3歳で生き別れた父。沖縄まで探しに行って見つけた、私のルーツ

これを読んで、私と同じく両親への寂しい想いを抱える人が孤独から解放されたら、嬉しい。
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この話は、3歳で生き別れになった父を探しに行った、3日間の旅の記録である。私が3歳の時に両親が離婚して以来、父には一度も会っていなかった。

そこで無事に父と再会したわけだが、その日から、もう10年以上が過ぎている。会ったのはそれっきり。今後も会うことはないだろう。だから私にとってはもう「過ぎたこと」だし、ずいぶん昔の話なのだけど、当時書いた日記が手元にあるので、それを辿りながらそのとき感じた心情も細かく執筆していこうと思う。

幼少期から片親に育てられたり、早くして両親を亡くされたりして、寂しい想いを抱えている人がいたら、これを読んで「自分だけじゃない」と少しでも孤独から解放されたら嬉しい、という気持ちで書いてみることにした。

菅原恵利さん
菅原恵利さん
筆者提供

20歳前半で迎えた母の死

時々、「いつか母が年を取って死んでしまったら、せめて父が何処で何をしていた人かぐらい調べよう」。

そんな風に、ふんわりと考えることがあった。でも父に会ったところで歓迎してもらえないどころか、拒否をされるような気がしたし、会いたいと思わなかった。ただ、父がどんな人なのかを知ることで、自分が何者なのか、知ることができるような気がしていた。

でも、探しに行くといっても、母が亡くなってからにするつもりでいたので、自分のルーツ?を知れるのは、きっと半世紀くらい先のことになるだろうと予想していた。

しかし、実際にその日が来たのは、20代前半のことだった。こんなに早くその日を迎えるとは、思ってもみなかった。女手一つで育ててくれた母が、ある日突然、悪性脳腫瘍と診断され「余命一年」と宣告されたのだ。そのときは桜が満開だった。もう会話ができなくなってしまった母と、病院の窓から桜の花びらが散っていく風景を見ながら、「嘘であってほしい」と何度も願った。

そして一年後、本当に母は亡くなった。またあの頃と同じように、桜が満開の季節だった。今度は黒い服を着て、もうここにはいない母を想いながら、桜の花びらが舞う道を歩いていた。

父の戸籍が沖縄に? 行って確かめるしかない

それから4カ月が経過した頃、私は、東京都の某市役所をウロウロとしていた。「どんなご用件ですか?」と職員の方に声をかけられ、「父親の現住所を知りたいんです」と答えた。

「これまた特殊な要件ですね…」とは言われなかったけど、そう言いたそうな顔をしながら「こちらのカウンターへどうぞ」と通された。

市役所でもらった戸籍をジッと見つめ、一言一句逃さず読んでいた。文字には淡々と、過去の出来事が記されている。この家族にどんなドラマがあったかなんて、誰からも聞かされずに成人した。

両親の離婚後、父の戸籍は沖縄県那覇市に置いてあることが分かった。しかし、ここ東京の市役所では、現住所を特定することはできないらしい。実際に那覇市役所に行かないと分からないし、行っても引っ越しをしているなどの理由で教えてもらえる保証はないと言われた。

母とケンカすると「怒った顔が父親にそっくり」と言われて

父の記憶は、最悪なものしか残っていなかった。母はアザだらけで毎日泣いていたし、せっかく母が作ったごはんをいつも怒鳴りながらひっくり返していた。

ごはんがひっくり返された後、いつもお母さんはキッチンで泣き崩れていて、それを見ているだけで何もできない自分を「なんて私は無力なんだ」と感じた。これは私が2歳か3歳くらいの、人生で一番最初の父にまつわる記憶だ。

父は私にも怒鳴ったり、暴力をふるった。大切な宝物だった母方の祖母が私のために描いてくれた絵も壊された。

だから今でもクソオヤジなんだろうけど、私にはそんなクソオヤジの血が入っていて、そっくりな部分もあるんだろうなと思うと、虫唾が走った。

「お母さんに似てよかったね」

周りからはそう言われていたけれど、自分ではそうは思わなかった。

実際に母とケンカすると「怒った顔があんたの父親にそっくり!」って、いつも言われていたから。

母だけじゃない誰か知らない、怖い人の顔が自分の顔には入っている。

鏡を見るたびそんなことを思い、どんどん自分のことが嫌いになっていった。

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実家を出て、いざ沖縄へ

母は最期まで、父のことは一切何も話さなかった。知って欲しくなかったんだろう。だからあえて私からも聞いたことはなかった。

ただ、たった一度だけ、私と弟に、こう質問したことがあった。

「お父さんに会いたいと思う?」

母の後ろ姿から聞こえたその声は、悲しそうだった。

私の弟は即答で、「父さんなんていらないし!お母さんがいるから!」。潔く当たり前のように言った。

私は母を悲しませたくなかったから「別に。今更って感じ」と答えた。弟と違って可愛げのないところが、きっと父に似ているんだろうなと思いながら。

母が亡くなった後、弟に「お前のせいで俺の人生はめちゃめちゃだ!」と言われ、実家を出た。私は子どもの頃に舞台子役をやっていたので、母は送り迎えに付きっきりで、弟は鍵っ子だったからだ。弟は私を恨んでいたのだ。

