デンマークで育児のワンオペ生活を描き続けたある女性の話

「あんたたち、めちゃくちゃ眠いんだよ~、すんごい眠いんだよ~」。カオスな日常を自虐的に描いたリーネの作品が、デンマークの女性たちから支持を得ている。
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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

美しく、理想にあふれたインスタの世界に、おむつと洗濯物に囲まれた生活、食べこぼしやおもちゃで片付かないリビング、日々寝不足でクマが取れない自分の姿…そんな様子をさらけ出したらどうなるか。

今回は、ある女性が育児休暇中に描き始めたイラストが、デンマークの多くの女性たちに支持されていった物語について書きたいと思います。


きつかったワンオペ育児を支えたもの

この女性の名はリーネ・キェルセン・イェンセン (Line Kjeldsen Jensen) 。もともと彼女は、フリーランスのグラフィックデザイナーでした。2016年春、3人目の子どもを出産後、彼女は足先が腫れあがってどうにもこうにも動けず、外出さえままならない状態になります。

彼女の夫はギタリスト。デンマークで超有名なミュージシャンたちに引っ張りだこで、一週間に4,5日は自宅に帰ってきません。ということで、リーネは3人の子ども(うち一人は新生児)とのワンオペ生活を、使えない足を引きずりながら送ることになったのでした。

 

リーネはそんな自分のはちゃめちゃな日常の様子を、友人たちに伝えるために描き始めます。どうせ見ている人は殆どいないだろうし、自分のカオスな日常を自虐的に描き、友人たちにクスっと笑ってもらえたら、そんな思いから描き始めたそうです。右手で授乳しながら左手でささっと描くこともあった日々。そうして描いたイラストを、毎日一枚インスタに載せ始めました。

 

彼女の思惑に反し、インスタのフォロワー数はどんどん増え始めます。そして、自分の描いたイラストに共感するコメントが付くように。こんなことを描いて大丈夫だろうかという不安とともに、自分が置かれた状況に共感してくれる女性たちが多いことにリーネは驚き、そして喜びを感じ始めます。

 

もともと、育児生活はリーネにとって理想の生活ではありませんでした。

フリーランスのカップルは仕事において同じ条件なはずなのに、なぜ自分だけが今まで築いてきたネットワークやキャリアを棚上げしなければいけないのかという思い。

子どもと過ごす限られた時間は、すばらしいものであるはずなのに、そう感じられない罪悪感。

夫から「母親は子どもと過ごせることが喜びなんじゃないの?」と言われた時の絶望感。

24時間誰かのために生きる日々の中で、じわじわとすり減っていく自分。

愛する子どもたちと過ごす時間の中には、もちろんキラキラと輝く瞬間はあるけれど、そこに至るまでに力尽きる毎日や、酷い母親の代表だと感じてしまう自分と向き合わなければならない時も、嫌というほどあったのでした。

 

そんな日々をリーネは描いていきます。そしてインスタを更新するたびに、フォロワーは増えていったのです。

イラストの紹介を

リーネのイラストをいくつか紹介しましょう。作品はすべて彼女のインスタグラムの中で紹介されたものです。

① まずは初期の頃の作品。右手で新生児を抱きながら、左手で描いた作品です。

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

 ベッドで授乳しているリーネと、布団を一人で着て熟睡する夫…。


② なかなか帰って来ない父親に話しかける次女。

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次女:ねぇパパ、どこに住んでるの?
パパ:えっと、ここだけど?
次女:ちがうよ、どこに 住 ん で る の?


③ 朝が来て、子どもたちは元気に起き出して。あぁ、また今日も一日が始まる(呆)

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

起きるの? また?? もうこれはエンドレスだな…。


④仕事が恋しい…

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

夫:あぁ、オレもうそろそろ休みたいよ、ハニー!
リーネ:あぁ、あたしはそろそろ仕事したいよ…

 

⑤ 愛する夫が家に居るときは手伝ってくれるし、それは本当に嬉しいことだけど…

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ふんっ、まただよこれ、またあたしがキッチンテーブル拭いてるし。「ほら、オレが全部やったんだぞ」 とか言っちゃってさ、それでテーブル拭いたのかよ? 拭いてないじゃん! それ以外のことは全部やったって?んー、まぁそうかもしんないけど、そういう話じゃないんだってば….。


⑥ 突然の愛の告白は、子どもの声にかき消され…

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

ハニー、オレたちの生活って、ほんっと最高だよなぁ~。
う ん ち 出 たー!!!
オレたちの、何て?

