聴こえない親を持つCODAのぼくが自覚した、聴覚障害者に対する「やさしい差別」

CODAのぼくは、ろう者への偏見や差別を憎んでいる。けれど、そんなぼくにも、ろう者に対して「やさしい差別」をしていると痛感した日があったのだ。
(写真はイメージ)
DuKai photographer via Getty Images
(写真はイメージ)

聴覚障害者である両親のもとで育ったぼくは、ろう者への偏見や差別を憎んでいる。「聴こえないこと」を理由に彼らを下に見ることは、決して許されないことだ。

聴こえる人にもそれぞれ得意不得意がある。視力が悪くてメガネをかける人にとっては「見ること」が、数字が苦手な人にとっては「計算すること」が不得意なことと言えるだろう。 

同様に、ろう者にとっては「聴くこと」が不得意なこと。ただ、それだけなのだ。それなのに、「聴こえない」事実によって、聴者はろう者のことを一段下に見てしまうことがある。そのたびにぼくは、「彼らは聴こえないだけで、他は一緒なんだよ!」と吠えたくなってしまう。

けれど、そんなぼくにも、ろう者に対して「やさしい差別」をしていると痛感した日があったのだ。

聴こえないろう者が身近にいたCODAのぼく  

(写真はイメージ)
Junichi Yamada via Getty Images
(写真はイメージ)

ぼくにはろう者・難聴者の友人がいる。みな、大人になってから出会った人たちだ。 

聴こえない両親の子どもであるCODAとして育てられたぼくには、ろう者に対する偏見はない。空気を読みながら聴者と話すよりも、ろう者と手話で裏表のないコミュニケーションを取る方が楽だと感じることもある。 

幼少期から、外の「聴こえる世界」と家での「聴こえない世界」を行き来してきたぼくにとっては、ふたつの世界に境界線がない。時折、「ろう者は別の世界の人たち」と受け止めてしまう聴者がいるが、ぼくにはその感覚がなく、聴こえる世界も聴こえない世界も地続きだ。 

だからだろうか、ろう者・難聴者の友人たちもぼくのことを自然に受け入れてくれた。

「あなた、CODAなんだね」

彼らから初めてそう言われたとき、ぼくは“自分のことを理解してくれる仲間”ができたような気さえした。厳密に言うと、CODAが抱える葛藤と彼らのそれとは違うにもかかわらず。

彼らと過ごすときのぼくは、無意識にろう者のように振る舞っていることがある。言葉を発さず、手話でのみ会話する。不思議な感覚だが、そのときのぼくからは「音」という概念が消えてしまっている。 

「五十嵐くんって、誰よりもろうっぽいよね」

一度、ろう者の友人に指摘されたことがある。声を出さず、手話だけで会話するぼくの姿を見て、彼は笑った。そこで気づくのだ。いま、ぼくは完全に聴こえない世界に溶け込んでいたな、と。彼らと一緒に過ごす時間は気楽で、ぼくも自然体でいられる。

けれど、やはりぼくは聴者だ。ろう者にはなれない。耳を塞いでも雑音は入ってくるし、彼らを完全に理解できているわけでもない。その事実を忘れ、「理解している」という“驕り”にも似た思い込みによって、無意識のうちに彼らを傷つけてしまうこともあった。

ろう者の友人たちと新宿で飲んだ夜 

(写真はイメージ)
JaCZhou 2015 via Getty Images
(写真はイメージ)

数年前、ろうの友人たちと飲み会をしていたときのことだ。

場所は新宿にあるごくふつうの居酒屋。その場にいた聴者はぼくひとり。久しぶりに集まったこともあり、ぼくは彼らにできるだけ楽しい時間を過ごしてもらいたいと思っていた。 

店員から料理の説明を受けるときは一旦ぼくが話を聞き、その後あらためてぼくが彼らに説明する。誰かが飲み物をお代わりするときは、率先して店員を呼び、その人に代わって注文する。会計時にはワリカンの金額を計算し、彼らからお金を集め、レジに持っていく。 

