都会で暮らし、遠方の親を看取るということ。病院ではなく、家で看取ることの意味。

あまりにも当たり前ですが、人が死ぬことは悲しいです。
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【この記事について】

この記事は、病気が発覚してからわずか3ヶ月の闘病生活で亡くなってしまったため、病院から家に帰ることができなかった自分の父と、その父の時の経験を元に「患者主体の医療」について書籍を書いている間に自身の病気が判明し、書籍の完成まで生ききることはできなかったものの、本人のたっての希望である「家で最期を迎えること」を成し遂げた母と自分たち子どもの記録です。

母は広島で一人暮らし、僕と弟は東京、姉は熊本という形で3人の子供達はそれぞれ母と離れて暮らしていたため、近くにいられないもどかしさを感じながらも、自分たちにできることを一生懸命探してやりました。

都市部に人口が集中する傾向が結局止まっていない現状では、都市部で働き暮らしながら遠方の親を看取るというケースがますます増えてくるのではないかと思います。僕らの経験が誰かの役に立てばいいなと思い、記事を書くことにしました。

【離れて支えるということの意味】

中編で書いてきたように、僕らは姉弟3人とも実家から出て遠方で暮らしていたため、基本は遠方から母を支えていました。そのことについて、個人的に後悔がないかと聞かれると、「何が本当に母のためになったのかは正直わからない」「だが自分にやれることは最大限やれたと思う」というのが最も素直な答えになります。

何より大事なのは母本人の気持ち・希望で、「なるべく普段通り暮らしたい」という思いを最大限叶えるように努力しました。

印象的なエピソードとして、抗がん剤の副作用に伴うカツラの話があります。離れて暮らしていたからこそ、僕達家族はメール、チャット、テレビ電話などのツールを使って毎日のようにやりとりしていたのですが、母はそのテレビ電話の時すら、カツラを外さず、毛が抜けている様子を見せませんでした。

途中から抗がん剤が抜けて毛が生えてきたため、僕自身はついに母が亡くなるまで母の頭髪が抜けている様子を見ることがありませんでした。

家族とはいえ、お互いに自立した個人です。母が自分の中だけに留めておきたいことを、そのままにしておける。治療の相談、生活の相談は、例え一緒にその場にいられなくても、テレビ電話などで顔色も見ながら話ができる。

一人になって泣きたい時もあり、誰かと思いっきり話したい時もある。母の本心は今となってはわかりませんが、非常に自立してサバサバした性格の母であれば、きっとそれはそれで悪くないと思っていたのではないかと思います。

【家で看取るために必要なこと】

急速に衰えていく母の姿を見ながら、僕達家族は覚悟を決め、かねてからの希望である「家で息をひきとること」の準備を始めました。あくまで母に相談しながら、以下のことを進めました。

1. 母の病気の情報の開示と、サポート体制の確立

母は「普段通り暮らしたい」という希望を実現するため、本当に限られた人たちだけにしか病気のことを明かしていませんでした。しかし、母が弱るにつれ、そのようなことを言っている場合ではなくなり、あくまで母の許可を得た上で、段階的に色々な人に情報を開示していきました。僕達家族はもちろんですが、近くに住んでいる母の兄弟夫妻、仕事の付き合いがあった方々、友人たちなど、徐々に範囲を広げていき、家族が付き添えない時の病院の付き添い、身の回りのケアなど、様々なサポートをしていただける体制をつくりました。

2.プロフェッショナルな機関への依頼

さらに、介護保険制度を使うために地域包括支援センターの方に相談をし、居宅介護支援・訪問看護の方に来ていただいて看護をしていただくこと、生活についてはヘルパーさんに入っていただいてサポートいただくこと、そして訪問医療の方に最期まで診ていただく体制をつくりました。みなさん、母の思いに共感いただき、多大なサポートをいただきました。

3. 何があっても家で看取ると覚悟を決めること

上記2つが揃った上で、家族に求められることがあります。それは、覚悟を決めることです。訪問医療・訪問看護の方は不安な時に電話すればすぐに駆けつけてくださる体制にはなっていましたが、それでも基本的には母のケアは自分たちですることになります。例えば必要最小限の薬を入れる時には、点滴を落とすスピードを自分たちで調整したり、点滴バッグを変えたり。あるいは弱っていく母の体調に合わせて水分や食べ物を少しずつあげたり、時間ごとに体勢を変えたり。そういったことは、病院にいれば、看護師さんなどに聞いたりお願いすることが可能です。夜中になにかあった時も、ナースコールで来てもらえるという安心感があります。しかし、当然ながら家ではそれはできません。弱っていく母を見守りながら、それでも覚悟を決めて引き受けること。最期が近づくにつれ、姉弟で時間ごとに交代しながら、母のそばで仮眠をとりながらケアを続けました。もちろん、辛い時間でもありましたが、実家で親子で同じ部屋に眠るなんて、子どもの時以来です。ある意味、親子の満たされた時間でもあったと思います。

