「能力主義」はなぜしんどい? マイケル・サンデル教授と平野啓一郎さんが語る日本社会の問題(対談全文)

60分に及ぶ白熱した対談の記録を公開します。
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「自分だって努力でここまで成功できたんだから、みんな努力すればできるよ」

この言葉に潜む問題点は……?

努力と成果がものを言う「能力主義(メリトクラシー)」が今、格差と分断をより深刻なものにしている。そう指摘するのは、ハーバード大学教授で政治哲学者のマイケル・サンデル氏だ。

NHKで放送された『ハーバード白熱教室』や日本でも100万部を突破した著書『これからの「正義」の話をしよう』などで知られるサンデル教授が、最新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)で警鐘を鳴らすのが、行き過ぎた学歴偏重社会とその背後にある能力主義だ。

ハフポスト日本版は10月13日、サンデル教授へのインタビュー番組を配信した。対談相手は小説家の平野啓一郎さん。直近の著作『本心』『マチネの終わりに』などをはじめ、社会にはびこる自己責任論、労働問題など、現代社会の空気がにじむような数々の作品で知られる。

ハフポストでは、サンデル教授と平野さんの約60分に及ぶ対談のやりとりを【全文公開】する。

前編にあたる本記事では、日本社会における能力主義の位置付けを平野さんが語ったのちに、サンデル教授が改めて能力主義が分断を深めてしまうメカニズムを解説。日米の野球界で大活躍の大谷翔平選手を例にとって、成功者が驕り高ぶらないために必要なのは「運の存在」に気づくこと、と語る。

(※記事化にあたり発言を一部再編集しています)

対談番組のアーカイブはこちら⇒https://www.youtube.com/watch?v=iugjCPB3oz4

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マイケル・サンデル教授と平野啓一郎さん
ハフポスト日本版

平野啓一郎さん(以下「平野さん」):

こんにちは、小説家の平野啓一郎です。

今日は新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が非常に好評のマイケル・サンデル教授をお招きして、対談させていただきたいと思います。

この本は日本でもとても売れていて、もう8万部を超えていると先ほど出版社の方もおっしゃっていました。

僕たちが普段ずっと考えてきた能力主義、あるいは自己責任論。色々なことが縦横無尽に論じられていて、日本人もみんな読むべきじゃないか、というくらい非常に重要な本です。

早速、サンデル教授をお招きしたいと思います。今日はよろしくお願いします。

マイケル・サンデル教授(以下「サンデル教授」):

平野さん、初めまして。今日はよろしくお願いいたします。

平野さん:

サンデルさんは、今日はどちらから配信なさってるんでしょうか? 

サンデル教授:

今日はスペインのマドリードから参加しています。執筆作業をしたり、友人に会ったり、美しいスペインの街や太陽を楽しんだりしながら妻と過ごしています。

平野さん:

てっきりアメリカからだと思っていました。驚きです。

では時間も限られていますので、早速本題に入っていきます。最初に少し、僕のこの本の感想からお話させていただいて、対談に入っていきたいと思います。

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『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
早川書房

 「能力主義」と日本社会

~根強い自己責任論と、傷ついた人々〜

 

平野さん:

日本でも新自由主義の影響のもと、自己責任論、あるいは承認欲求(の問題)といったことが30年来ずっと指摘されてきています。

新自由主義自体は世界的な潮流で、自己責任論もその影響下にあるとわかっていながらも、どことなく自己責任論というのは日本独特の問題なんじゃないかという風に感じられてきていました。

実際、僕も海外で自己責任論について話す時に、どんな風に翻訳していいのかわからないと感じたり、日本独特の問題だと言われたりすることがあったんですが、この本の中ではそれが能力主義という観点から非常にクリアに、網羅的に論じられていました。

この問題が、アメリカやヨーロッパでも非常に大きな問題を引き起こしているということが改めて理解できました。

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対談に参加した小説家の平野啓一郎さん
ハフポスト日本版

平野さん:

日本の状況について少しお話ししますと、日本はバブル経済の崩壊後、「失われた30年」という非常に長い経済的停滞を経験しています。その中で新自由主義的な政策が進められ、格差が広がり続けてきました。

