【北朝鮮・墓参紀行】会寧・清津 亡き父に捧ぐ平和への祈り

首都・平壌から国内線の飛行機に乗る。そこから約1時間、まるで農場の真ん中に滑走路があるような漁郎(オラン)の空港に降り立った。
Taichiro Yoshino

第2次世界大戦の終戦前後に、現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺族による墓参団が9月15日、北朝鮮の首都・平壌に到着した。今回で10回目となる。

近々報告されるとみられる拉致被害者ら日本人の再調査には、遺骨に関する項目も含まれている。今後の日朝関係を見通す上でも、遺骨の調査や収集の行方が注目される。

遺族らでつくる民間団体「北朝鮮地域に残された日本人遺骨の収容と墓参を求める遺族の連絡会」(北遺族連絡会)を窓口とし、今回は遺族5人が参加している。23日まで、北朝鮮北東部の都市、咸鏡北道・清津(チョンジン)や咸鏡南道の咸興(ハムン)などの埋葬地を訪れる。

ハフィントンポスト日本版は今回、墓参団への同行取材を申請し、認められた。北朝鮮各地を巡る墓参の様子などを随時報告する。

【9月16日】

首都・平壌から国内線の飛行機に乗る。この日はアジア大会用に韓国・仁川への特別機が仕立てられていた。

そこから約1時間、まるで農場の真ん中に滑走路があるような漁郎(オラン)の空港に降り立った。

さらに小型バスで計約5時間、北へ走る。舗装らしい舗装がされているのは大都市の中心部だけ。荒波を行く船のように、バスは上下左右に激しく揺れた。すれ違うのは自転車と、牛車と、たまに荷台に人を乗せたトラック。

【9月17日】

中朝国境の町・会寧(フェリョン)で一泊。ここは故・金正日総書記の母、金正淑氏が生まれた街で、街の中心部に大きな銅像と再現された生家がある。

さらに約1時間、国境沿いを走る。ときおり中国の携帯の電波が入った。山の中の踏切で、一行はバスを降りた。

山の中を中国へ線路が続く。横浜市在住の遠藤功一さん(72)は、鉄道員だった父・敏(さとし)さんを思い「産みの父の苦しみを思うと、何ともやりきれない」と天を仰いだ。生を受けた鉄道官舎までは「さらに歩いて2時間、車は入れない。山を越えないといけない」と北朝鮮の担当者に説明され「ここまでで結構です。ありがとうございました」と頭を下げた。

1945年8月ごろ、ソ連が攻めてくるとの噂が広がっていた。敏さんは「一足先に帰ってろ。受け持ちの駅の貨物などを整理して帰るから」と母に言い残し、残りの家族3人は福島に引き揚げた。しかし敏さんは500km以上南にある咸興(ハムン)の収容所に入れられ、1946年1月に発疹チフスで亡くなったと、元部下からの手紙で知らされた。3歳だった功一さんに当時の記憶はない。母は一切、引き揚げ時の話をしようとしなかった。

「当時の建物でも残っていればよかったが、道がなくなってしまうんだから、これで整理をつけたい」。

敏さんは生前、日本に帰省すると「内地の線路は幅が狭い。早く朝鮮に帰りたい」「朝鮮の鉄道は中国につながっている」としばしば周囲に語っていたという。父の骨壺に入れたいと、線路の敷石を数個拾った。

「69年は長いなんてもんじゃなかった。往来が簡単にできるよう、国交正常化すべきだ。そのために日朝両政府は大いに机をはさんでけんかすべきなんだ」

----------

会寧からさらに南下して道路を走ること2時間。港町・清津(チョンジン)に着いた。1959年12月、在日朝鮮人を乗せた帰国事業の船が入船したことで知られる街だ。戦前は製鉄所など工業が栄え、10万人の日本人がいたとも言われる。今も工業の街だ。

清津の港が一望できる高抹山中腹の展望台で、京都市在住の中井将隆さん(77)は9月17日午後、位牌や家族の写真をリュックから取り出し、山の頂上に向かって線香を上げ、手を合わせた。途中、草むらをかき分けて斜面を登り、持参した酒を供えた。

「父もこの景色を見たんだなあ、とバスの中で涙が出てきた。事前に調べて想像していたいた地形と、おおよそ一致していた。礼拝ができたことは何よりうれしい」

北朝鮮に住んでいたことはない。京都市職員だった父・竹一さん(当時37)は1945年3月、3度目の徴兵で陸軍「144警備大隊」に配属され、清津に駐屯していた。終戦の日の8月15日、高抹山で旧ソ連との戦闘中に亡くなったと、のちに戦死公報が届いた。遺骨や遺品は返って来なかった。「その戦闘後に行方不明になったから、戦死とされたんです。相手は圧倒的な武力だったと聞いています」。中井さんが調べた記録では、同じ日に同じ部隊で325人が命を落としたという。

当時、小学校の1年生だった将隆さんは、父の出征の日を覚えている。学芸会の日で張り切っている朝、「頑張ってきいや」と言われたのが最後の会話だった。1945年の6月ごろまでは手紙が来ていた。子どもたちに宛てたカタカナのはがきや、母に「絶対元気で帰る」と書いた手紙。「亡くなったのは、よりによって戦争が終わった日ですよ。無念だったろうなあ。どんな気持ちだったろう」

「夫は未帰還者だから」と戦死公報の受け取りを拒んでいた母も終戦の6年後に死亡し、3歳年上の姉と将隆さんの2人で戦後を生き抜いてきた。病床にふせる姉と2人で、ここを訪れたつもりでいる。「父の倍以上長生きさせてもらった。去年、初孫が生まれたことなどを報告しました」

父がどんなところで死んだのか、いちど見てみたいと思い続けてきた。「こんな国交断絶の世界ですから躊躇してたんですが、今は日朝の交渉で道が開けて来ているみたい。いずれにせよ政治情勢ですぐ変わってしまうお国柄ですから、行けるうちに行っておこう」と思い立ち、墓参団に参加した。

「戦争したらあきません。しないように抑止力を持とうという考えは間違いや思いますわ。武器を持ったら相手も必ず持つんですから、平和や文化の交流が大事と違いますか。紛争にならない状況をつくることが大事じゃないですか。何のために私の父とかが死んだのか、忘れてはならないと思います」

高秣山を、下からも眺めた。海岸線には電線が張り巡らされている。「電流注意」と書かれていたが、うっかり触ったものの電気は流れていなかった。

【関連記事】

ハフィントンポスト日本版はFacebook ページでも情報発信しています

注目記事