 

⑦ 早く寝てくれー

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

あんたたち、めちゃくちゃ眠いんだよ~、すんごい眠いんだよ~

 

⑧ 親になってからの母への思い

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

母が、わたしを寝かせるために費やしてくれた時間を思うと、全然電話してなくて、がっかりさせてるなって思う。


どんどん大きくなるプロジェクト

もともとは、イラストの仕事をしていたわけでも、それで将来食べていきたいと考えていたわけでもなかったリーネ。ただ、日々の様子を描いてインスタに載せることが、自分自身であると実感できる唯一の時間だったそう。そうしてフォロワーの女性たちから、このイラストを本にすべき!というコメントが入るようになります。

日々の様子を描いた、何の変哲もないイラストが本になんてなるわけがないとリーネは一蹴するのですが、それでも続く、本にすべき!! の声。そしてリーネは、国の芸術基金に応募することを決意。

デンマークでは、作家やイラストレーター、ミュージシャンなど、芸術活動をしている人々が、申請をして認められれば国から支援を受けることができます。そして彼女は、自身の作品を書籍化するための資金を獲得するのです。

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

 2017年、『毎日始めからやり直し ーグラフィックノヴェルのようなもの』というタイトルで、育児どっぷりのワンオペ生活の葛藤をまとめた第一作目が発表されます。

同年、この作品はデンマークのコミック作家新人賞を受賞。そして2019年には、仕事に復帰したリーネと家族の生活を描いた第二作も発表されました。

夫との家事分担や夫婦生活、少し大きくなった子どもたちとの日々や、仕事と家庭のバランスなど、復帰してからの葛藤も赤裸々に、でもクスっと笑える要素も忘れずに描かれています。タイトルは『大きな計算式 ーほんものの愛の物語』。表紙でつな渡りをしているリーネの姿からも、その様子は伝わってきます。

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北欧語書籍翻訳者の会のnoteより

自分のドタバタな日常をただ描いていたつもりだったリーネは、それが自分だけでなく、多くの人々の日常でもあったことに気づいていきます。

「あなたのイラストに救われた」というメッセージをいくつも受け取ったリーネは、この日々の葛藤をもっとわたしたちは表現していく必要性があると語ります。

 

今やウェブショップで、ポスターやグッズなどの売れ行きも好調なリーネ。現在は、グラフィックデザイナーの仕事ではなく、イラストレーターとして幅広く活動し、8月からは新たにお店も開店するそうで、とても順調な様子です。

そしてインスタでは、新しいプロジェクトにも挑戦しています。それは、デンマークの有名な作曲家、カール・ニールセン (1874-1931) と、妻で彫刻家のアンネ・マリー (1891-1931) を描くこと。有名な芸術家でもあったこの夫婦が、どのようにして夫と妻でありながら、芸術家としての活動を続けてきたのかということを、リーネは偶然知り、とても興味を持つのです。

例えば、妻のアンネ・マリーは自宅にいると仕事に集中できないため、長期で自宅を離れて作品を作るのですが、そうすると、夫のカールは妻を必死に、時には離婚を突き付けながら、彼女を呼び戻していたという事実。100年ほど前の出来事とはいえ、現代でも考えさせられることの多いエピソードがいくつもあったようです。そんなイラストも、彼女のインスタから見ることができますよ。

オリジナルは夏の間デンマーク、コペンハーゲンにある国立美術館、王立石膏模型コレクションにて展示されます。その様子はこちらの動画からも少しご覧いただけます。リーネがスケッチを描いている様子やインタビューなども(デンマーク語のみ)。

 

「ワークライフバランスが整った国」として日本でも紹介されることが多い北欧、デンマークでも、言葉にならない葛藤やタブーが、まだまだ人々の日常や心の中に潜んでいるようです。それは、リーネの作品がこれほどまでにデンマークの女性たちから評価されていることからも、改めて垣間見ることができます。

作品は本人に許可を得て掲載しています。

(文責:さわひろあや

 

(2020年8月12日の北欧語書籍翻訳者の会のnote掲載記事「デンマークで育児のワンオペ生活を描き続けたある女性の話」より転載。)