【北朝鮮・墓参紀行】69年ぶりの清津「住みよい街になっててほしい」

港町・清津(チョンジン)でかつて日本人が住んでいた街へと、墓参団一行を乗せたバスは入っていった。港から急な斜面に張り付くように広がっている住宅街だ。
Taichiro Yoshino

第2次世界大戦の終戦前後に、現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺族による墓参団が9月15日、北朝鮮の首都・平壌に到着した。今回で10回目となる。

近々報告されるとみられる拉致被害者ら日本人の再調査には、遺骨に関する項目も含まれている。今後の日朝関係を見通す上でも、遺骨の調査や収集の行方が注目される。

遺族らでつくる民間団体「北朝鮮地域に残された日本人遺骨の収容と墓参を求める遺族の連絡会」(北遺族連絡会)を窓口とし、今回は遺族5人が参加している。23日まで、北朝鮮北東部の都市、咸鏡北道・清津(チョンジン)や咸鏡南道の咸興(ハムン)などの埋葬地を訪れる。

ハフィントンポスト日本版は今回、墓参団への同行取材を申請し、認められた。北朝鮮各地を巡る墓参の様子などを随時報告する。

【9月18日】

港町・清津(チョンジン)でかつて日本人が住んでいた街へと、墓参団一行を乗せたバスは入っていった。港から急な斜面に張り付くように広がっている住宅街だ。

その中の小学校に、バスは入った。かつて「天馬小学校」だったれんが造りの建物はそのまま残っている(現在は研究施設として利用されているという)。

神奈川県平塚市から来た近藤龍雄さん(80)は目を輝かせた。「当時とは町並みもすっかり変わってしまっているけど、一瞬だけ、自分の記憶と重なったんだ。だって俺、このすぐ裏に住んでいたんだよ」

1945年8月11日、ソ連の侵攻を受けた製鉄所などが、朝から自爆を始めていた。近藤さん一家は避難の鉄道には乗れず、歩いて山道を逃避行した。どこの国かもわからない制服の兵士たちに後をつけられたこともある。「襲われないように、女たちはみんな坊主にしていた。軍人にカムフラージュしてたのは、みんな襲われた。手が出ないよな。助けることもできないし」

同年10月ごろ、ソ連軍によって一家は咸興に連れて行かれ、父・正雄さん(当時60)は翌年1月に伝染病で亡くなった。

近藤さんが墓参団に参加するのは2回目だ。前回、日本人街に入ることはできなかった。父が眠る咸興の集団墓地も、まだ訪問できるという確約はもらえていない。それでも申込期限が迫り、見切り発車的に参加を決めた。

どうしてですか、と聞くと、近藤さんはこう言った。

「そりゃあなただって、自分の生まれ育った故郷が懐かしいとか、今どんなになっているだろうとか、訪ねてみたいとか思うだろう?」

69年も訪ねることのできない故郷を訪ねる気持ちはどんなものなのですか、と聞いてみた。近藤さんは慎重に言葉を選んだ。

「清津がさ、もっと住みよい街になっててほしいと思うよ。だから俺、ボールペンを400本つくって持ってきたんだ。子どもたちに渡せればと思ってね」

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