「#KuToo」運動は「わがまま」なのか? 社会運動を研究する富永京子さんと考える

「好き」の正体を見つめることで、たとえ職場でヒールを強制されていようがいなかろうが、私たちは繋がれるはずだ。
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Paulien Tabak / EyeEm via Getty Images

「職場でのパンプスやヒール着用を強制しないでほしい」と呼びかけた署名活動「#KuToo」。発起人である石川優実さんに対しては、賛同の声が広がる一方、理不尽なバッシングも相次いだ。

#KuTooは「わがまま」なのだろうか?

4月に『みんなの「わがまま」入門』(左右社)を出版した社会学者の富永京子さんは、著書の中で、私たちが日ごろ抱えているモヤモヤを言葉にすることは「わがまま」ではなく、これからの社会を形づくることにつながる、と説く。

自分の靴を選ばせて、と声を上げることは「わがまま」なのか?

また、「#KuTooに賛成だけど、声には出せない」「同じ女性だけど“自分ごと”として感じられない」という気持ちは「間違っている」のか?

富永さんがハフポスト日本版に寄稿した。

 

私には「ヒールが低いけど女性らしい靴」が必要だった

私の靴には3センチ以上のヒールがない。履く必要がなかったし、履きたいとも思わないし、何より履けないのだ。

一度だけ、友人たちと出かけるときに高いヒールの靴を履いたが、足元がもたついたり、溝にはまってしまったりとずいぶん迷惑をかけてしまったから、なるべくヒールの太いパンプスやウェッジソールのサンダルを履くようになった。学生時代から男性の多い環境が多く、彼らに混じって歩くことが多い私は、彼らと「一緒に歩けて」「女性らしさを損なわない」靴を自ずと選ぶようになっていった。

私の友人たちは優しいから、私を置いて先に行くことなんて決してしない。高いヒールを履いてよろけてしまえば、きちんと支えてくれるだろう。ただ、彼らの手を煩わせることは、私にとっては恥のように思えた。

それと同時に、べつに私が女性らしく装ってもそうでなくても、多くの人は気にしないだろう。ただ私はそうしたかった。彼らと全く異なる存在であり、彼らと競う気がないことを自覚していたかった。その一方で、早足で歩く彼らについて行けるようにありたいと思っていた。

自分が社会でスムーズに生きていくために、自己イメージを守るために、地に足を着ける靴のデザインは非常に重要だった。だから、スニーカーでもスリッポンでもなく、ヒールの低いパンプスが必要だったのだ。ショップに行けば、どこでも「ヒールが低いけど女性らしい靴」を出してもらえるようお願いし、店員さんとよく悩んだ。

ごめんなさい、「好きな人は履けばいい」と思っていた

「#KuToo」キャンペーンがネットを賑わしている。

ライターであり、女優である石川優実氏によって呼びかけられた、職場でのヒール着用強制禁止を求める社会運動だ。

このキャンペーンに対する反応の中で、ギクッとしたものがあった。それはおそらく男性からと思われる「好きで履いていると思ってた」(あるいは「好きで履いているんだろう」)という反応だ。

恥を忍んで言うが、自分も、彼女たちは好きで履いていると思っていた。本当に恥ずかしいことに、そこまで「強制」の状況が蔓延していることすら知らなかったのだ。

もちろん、百貨店に行くこともあれば、出張の際はホテルに泊まり、オフィス街を歩くことだってある。その度に目にするパンプス姿の女性について、「好きで履いている」としか思っていなかったのだ。ショップの女性販売員の方たちなどにあっては、「見た目にかかわる仕事なのだから、美しく見せる意識が高いのだろう」くらいにしか思っていなかったかもしれない。

#KuTooの運動が進み、マスコミ等の調査によって「ヒール着用強制」を求める職場が少なくないことが明らかになっている。

この結果を女性がどう捉えるかわからないが、少なくとも私は、こうして可視化されなければ分からなかった。

私は先日上梓した本『みんなの「わがまま」入門』で、以下のようなことを書いた。

現代社会は、みんな「同じ」ように見えても、それぞれ目に見えない差異を抱えている。だからこそ、自分と同じように見える人々の背景を想像することが重要なのだ。

これは常々、講義のなかで学生と確認しあっていることでもある。

しかし、講義の場で、著書の中で、あれほど「人々の背景を想像するように」と言いながら、簡単に目に見えないものを切り捨てていた自分に愕然とする。お前の世間が狭いんだ、と言われてしまえば「すみません」と言うしかないのだが、同じ「女性」ですら見えない苦しみがある。

