理的な思考パターンであり、例えば数学の問題や慣れないデータを分析するときに発動します。また、日常生活の中では直観的なシステム1を追認する作業をシステム2は担っている。例えば青信号になったからすぐに前進してしまえば、大事故に巻き込まれてしまうかもしれません。

子供たちには信号だけを頼りにするのではなく、さらに左右を確認することを、周囲の大人たちは何度も繰り返し教え込むはずです。システム1に従ってばかりだと、時には失敗する。ただ、システム2は怠惰であり、例えば子供たちが友人同士でいろいろと話に夢中になり、お菓子も食べながらアレコレと考えていると、信号が変わった途端についうっかりと左右を確認し忘れるかもしれません。

では実際に思考エンジンの存在を実感してもらうためにも、博士がよく利用している簡単なクイズを取り上げてみましょう(少し、問題は改変しております)。

問題1

一昨日から今この瞬間に至るまで、皆様は朝・昼・晩に何をお召し上がりになりましたか(外食した場合はレストランの名前も)。では思い出しながら、次の問いに直観で答えてください。

鉛筆1本と消しゴム1個は、合計110円です。鉛筆は消しゴムより100円高いそうです。消しゴムの値段はいくらですか。

ついうっかり 10円と答えてしまった方。ご安心を。この手の質問をマサチューセッツ工科大学に在学する秀才たちに実際に博士が投げかけたところ、結構な確率で彼らは誤答したそうです。何を食べたかを思い出す作業がなければ、おそらく正答率も上昇するでしょう。

では、次の問題を考えてみましょう。

問題2

昨日、友人や知人、職場の同僚と何を話したかを思い出しながら、次の問いに直観で答えてください。

図Aと図Bで、横の線分の長さはどちらの方が長いですか。

この図は錯覚をおこすものとして有名ですので、答えを知っている方も多いかもしれません。答えは「同じ長さ」なのですが、そうと知っていたところでB の方が長いように見えてしまう。これは視覚的な錯覚ですが、限られた情報から実際に決断を下す場合や、物事を分析する場合には、私たちはありとあらゆる心理学的な錯覚から無縁ではいられません。ご興味のある方は、ぜひ本を読んでみてはいかがでしょうか。

■ ダニエル・カーネマン博士が "review" を上梓した理由

2012年5月21日、ワシントン DC で開催されたレクチャーに招待されたカーネマン博士は、なぜ本を出版することにしたのか、というサイエンスライターの質問に対し、次のように説明しています。

博士は幅広い心理学分野の重要な研究を一つの物語としてまとめ上げ、科学論文でいう総説(レビュー)を上梓した。この本はただ一般人向けに描かれたわけではなく、未来の心理学研究者に向けて発信されたものでした。心理学研究の歴史が(あくまで一人の研究者の視点から編まれたものだが)重要な文献を引用しながら説明されています。

研究者にとって、自らが身を置く研究分野の歴史を深く知っていることは重要なのですが、年月が経過してしまうと、研究の潮流を生み出した偉大な研究成果が膨大な数の文献の海の中に埋もれてしまい、アクセスが悪くなるものです。

せいぜい 20 年ほどの歴史しかないような分野でも、文献数は膨大であり何が重要で何が重要でないか、知っておくべき文献とそうでない文献とを区別することは難しい。ましてやすべてに目を通すような時間などない。博士が重要と思う文献のリストは本に載っており、気になった論文があればすぐに検索できるようになっています。巻末を参照すれば、自ら文献の海の中を探索して迷子にならずに済むはずです。

なお、博士は講演の中で、サイエンス・コミュニケーターに向けて次のように警鐘を鳴らしていました。科学的事実を受け入れるかどうかは、一般的に人々は自分で吟味して判断するものではなく、自らが信を置く情報源の考えに大きく依存している。この内容は、サイエンス記事を書く新聞記者や私のようなブログで発信する人間も含めて、傾聴に値するものといっていい。特に記事の結論やタイトルには大きく影響を受けます。人々は、自分の生命を脅かすことがない無害なものと日常的に接触していると、その或る物を比較的安全だと認識します。この心理学的な効果は、ポーランド出身の著名な社会心理学者ロバート・ザイアンツ博士 (1923-2008) が発見した単純接触効果 (the mere-exposure effect) と呼ばれるものです。例えば、サイエンス関連のニュースは生存を脅かすことなどまずない、無害なものです。そこに大きな落とし穴がある。