店員とのやりとりの一切を、ぼくが引き受けた。

「してあげている」なんてつもりはなかった。聴こえないことを理由に彼らがなにかにつまずいてしまい、せっかくの楽しい時間に、少しでも嫌な気持ちになる瞬間が生まれるのを避けたかったのだ。

(写真はイメージ)
Karanik Yimpat / EyeEm via Getty Images
(写真はイメージ)

帰り際、店を出ると肩を叩かれた。振り返ると、ろうの友人のなかでも一番仲がいいSちゃんが立っていた。

「私たちの代わりにいろいろやってくれて、今日はありがとう」

よかった。楽しんでくれたんだ。でも、お礼を言うSちゃんの表情は曇っていた。どうしたんだろう。少し待っていると、言いにくそうにしながら彼女は手話を続けた。

「でもね……、私たちから“できること”を取り上げないでほしいの」

たとえば、飲み物や料理を注文すること。うまく発声ができなくても、メニュー表を指差せば伝わる。店員を呼びたければ手をあげればいいし、料理の説明が理解できなかったら、ゆっくり話してもらったり紙に書いてもらったりするなどお願いすればいい。そもそも、自分たちがろう者であることを開示すれば、お店側だって対応を考えてくれるかもしれない。それくらい、自分たちにだってできる。

そんなことを一つひとつ、Sちゃんは苦しそうに打ち明けてくれた。

ショックだった。ぼくの気遣いを否定されたからではない。良かれと思ってしたことが逆に彼らをひどく傷つけていて、そのことにまったく気づかなかった自分自身にショックを受けたのだ。 

2時間ほどの飲み会の間、なにもかもを取り上げられてしまい、彼らはきっと「なにもできない人」として扱われる哀しみを味わっていたのだろう。 

この経験は初めてではない—―。その日の帰り道、ぼくは電車に揺られながら、昔のことを思い出していた。

聴こえない母が「パートをしてみたい」と言った日 

(写真はイメージ)
byryo via Getty Images
(写真はイメージ)

高校生の頃、母が一度だけ「パートをしてみたい」と言い出したことがあった。市内にあるスーパーの惣菜コーナーで、パートの募集の張り紙を見かけたという。 

ぼくの家はあまり裕福ではなかった。障害者採用枠で雇用され塗装工をしていた父の給料は、聴者と比べて低かった。あるときから、ボーナスが一切もらえなくなってしまったことも知っていた。そのとき、ぼくは私立高校に通っていた。 

父も母も「家計が苦しい」なんてひとことも言わなかったけれど、おそらく無理をしていたに違いない。少しでも助けになればと思い、母は自らパートに出ることを決心したのだろう。

でも、ぼくは即座に反対した。

「そんなの無理に決まってるだろ」

聴こえない母が聴者に混じって、どうやって働くというのだ。上司からの指示も聴こえない、同僚とお喋りもできない、お客さんに挨拶もできない。そんな環境に身を置けば、そのうち嫌な目に遭うに決まっている。悪口を言われるかもしれない。その悪口さえ聴こえない。孤独感のなか働くつもりなのか。

聴者ばかりの世界で、聴こえない母にできることなんてない。 

ぼくはそんなことをまくし立てた。 

最初は「大丈夫だから、心配しないで」と笑っていた母も、ぼくの剣幕を目の当たりにして、押し黙ってしまう。それでも言葉をせき止めることはできなかった。次々に感情が溢れ出す。

「いじめられたらどうするんだ。自分から傷つけられにいく必要なんてない。お金がないんだったら、ぼくがアルバイトする」

そこまで言い切ると、「わかった、やめとくね」と母は眉尻を下げ、弱々しい笑みを浮かべた。以来、母が外で働きたいと口にすることは一度もなかった。

母を「無力な障害者」にしたのは誰か

(写真はイメージ)
Koukichi Takahashi / EyeEm via Getty Images
(写真はイメージ)