経済的に豊かな人たちは「勝ち組」と言われ、そうじゃない人たちは「負け組」という言い方までされました。

ゼロ年代は、この勝ち組・負け組に関して、どちらかというと勝ち組を擁護するような言説が多く見られました。豊かになった人たちはその分頑張って働いてるんだ、努力してるんだから当然じゃないかと。そして、貧しい人たちは努力が足りないんだということで、どちらかというと放っておかれ、しょうがないことだと見做される傾向がありました。僕はこれを「冷たい、消極的な否定論」と名付けています。

その後リーマンショックがあり、年越し派遣村のような社会的運動があって、派遣労働している貧困層の存在が社会に可視化されました。

それから東日本大震災があり、一時期、日本全体で非常に強いナショナリズムが高揚し、その反動として、日本人とは一体何なのかと問いただしたり、日本人の中で税金で救われるべき人と救われる必要のない人を選別しようとするような思想が強まりました。

また、日本の財政危機が強く意識されるようになると、税金で救うべき人と救うべきじゃない人がいるといったようなことが議論されるようになる。

努力せずに貧困に陥っている(ように見える)人、あるいは食生活が非常に乱れて糖尿病になったというような人たちは「医療保険で救う必要がない」「税金で救う必要がない」などと言われるようになり、ひいては、「その人たちによって税負担が増える」「彼らはみんなに迷惑をかけている」と批判されるような論調が出てきました。

僕はこれをゼロ年代の「冷たい、消極的な否定論」に対して「熱い、積極的な否定論」と区別して呼んでいます。

いずれにせよこの能力主義というのが、社会的にうまくいってない人たちの尊厳を非常に傷つけているというのは、この本で見事に分析されてる通りです。

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仕事と住まいを奪われた派遣労働者らのための「年越し派遣村」(東京・日比谷公園=2008年12月31日)
時事通信社

(サンデルさんが本で指摘されていたように)日本においても、社会的な評価は、その人が何の職業に就いているかということが非常に大きな意味を持っているので、雇用状況が不安定な中で、深刻なアイデンティティクライシスに陥っている人たちがいます。

とりわけ僕の世代ーー今の40代くらいーーは日本のロストジェネレーションと言われていて、ちょうど大学を卒業して就職するときに、バブル経済崩壊直後で日本が非常に経済的に厳しくなった世代。職を得ることが非常に厳しかった。

その後の人生においてずっと雇用が不安定な人も多く、苦労する中で「それは自己責任だ」と言われ続けたことに非常に傷つき、そして「それは決して自己責任じゃないんだ、社会的な問題なんだ」ということを批判的に語ってきた世代でした。

ここで改めて、『実力も運のうち』というご著書の中で、サンデルさんが能力主義の問題点として一番強調したかった点を教えていただけますでしょうか。

サンデル教授: 

まずは「能力主義」についての議論における、日本の状況や文脈をシェアしてくださってありがとうございます。非常に興味深いです。

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対談に登場したマイケル・サンデル教授
ハフポスト日本版

日本における労働問題や「勝ち組」と「負け組」の格差、自己責任論の風潮は、私が欧米社会で見てきたものと幾つか共通点があります。

ここ数十年の間、勝者と敗者の格差はますます深まり、政治を蝕み、私たちを引き離し、社会を結びつける絆を失わせています。 

このような勝者と敗者の間の格差は、ここ数十年の間に拡大した不平等と関係しています。

しかしそれだけではなく、人々の「成功」に対する考え方の変化も関係していると私は考えています。

競争の激しいグローバリゼーションの時代で、トップに立った人たちは、自分の成功は自分自身の手柄であり、であるがゆえに、自分は市場からもたらされる利益を受けるに値する存在だと感じるようになりました。

そして、勝者はこのように考えるようになります。取り残された人々、苦労している人々も同様に、そうなるべくしてなったのだと。

これが能力主義の非常に冷酷な側面だといえます。

そもそも論でいえば、能力主義は原理的には崇高な理想と言えます。チャンスが平等であるならば、勝者は勝ちに値するのだというのですから。

しかしそれは、平野さんがおっしゃったような自己責任論に直接的に結びついてしまうという残酷な一面がある。

自己責任論は勝者にとっては魅力的なものです。なぜなら彼らは「私の成功は私自身が成し遂げ、勝ち取ったものだ。自力で成功したのだから、私はその成功による利益を手にするに値する存在だ」と言うことができるのだから。