母を亡くし、弟との縁も切れた。そんなグラグラな心の状態で、暴力を振るっていた父を探すことは怖かった。けど、自分のルーツを知りたい、という想いだけで、沖縄まで探しに行くことを決めた。

沖縄に到着。市役所でたらい回しにされた結果

那覇空港に到着したのは、夜中の3:00。

格安の航空便だったので、そんな時間に着いた。バックパックを抱えて朝が来るまで空港で寝ようと思っていたけれど、閉館のため追い出されてしまった。

当然、まだ電車も動いておらず、仕方なくタクシーで那覇市役所まで行って、ベンチに座って区役所が開くまで待った。

市役所では、「実の娘でも正当な理由がないと現住所は教えられないので…」と、いろいろなことを聞かれた挙句、役所内をたらい回しにされた。

そして3時間ほど経ったころ、1枚のメモが渡された。そこには2つの住所が書いてあった。父の家と、父方のおばあちゃんの家だ。

幸いなことに、2人とも那覇市内に住んでいた。すぐ近くにいる。

予約していたゲストハウスに荷物を置いて、まずはおばあちゃんの家を探した。

そして、ついに見つけた。役所でもらった住所の家の前に来た。表札の苗字もメモ書きと一致している。間違いなくここだ。

初めて会う祖母。何度も何度も涙を流して…

ピンポン。

ベルを鳴らすと、ドアの向こうから「どなた?!どなた?!」と、祖母の声が聞こえた。

「あの…まゆみ(母)の娘です!」

「は?!」

「まゆみの娘で、あなたの孫です!」

「…は?!ちょっと待って…」

それから3分ぐらい、物音がしなかった。警察にでも通報されたんだろうか…と思った瞬間ドアが開いて、動揺した祖母が出てきた。

祖母は家の中に招いてくれた。祖父は20年前くらいに亡くなっていたらしい。祖母は足が悪く、少しボケてしまっていた。

「お父さんはお母さんをすごく愛していたさ。本当は離婚したくなかったさ。暴力をふるってしまったことを後悔しているさ。きっと毎日えりたちのことを思っていたさ」。

何度も何度も、涙を流しながら同じ話をして、同じ質問をされた。

留学する夢を諦めて、家族のために必死で働いた父

祖母のシワシワの目元に滲んだ涙を見ながら、父の生きてきた道を、私は初めて辿っていた。

父も苦労したんだろう。学生のうちに、できちゃった婚。留学する夢を諦めて、家族のために必死で働いた。過労で何度か倒れたらしい。それでも家族がいて幸せだったそうだ。

母方の祖父にしつこく頭を下げられ、仕方なく母方の会社を継ぐことになった。ちょうど母方の祖母が末期ガンだったということもあり、私が3歳のとき、沖縄から母の実家がある東京へと引っ越したらしい。

お父さんのストレスは溜まり、私のお母さんに対する暴力はエスカレート。そして離婚。離婚後も子どもたちに会えることを条件に離婚したそうだが、実際は一切会わせてもらえなくなって愕然としたそうだ。

誕生日プレゼントを送っても、母方の祖父に「そういうことはやめて欲しい」と言われて、どうすることもできなかったらしい。

子どもの頃の私の目から見たら、父はあっさり出て行ったように感じられた。

「今からお父さんは、遠くに行くから」。それが別れの前に、最後に聞いた言葉だった。

幼少期、幸せだった思い出もあったのだろうけど、全部忘れてしまっている。こわい、つらい、かなしい記憶しか残っていない。

初めて知った叔母の存在と思い出話

祖母の次に会ったのは、父のお姉さん、叔母だった。私に会うなり号泣し、思い出話をしてくれたけれど、私は沖縄のことを一切知らない。父に兄弟がいたこと自体、全く覚えていなかった。父が送った誕生日プレゼントを拒否されたこと、東京まで行って会わせてもらえなかったことに、叔母も心を痛めていた。

「何も出来なくてごめんね、ごめんね」と言われたけど、私は叔母の存在すら、今知ったばかり。

思い出話をしてくれたあと「いやぁ…覚えてないですね」と言ったら、寂しそうな顔をされ、本当に申し訳ない気持ちになった。でも、私にはどうしようもなかった。

そしてついに父と連絡がついて、祖母の家に、父がやってくることになった。

いよいよ対面。私のルーツを見つけたい

そして20年以上ぶりに見る、父の顔。

弟が歳を重ねたらこうなるのかな、と思うような顔だった。

話してみて思ったのは…

頭が良い人だ。

不器用な人だ。

たまにデリカシーのない人だ。

ただお母さんとは上手くいかなかった。

父も母も、お互い若く、それ故にどうにもできないことがあったのだ。

ということだった。

当時の私は、それなりに男性とお付き合いしてきた経験もあったから、どのようにして父と母がケンカをして、上手くいかずに離婚に至ったのかは、聞かずとも何となく感じ取ることができた。