あのとき、ぼくは母を心配し、守っているつもりでいた。障害者への理解がない外の世界へ出て、彼女が傷つく可能性を少しでも減らしたかったのだ。 

母のことが好きだからこそ、いつも笑っていてもらいたい。心無い言葉や態度からは、できるだけ遠ざけておきたい。だとすれば、なるべく外の世界と関わらずに生きてもらうしかない――。

それは大きな間違いだったと今ならわかる。 

母に対し“過保護”になればなるほど、ぼくは彼女を「なにもできない、無力な障害者」へと仕立てあげていた。なによりもそれが母を傷つけていることにも気づかずに。 

新宿で飲んだ別れ際、ろう者のSちゃんのひとことがきっかけで、過去を思い出したぼくは、母に放った言葉の罪深さに打ちひしがれた。

あのときの母は、悔しくて、哀しくて、仕方なかっただろう。ぼくは、ろう者の気持ちをこれっぽっちも理解できていなかったのだ。

Sちゃんと出かけた関西への二人旅

(写真はイメージ)
d3sign via Getty Images
(写真はイメージ)

数カ月後、Sちゃんからメッセージが届いた。「一泊二日で関西へ遊びに行こう」という旅行へのお誘いだった。ちょうど同じタイミングでふたりとも会社を辞めていたこともあり、ぼくもSちゃんも時間を持て余していたのだ。 

ぼくはすぐに賛同し、日程を決めると、宿泊先を検索しはじめた。 

けれど、ふと手が止まる。また同じことを繰り返すのか?

そして、思い切ってSちゃんにメッセージを送ってみた。 

「旅行の手配、お願いしてもいい?」 

Sちゃんは喜んでぼくのお願いを聞いてくれた。

一泊二日の短い旅は、とても密度が濃く充実したものになった。宿泊したホテルは想像以上に豪華で、けれど驚くくらい安い。観光名所もしっかり調べあげ、朝から晩までタイムスケジュールが組まれていた。夜ご飯は、地元では知る人ぞ知る小料理屋。こぢんまりとした外観で入れるか不安だったけれど、なんとしっかり予約までしてくれていた。

二人旅はSちゃんのおかげで本当に楽しかった。元来ものぐさで計画を立てるのが苦手なぼくが彼女の代わりに仕切っていたら、きっと散々な旅だったに違いない。 

楽しい時間はあっという間に過ぎた。東京駅での別れ際、ぼくはSちゃんに言った。

「Sちゃんのおかげで、とっても楽しかった。ありがとう」 

するとSちゃんは得意げに笑う。 

「私、こういうの得意なの。またどこかに行くときは、任せてね」

ぼくらは手を振り合い、それぞれの帰路に向かう。

雑踏のなかでなんとなく後ろを振り返ると、Sちゃんは自分の両足でしっかり歩いていた。初めてろう者の彼女と“対等”になれた気がする。ぼくは湧き上がる喜びを噛み締めた。

なんでもしてあげるのは「やさしさ」じゃない  

(写真はイメージ)
Alexandra Segova via Getty Images
(写真はイメージ)

聴こえる人のなかには、聴こえないろう者に対してなんでもしてあげようとする人たちがいる。根底にあるのは、「やさしさ」だろう。けれど、その過剰なやさしさによって生まれる「やさしい差別」が、ろう者を傷つけることもある。

ぼくら聴者は、やさしくすることと同情することを履き違えないよう、思い込みを捨てなければいけない。 

ろう者は決して「なにもできない人たち」ではない。

聴者が彼らに助けてもらうことだってある。ろう者は聴者によって一方的に助けられる存在なのではなく、お互いに助け合う存在なのだ。

ぼくは聴こえるけれど、できないことがたくさんある。初対面の人とはうまく会話できないし、PCスキルも低い。できないことを数えればきりがない。いつも誰かに助けてもらいながら生きている。もちろん、「誰か」のなかにはろう者もいる。 

これからもぼくはろう者と支え合う関係を築いていきたい。

五十嵐大

フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。

 (編集:笹川かおり)