しかし、この原理が不安定な仕事や厳しい経済状況の中で取り残されてしまった人々に適用されると、無慈悲なものになります。なぜならそれは彼らにとって「あなたの失敗はあなたのせい」「あなた自身の責任」ということになるからです。

その結果、能力主義は勝者に、ある種の傲慢さ、謙虚さの欠如、そして自分の力ですべてを達成したという考えを生み出すともに、取り残された人々の間に屈辱感を生んでしまうのです。

そしてこの勝者と敗者の間の溝、つまり誰が成功し、誰が苦労しているかについての厳しい評価が、社会を苦しめ、社会の構造を破壊しているのだと私は考えます。

同じことがアメリカでも、ヨーロッパでも起きています。そして平野さんがおっしゃっていたことに基づけば、日本でもパラレルな状況があるのだと思います。

「能力主義」の何が問題なのか?

〜謙虚さを失っていく成功者たち〜

 

平野さん:

少し歴史を遡ると、日本でもメリトクラシーの考え方が重要だとされたのは、近代化においてのことでした。封建制社会や身分制社会との比較の中で自由主義あるいは民主主義がより優れているということを主張するために、能力主義が強調された側面があると思います。

能力主義を重んじる社会というのは、常にそうじゃない社会との間に緊張関係があります。

もし能力主義を否定するとなれば、縁故主義や独裁体制がすぐにより良い制度として取って代わるかもしれない。そういう緊張感の中で、能力主義がこれまで肯定されてきた部分があるのだと思います。

日本が近代化してすぐの1872年、福沢諭吉という人が「学問のすゝめ」という本を書いています。その中の一節に、「人は生まれながらにして貴賎・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事を良く知る者は、貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」とあるんですね。

この本は当時、日本で10人に1人が読んだと言われる大ベストセラーになりました。原則的にはこの考え方が今に至るまで、日本ではずっと続いている。

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明治期の教育家、思想家である福沢諭吉
時事通信社

特に初等教育、中等教育では、学校の先生たちは基本的に生徒たちの能力差をあまり認めません。できる子とできない子がいるとは言わないんですね。にもかかわらず、成績が良い生徒に対しては結局「成績が良いのは一生懸命努力して勉強しているからだ」というようなことを言う。

この考え方が大人になるまでずっと染み付いたままで、成功者が「成功したのは自分のおかげなんだ」と思いやすい空気があります。

ところがもう一方で、日本の状況でこの本に書かれているアメリカ社会と少し違う点もあります。それは、実は能力主義が強く求められてもいるというところです。

日本はジェンダーギャップも非常に大きいままですし、政治家はトップクラスの大学を卒業したエリート層というよりも、むしろ世襲議員が非常に多い。そんな状況の中で、もっと能力に応じた人が、男女問わず出自問わず、政治を担うべきじゃないか、会社のトップに立つべきじゃないか、と求められています。

能力主義の弊害で非常に傷ついてる人たちがいる一方で、社会自体はまだまだ能力主義社会にさえ至ってない部分で、能力主義を熱烈に求めているという矛盾した状況があります。 

サンデル教授:

平野さんの指摘は非常に重要なポイントです。

能力主義には相反する見方があります。かつて能力主義の代わりにあったのは、人々の運命が偶然や血筋で決まる階級社会や封建社会であり、それは当然のように不公平なシステムでした。

親がどれだけ裕福かにかかわらず、誰もが自分の努力や才能に基づいて成功するチャンスがあるべきだという考え方は、封建的な貴族社会や階級社会の立場から、あらゆる意味で人々を解放する考え方でもあります。

能力主義は一人ひとりに、自分の才能をもとに駆け上がっていくためにベストを尽くす機会を与えてくれるからです。

つまり、能力主義は「自由への解放」を原理としてはじまっているのです。

平野さんが先程おっしゃったように、世襲の政治家やそれに近い特定の政治家が権力を持っているような場合には、能力主義は魅力的な代替案(オルタナティブ)のように思えます。有名な家系の人だけではなく、誰もが政治家を目指して競争できるようにすべきです。

縁故主義やえこひいき、偏見などに基づいて人を採用したり起用するのは正義にもとる行為です。能力主義に応じて人をきちんと重用するのは、これまでの不平等に対して非常に重要で解放的な是正策なのです。