【家で看取るということの意味】

父の時の経験からすると、病院はあくまで病気を治すための場所であって、治療の停止は敗北を意味します。父がもう素人目に見ても厳しい状態になってからも、病院は点滴をやめませんでした。(別に病院批判をしたいわけではなく、病院という場所の存在意義として仕方ない部分もあると思います)。

ですが、家は別です。家はあくまでこれまで積み重ねてきた生活と歴史、思いの延長線上にある場所であり、さらに人が続いて住んでいけば未来につながる場所でもあります。そして、何よりも、患者本人と家族が主役の場所です。母が希望してきた家での最後の時間、決して十分に長いものではありませんでしたが、それでも母が体調が良い時には色々な思い出話をし、母が書いていた書籍の出版の準備や、家や土地など現実的な未来の話もできました。これは本当にかけがえのない時間でした。

母と一緒に過ごす中で、全く知らなかった母の親の話や仕事の話を聞くことができ、僕は最後の瞬間を意識するようになってからそれを一生懸命メモするようになりました。また、本当に偶然なのですが、たまたま母の目が腫れて見えなくなるギリギリ前のタイミングに、一度過去の紙焼き写真を整理してみようという話になり、母と一緒に昔の写真を見ながら色々な思い出話をしたことがありました。タイミングとしては、目が見えなくなって会話が難しくなる本当に直前であったことが本当に幸運でした。こういったことも、病院で過ごしていると非常に難しく、家のリラックスした雰囲気の中でゆっくり過ごす時間が持てたからこそだと思います。この時間を持てたという事実が、母との思い出をより豊かなものにしてくれ、その後の家族の救いになると心から思います。

その3つが幸運にも重なって、なんとか母の希望通り最期を家で迎えることができました。

【母は病気に敗北したのではない、ただ母自身の人生を生き切った】

あまりにも当たり前ですが、人が死ぬことは悲しいです。途方もなく、体が切り刻まれるほどに、悲しいです。しかし一方で、死は最初から生の終わりとして生に組み込まれていて、死はその最後の瞬間でしかないとも言えます。僕は父を病院で看取り、母を家で看取りました。

繰り返しになってしまいますが、病院で亡くなることは、病気を治すという目標に対しての敗北にどうしても見えてしまいます。人生の最後の瞬間が敗北というのはあまりにも悲しいなと感じました。その点、家で看取った時、母の呼吸がだんだんとゆっくりになっていき、その呼吸が止まる、それを見届けるまでの瞬間、その人がその人らしく、最後まで「生きた」という感覚を持つことができました。

僕らの場合は、母が亡くなったのが夜中だったこともあり、最期の瞬間は家族と親しい人だけで迎え、最期まで生き終えたのを見届けてから訪問医療の先生に連絡をしました。よくある心電図や酸素濃度のセンサーなどもなく、もはや点滴などもなく、看護師も医師もいない、医療行為から解放された状態で、ただ母の呼吸が止まるのを、つまりその人がその人生を終えるのを、ゆっくりと、落ち着いた気持ちで見ていました。

うまい言葉が見つかりませんが、それは神聖な時間でした。病気という最後のファクターだけにこだわるのではなく、母のこれまでの人生の様々な出来事に思いを馳せ、僕達に注いでくれた愛情に思いを馳せ、母の人生まるごとについて思いを馳せる、そんな時間でした。

【人は誰かの中に生き続ける、その人が遺したものによって】

母が亡くなってしまった後、僕ら姉弟はあるイベントをしました。それは、母のたっての願いだった書籍の出版パーティーでした。ホテルの宴会場を借りて、あえて少し明るめに、母に縁のある方、お世話になった方々に来ていただき、母の書籍をお渡しして、母の思い出を語り合っていただきました。

母が最後までやり遂げたかったことなのであれば、それができたことは(例え母自身が完成を見れなかったとしても)、喜ぶべきことだろう、と思ったのです。それを、母が大切に思う人達とお祝いしてあげたい。

これもまた、母の死が敗北ではなく、生き切ったんだと思えたからこそ踏み切れたことでした。生き切った人の思いは、その先も、縁のある人たちの心に伝わって、残っていきます。

母が自らの生き様を持って僕達の中に残してくれたもののように。

父と母、二人の生き様と看取りから学んだことが、皆さんのお役にも何かしら立てばと願い書きました。長文をお読みいただき、まことにありがとうございました。

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※この記事の元となった、父の死に対して母が後悔をし、病院からカルテを取り寄せ、自分が記録をとっていたノートと全ての要素を時系列で照らし合わせ、いかに患者主体の医療、そして患者・家族が納得できる最期が可能になるべきか、という点をまとめた書籍「死に場所は誰が決めるの?」。自分が書いた書籍の刊行を待たず、母は旅立ちました。

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