最近話題にもなっていることですが、科学的な発見には常に再現性の問題がついて回ります。正当な研究であっても、少し実験条件や分析対象を変えるだけで、結果が予測と異なってしまうことは多々ある。さらに言えば、ほとんどの研究者は再現実験を試みて失敗に終わった経験を持っているに違いない。それゆえに科学者はある結論を述べるときに、どのような条件での結果であるか、慎重に議論するのです。

しかし、科学とは疎遠な大多数の人々は、なぜ彼らが回りくどい発言に終始するのか理解することが難しい。一つ一つの結果を一般化しすぎると、それは過剰一般化でありウソとなることを、なかなか皮膚感覚で理解できないでしょう。

細分化された社会において、忙しい日常生活を送る多様な現代人は、科学論文の議論や結果を踏まえて、その内容に納得したうえで結論を受け入れるわけではない。自らが信じる物事は、実際には自分が信頼するジャーナリストや記者が信じていることをそのまま受け入れ受肉したものである場合が多い。これは何もサイエンスだけの話ではなく、国際ニュースや政治・経済ニュースを読み解くときにも、常につきまとう問題でしょう。

■「身近なもの」に親近感を抱く

前述したもう一人の心理学者を、最後に紹介いたしましょう。偉大な社会心理学者 Robert Zajonc です。彼は心理学と生物学といった異なる専門分野にわたる「学際的」な研究を 60 年以上にわたって推進した。そして彼の唱える学説は、常に周囲の反論を呼び込んだだけでなく、アカデミアの強い関心も集めたのでした。ある研究者は、ザイアンツ博士は自ら提唱する刺激的な論文を投げかけて生じる反論の嵐を、実に楽しんでいるようであった、と語っています。

周囲の反論を反証するデータを蓄積し、次々と論文を発表しているうちに、周囲の見る目は徐々に変わっていく。反論しようと実験した人が、博士の説を裏付ける結果を出すこともあれば、多くの心理学者の興味を引き付けて参入を促した結果、研究領域として幾つもの花が咲いたのでした。博士の唱える学説は、いつの間にか突飛なものから主流へと変貌を遂げる。なぜそれほどまでに、情熱的に心理学者として研究活動に専心したのか。

ザイアンツ博士は、ナチスドイツとソ連の板挟みとなり消滅したポーランド出身で、両親をナチスドイツの攻撃により失っています。両親の命を奪った攻撃から、重症を負いながらも命からがら辛くも生き延びた博士は、戦後ユニセフでの経験から、心理学分野の研究に没頭することになる。その目的は世界平和へのあくなき希求でした。博士が影響を受けたという UNESCO には以下の言葉が高々と掲げられている。

"Since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defenses of peace must be constructed" (戦争は人間の心に端を発するものだから、人間の心の中にこそ、平和の防壁を築き上げなければならない)

博士の研究は多岐にわたっており、すべて詳述することは難しい。"the mere exposure effect" の発見や "social facilitation" の研究はよく知られています。前者は単純に無毒な情報に瞬間的にさらされているだけで、ヒトはその事象に親近感を抱くというものです。サッカー中継中に見向きもされない広告も、コマーシャル中にただ何となくチラリとは見られているロゴの数々。実はそれらは瞬間的に我々の網膜に実像として把握されており、実際のところ深層心理で親近感を抱かせているというのです。なんでこの商品を買ってしまったのだろうなぁ、ということはありませんか。コマーシャルだけでなく、道行く人々のファッションや装身具、街を走り抜ける車。色々な物が頭の中に知らぬうちにインプットされてしまう場合もあるのではないか。実際のところ、あらゆるものが宣伝塔になっていることになる。

後者 "Social facilitation" とはその言葉の通り、は他者との接触により動作の能率が変化する現象のことです。エキスパートは観衆の存在により能率を向上させるが、一方で中途半端な技術者は観衆の前では実力を発揮することが難しくなるらしい。イチロー選手は大観衆のヤンキースタジアムの中でこそ、より能力を発揮することができるかもしれない。しかしながら、未熟なアマチュアの一選手があの中に飛び込めば、実力の半分も発揮することができないでしょう。

このような現代心理学の偉業は、実際のところ現在起こっている様々な現象分析のヒントになっているように見えます。例えば、専門家からすると忌み嫌うような人物も、一般大衆からすれば無毒無害であると判別されるので、テレビのチャンネルを変えたり、インターネット・サーフィン中にニュースを物色している間に、一連の動作によって親近感がわいてくるのだろうなぁ。

参考文献

QnAs with Daniel Kahneman. PNAS 2013; 110(34): 13696

The New York Times, December 8, 2008

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