という風に見ていくと、能力主義には魅力的な側面もあります。しかし繰り返しになりますが、これには残酷な一面があります。

勝者が成功を自分の手柄と考え敗者が失敗を自分のせいだと考えることは、勝者と敗者の間を深く分断させます。

こうした考え方は勝者に謙虚さを失わせ、成功に恵まれた幸運を忘れさせます。

家族や教師、コミュニティー、国、時代など、自分の成功を後押ししてくれた人々への恩義を忘れさせます。

そして「失敗は自分のせいだ」と言われた敗者たちの自信を失わせます。

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Photo by Stephanie Mitchell
ハーバード大学

もし能力主義に代わるものが、階級に基づく封建社会や縁故主義社会なら、能力主義は魅力的かもしれません。

ですが今の時代、能力主義に代わるもの(として想定すべき)は封建社会ではなく、民主主義です。境遇や偶然や幸運によって誰もが経験しうる利益と負担を、もっと民主的な方法で共有する社会について考えなくてはなりません。 

健全な民主主義は、成功した人にコミュニティー全体への責務を忘れさせるような利己主義的な自己責任論を育むようなものではなく、コミュニティー全体に対する相互の責任意識を市民の中に育みます。

これこそ『実力も運のうち』を執筆した際に私が懸念した、能力主義の残酷な側面なのです。

平野さん:

ありがとうございます。

この本を読んだ方、あるいはこれから読もうと思っている方の中には、サンデルさんが能力主義自体を否定しているのか、それとも、能力、なかでも収入によって個人をジャッジすることを問題とされているのか、区別がやや曖昧な人がいるかもしれないので敢えて質問をさせていただきました。

「努力がすべて」は間違っている

〜大谷翔平選手がすごいのは、彼の努力だけによるもの?〜

平野さん:

実際、実力主義・能力主義というのは、今のサンデルさんのお話の通り、非常に魅力があるというだけではなく、ある意味では人間として自然なことなんじゃないかと思うこともあります。

 

例えば5人ぐらいの人が一緒にいて、何かをしなくてはならない時、1人が非常に不器用で上手にできなかったとします。そこに上手にできる人がいて「僕がやればもっとうまくできる」というような状況ならば「僕に代わってほしい」と言ってみるかもしれない。そうすることで5人みんながハッピーになる。こういうことはごく自然にあることで、実は社会的な実力主義というのも、ある意味ではそれが拡張されたものじゃないかと思うんです。

政府に無能だと感じる人がいる時、あるいは会社の中でまったく実力のない人が社長をやっている時、自分に代わってほしいと思う感情の拡張に近い気がします。

ただ、見逃せない点としては、今はそれぞれの職業が非常に高度で専門化していっているので、実力主義と学力主義が結局結びついてしまっていて、それが大きな差別の要因になっているというのもあります。

それからもう一つは、必ずしも学力主義と関係なく、例えばラッパーの世界などでも、非常に能力主義的な考え方が支配的です。

僕は『マチネの終わりに』という小説の中で、Jay-Zというラッパー(とアリシア・キース)が歌っている”Empire State of Mind”という曲を聞いてーーこれは、自分は非常に恵まれないところから出てきた人間だけど、最後にはこんな大成功した、ニューヨークは夢を叶えてくれる街だということを高らかに歌ってる曲なんですけどもーーニューヨークで冴えない生活をしている登場人物の女性が非常に憂鬱な気分になるという場面を描いたことがあります。

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平野啓一郎著『マチネの終わりに』(文春文庫)
文春文庫

あるいはYouTubeでお金を稼いでいる人たちも、「YouTubeなんかでお金を稼いで」などと言われた時には「毎日動画をアップするのにどれだけ努力をしているか」ということを主張し、非常に能力主義的に自分の努力と成果を強調しますよね。

念の為、改めて整理をさせてください。

サンデルさんは、能力主義が学力と結びついて人間の評価に直結しているということに非常に批判的であると同時に、一方で能力主義自体は、それ以外のもっとひどい制度に比べればマシな制度であり、ある意味では“必要悪”的な部分もあり、それ自体を完全に否定することはできないというお立場だと理解してよろしいのでしょうか?