母が父と一緒にいられないと思った理由。

父が母と一緒にいられないと思った理由。

私と母の似ているところ。

私と父の似ているところ。

生まれて初めて、両親どちらとも話すという経験をして、ようやく私のルーツが分かったような気がした。

でも、両者意見が食い違っている部分もある。私の名前の由来や、離婚後のルールなど。

母はもう死んでしまったから、父と母と私と、3人でテーブルを囲んで話すことは一生叶わぬ夢。だから、私にまつわる過去のことは結局、何が本当かは分からない。

だけどもう、そんなことはどうでも良くなった。

過去がどうであろうと、”私がここに存在している”ということだけが、唯一の真実だ。

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彼らがしていることはDVで、社会問題のひとつだ

那覇空港に到着してタクシーに乗ったとき、タクシーの運転手さんと少し話をした。

「観光で?」

「うーん、ちょっと違うかな」

「一人旅かい?」

「うん、そんな感じです。生まれは沖縄なんです」

「沖縄に親戚でも住んでるの?」

「父を探しに来ました」

それから、家庭の事情も少し話した。

「そりゃーお父さん喜ぶよ!!こんなきれいな娘さんがいきなり会いに来たらー!」

「そうかな?でも、暴力をふるって、怖い人でしたよ?」

「沖縄の男はみんな酒のんで暴れて大変だよ!あはは!」

実際にそんな環境で育った私としては、全然「あはは」では済まない。

「暴力を振るうこともあるけど、みんな根は優しい人さ~」と運転手さんは言った。

父の祖母から聞いた話だと、祖父もひどい暴れようで、祖母はいつも、こてんぱんにやられてたらしい。

叔母の旦那さんも大暴れするらしいけれど、私のいとこにあたる子どもたちはみんなケラケラ笑いながら「フォークが飛んでくるさ~」と話していた。子どもがグズると怒って、お母さんごとベランダに締め出されたこともあるそうだ。

「俺が法律だ!」が口癖だという。

「あのね、そういうのをDVっていうんだよ。社会問題だよ。時代遅れ!ありえない!」と私がいくら言っても、みんな明るくケラケラ笑った。

父の親友が語った“三毒の教え”とは

父の親友にも会った。私も小さい頃会ったことがあるらしいから、その人と再会するのも20年ぶりぐらいになる。

彼は、短気な父がいちいちイライラするたびに、「怒らない、怒らない!ほら、三毒の教え」と言って、父に復唱させたらしい。

私はこの三毒の教えに感銘を受けた。三毒とは、人間の最も良くない毒の部分だそう。

怒らない

妬まない

愚痴らない

怒るか妬むか愚痴ばかり言う人を見ても、誰も幸せにならない。

出会った人たちの明るさを感じられただけで、沖縄を訪れて良かった。

そんな思いを抱え、私は東京に戻った。

私は私の幸せの道を行く

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でも父を、どうしても自分の親だと思えなかった。

その気持ちは、今も変わっていない。

これから先はわからないけど、正直、父のことを好きになれそうにない。

父は「お前の笑い方、まゆみ(母)にそっくりで、まゆみがいるみたいで気持ち悪い」とか「あいつはしぶとく長く生きるんだろうなぁと思ったけどなぁ~」とか、タバコをパカパカ吸いながら、デリカシーのないこと言ったりする。

沖縄滞在中、この類いの台詞は、耳にタコができるほど聞いた。

母が亡くなったことを父に伝えても、そのショックより、私と仲良くなりたい気持ちの方が強いように見えた。うれしい反面、母を亡くしたばかりの私にとっては複雑だった。

母は私の全てだった。その母の顔が、寂しそうにこっちを見ているような気がして、胸が痛い。

それ以上に、母に暴力を振るったことを、私はどうしても許すことはできなかった。

それから父とは何回か連絡をとったけど、今はもう父からの連絡は途絶えている。

いざと言う時、肉親がいないということは孤独との戦いだったけど、どう生きていくかは自分次第だ。 そんな孤独を感じながらも、人のご縁に恵まれたおかげで、血の繋がりがない人たちに支えられ、私は今日まで生きてこれた。

今日この記事を執筆している日は、結婚2周年記念日だ。私が記事を書き終えたら、夫と晩酌しようねと約束している。自分の幸せは自分で手に入れた。

両親がそろっている人生を私は知らないし、その分の孤独を埋めることはできない。両親がご健在の夫をうらやましく思うこともあるし、今でもふと母を想い、涙することもある。

だけど、幸せの方向へ、幸せの方向へ、自分自身で舵を取ることはできるはずだ。これからも、支えてくれる人たちへの感謝を忘れることなく、幸せの道を進んでいきたい。

(編集:榊原すずみ

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