そして私は、同じ女でありながら、彼女たちを知らず知らずのうちに搾取していたのだ。

それでは、この問題にとって完全に自分は「よそ者」なのか、職場で苦しむ彼女たちの力に全くなれないのかと言えば、そういうことはない、と思う。それをうっすらと考えるきっかけになったのは、この運動を批判する人も、場合によっては支持する人も用いている「好き」という言葉――「好きな人は履けばいい」(「好きで履いているんだから」)という言葉だ。

あなたの「好き」や「きれい」は誰かに作られたものではないか

今回の寄稿依頼を受けた際、靴にまつわるテーマだったということもあり、筆者は柚木麻子『本屋さんのダイアナ』(新潮社)のワンシーンを思い出していた。

主人公のひとりである彩子は、恋人である亮太の好むように「とろりとした頼りない素材の服」を身に着けつつ、「髪の色を明るくし、メイクを覚え」る。彼女は、「綺麗な足のモデルやタレントが大好き」という亮太が気に入っている飴細工のようにきゃしゃでセクシーなミュールを履く。

彩子と亮太の出会いは「ヤリサーで有名」なインカレで、亮太は新入部員であった彩子を実質的に強姦する。悲痛な経験から自らを守るため、「断じてあれはレイプではない」と思い込もうとし、誘われるままにデートを重ね、自らの傷をなかったことにしようと、彩子は亮太を好きになろうとし、正式な「恋人」になるように試みる。

強姦というおぞましい経験を「合意」のものへと塗り替えるため、何もかもを亮太の好みに合わせようと努力する壮絶なシーンだが、表面的にはそれは彩子の自発的な選択、「好きだから」の結果として選ばれる。誰も、何も彼女に「強制」していないのだ。その心情描写のリアルさに、最初読んだときは呼吸が苦しくなるほどだった。

ヒールを「好きで履いている人」はたくさんいる。

例えば、私が普段から目にする「好きで履いている」人々の代表的な例は、私が教える大学に通う学生たちである。彼女たちは別に服装を強制されているわけではないから、フラットな靴を履いてもよいし、それこそスニーカーでもスリッポンでもよい。でも、ヒールを履いている学生は思いのほか多い。

強制されている人に対して、「好きで履いているのだから」と無関係な人は言う。当事者の人々も、運動を支持する人々も、「好きな人は履けばいい」と言う。

しかしこの問題に関して言えば、「好き」や「きれい」を作られているから、根が深いとも言えるのではないか。

学生たちにヒールを履いている理由を問えば、こう返ってくる。「自分は背が低いし、スタイルがよく見えるから」「高いヒールが好きだから」。そうした回答をする人々を責める気はまったくない、それこそ「好きで履いているのだから」。

でも、「自分は背が低いし、スタイルがよく見えるから」と答えたということは、理想のスタイルがあるとどこかで知ったり、背丈を誰かとくらべたり、容姿の良し悪しをはかる規準を手に入れてしまったということだ。

その「よく見える」は誰のまなざしを受けてのものなのか、「好き」はどのように作り上げられてきたのかを検討することこそに、私は意味があると思う。

「好き」の正体を見ることもまた、私なりの「#KuToo」

仕事上、ヒールのついた靴を強制される機会を持たない自分は、そういう靴がまさに「好き」なのだ、だから履いているのだと思っていた。それがばくぜんと自分らしいと感じていた。

しかし、こうして靴について書く機会をいただき、自分のなかに沈められた「好き」や「らしい」を一つ一つ取り出して洗い出し、まじまじと覗き込んでみると、その「好き」がそれほど単純ではないことに気づく。

私の踵は、周囲の男性についていき、迷惑をかけないために低いヒールを地面につける。一方で、私の目は、周囲の男性と同じではない存在なのだと絶えず確認するように、つま先に向けて尖るパンプスの輪郭を見下ろす。

自らが身につけているものを、自発的に選んだ結果であり、「好きなもの」として積極的に選んだ結果として見ることで、私たちをやわらかに束縛する記憶や規範の正体を覆い隠そうとしてはいないか。「好きだから」という言葉でごまかさず、その正体を見ることもまた、「#KuToo」が今まさに問うている社会の不平等を捉え直す試みになるのではないか。

だとすれば、たとえ職場でヒールを強制されていようがいなかろうが、私たちは繋がれるはずだ。

周囲の男性に合わせて歩くから、自ずと歩数も多くなる。新しく購入したローヒールパンプスの裏張りを注文する間、私はなぜあれほど「迷惑をかけまい」と考え、周囲の男性についていこうとしたのか、ということについて考えている。

明確な答えは言葉になっていないし、なったとしてもどこにも書かないかもしれないが、そう考えることが、ショップで働く彼女たちへの共感に繋がる。自分なりの「#KuToo」であると思う。

(編集:毛谷村真木 @sou0126