サンデル教授:

問題の核心を突く非常におもしろい質問ですね。平野さんの考えに対して同意します。

有能な人が仕事を担い、社会的役割を果たすという意味で「能力」はよいことです。

もし私が外科手術を受けるなら、腕のいい医者に担当してもらいたいですし、飛行機に乗るなら、十分な資格を持つパイロットに操縦してもらいたいと思います。

仕事や社会的役割を、能力のある人に担ってほしいと望むのは当たり前のことです。 

問題が生じるのは、私たちの「成功」というものに対する価値体系が、社会的役割をうまくこなせる人にその役割を分配(allocate)することと絡み合ったときです。

これは平野さんが指摘した「努力」にまつわる論点につながります。

その人が仕事や社会的役割をうまく果たせるのは、努力や訓練の賜物だという側面があり、それはそれで重要です。しかし、「努力がすべて」と考えるのは誤りなのです。

偉大なスポーツ選手を例に考えてみましょう。

私は野球が大好きで、大谷翔平選手の大ファンなので、是非ここでは彼について考えてみましょう。

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エンゼルスの大谷翔平選手(2021年10月3日撮影)
AFP=時事

彼は野球史上もっとも偉大な選手の一人だと思います。

では、彼はどうやってあれほど偉大な野球選手になったのでしょうか。 

当然ながら子どもの頃から練習し、懸命に鍛錬し努力を惜しまなかったでしょう。それは真実です。

「投げる」と「打つ」の両方ができるなんて本当にすごいことです。

けれども私だって幼い頃から野球を練習しました。野球が大好きで何時間でも練習しました。

しかし、たとえ私が1日24時間練習しても大谷選手のような偉大な選手には決してなれないでしょう。なぜなら、彼には私とは違って、彼自身の努力に加え、素晴らしいスポーツの才能があるからです。

これが、努力だけが様々な仕事や社会的役割における成功の理由と考えるのは間違っている理由です。

ましてや、ある人が才能に恵まれ、その結果、成功しているからといって、才能をその人の手柄と考えるのは一層間違いです。私たちはよくそう考えてしまいがちですが、これは間違っています。

そして考えてみてください。

大谷選手が幸運なのは、投打の素晴らしい才能があるだけではなく、人々が野球を愛し、野球そのものを非常に高く評価する時代に生きているという点にもあります。

そして当然そのことは彼の手柄ではありません。

もし大谷選手がイタリアのルネサンス期に生きていたら、どうなっていたでしょう?

当時は野球の人気がなく、彼は今日ほど評価されていなかったでしょう。当時の人々は野球よりもフレスコ画家を評価していましたからね。

私たちがどれだけ才能に恵まれていたとしても、それは私たちの手柄ではありません。私たちの自己責任でもなく、運です。

また、持って生まれた才能が、たまたま高く評価される時代と社会に生きているということも、私たちの手柄ではありませんし、私たちの自己責任ではないのです。

これが、能力主義社会において、成功者にもっと謙虚さが必要と私が考える理由です。

謙虚さは、才能を育んだ幸運の存在を認め、持って生まれたその才能に対して評価や栄誉や報酬を与えられる時代にたまたま生きているということを認めることから始まります。 

だから、私は成功者こそ自分のおごりを疑い、成功は自分の手柄だという考えを問う必要があると思います。

人生で運の持つ役割に目を向ければ、偶然にも自分が手にした才能に対して、より謙虚な態度になります。

そうした謙虚さがあれば、異なる才能を持っていたり、自分ほどの功績はなくとも、社会に重要な貢献を果たしているすべての同胞に、より大きな責任感を抱くことになると考えます。

ご理解頂けたでしょうか。

平野さん:

非常に共感します。最近日本では東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。

その時期に読んだ新聞記事で興味深いものがありました。

オリンピックのアスリートは特別な人たちであるということを多くの人は理解しているのに、ことパラリンピックになると、「障害者だって努力すればあれぐらいのことができるんだ」という風に自分たちを励まそうとする、そう言われることが非常にプレッシャーになって苦しい、ということをパラリンピックを見ていた障害者の人が語っていたものでした。

結果は努力のみで引き寄せられるものではないと知ることは、多くの生きづらさを解消する意味でも重要だと考えます。

対談の全文記事は後編に続きます。⇒https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6163fac3e4b024dc5282aaf8

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対談で登場した2人の著書
ハフポスト日本版

<UPDATE> 記事のタイトルを変更しました(2021年11月10日更新)