聴こえない親を持つ子どもが「経験」を伝える意味。CODAの韓国人作家と語り合ったこと

イギル・ボラさんと筆者は、ともにCODAをテーマにした本を出版している。「CODAとして体験してきたつらい過去を伝えていくこと」の意味と葛藤について、ボラさんに尋ねてみたかった。
イギル・ボラさん(本人提供)
イギル・ボラさん(本人提供)
Ken Tanaka

「ひとりぼっちだ」と感じた子ども時代

耳が聴こえない両親に育てられている子どもなんて、きっと、ぼく以外には存在しない。

幼い頃、半ば本気でそう思い込んでいた。

ぼくが育った東北の街で、手話を使う人を見かけることもなかった。思春期を過ごした90年代はまだインターネットも発達していなかったため、“情報”に触れる機会も圧倒的に少なかった。

聴こえない親とどうコミュニケーションを取ればいいのか、差別的なまなざしとどう戦えばいいのか、心の底から求めていた情報はなにひとつ手に入らなかった。なによりも、同じ境遇にいる仲間とつながることができなかった。

悩みを共有できない状況は、孤独感を深めてしまう。胸の内を誰にも打ち明けられず、理解してもらえず、たったひとりでそれを抱えていく。そんな日々はとてつもなく寂しく、心細い。けれど、それが当然だと思っていた。

CODA」という言葉に出合って

でも、大人になって、耳の聴こえない親を持つ子どもを表す「CODA」という言葉を知ったとき、世界が開けていくような感覚を覚えた。

この世界には、聴こえない親に育てられた仲間が大勢いる。その事実は、想像以上の勇気と安心感を与えてくれた。

イギル・ボラさんもそのひとりだ。彼女は韓国出身のCODAであり、映画監督・作家として活動している。2015年に公開された長編ドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』では、自身の聴こえない両親の姿をフィルムに収めた。同作はさまざまな賞に輝き、日本でも上映された。

2020年12月、映画の上映までの日々を著したノンフィクション『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』が日本で翻訳出版された。綴られているのは、21歳で「CODA」を知った彼女が、家族と対話し、世界中を旅し、海外のろう文化も学びながら、「わたしは何者か」と模索してきた道のりだ。差別や偏見と戦ってきたCODAの記録でもある。

ボラさんがCODAや「ろう文化」について発信し続けているのは、なぜか。同じCODAとして、会って話したいと思った。

ずっと説明を求められてきた

1月初旬、待ち合わせしていたお店で、通訳者を介して自己紹介する。自分でも不思議だったけれど、一瞬で打ち解けた気がした。CODAとして同じ痛みを経験した者同士、初対面でも通じ合うものがあるのかもしれない。

すると、ボラさんが言った。

「CODAって、子どもの頃から“説明”する場面に迫られるんですよね。親の耳が聴こえないこと、そんな環境で育てられていること、できること、できないこと……。わたしはずっと説明ばかりしてきました」

(提供画像)
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Ken Tanaka

その言葉に納得した。振り返ってみれば、ぼくも説明ばかりしてきた。けれど、説明しても理解してもらえないことが続き、いつからか口を閉ざすようになったのだ。それが幼少期の孤独感の原因でもあった。

だからこそ、自身の境遇を一から説明しなくても理解し合えるCODAとは、すぐに打ち解けられるのだろう。

ずっと言葉や文章で説明してきたボラさんは、大人になり、今度は「映像」で説明してみよう」と思ったという。それが両親を撮ったドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』を撮るきっかけだった。 

その後、韓国でCODAの語り手として知られるようになったボラさんは、映像のみならず執筆の分野でも活躍している。扱うテーマは、CODAやろうの文化にとどまらず、過去の戦争や女性の身体についてなど、多岐にわたっている。 

思春期に感じた両親への感情

CODAというアイデンティティを伝えながら、たくましく活躍しているボラさん。けれど、思春期にはやはり葛藤があったという。

「聴こえない両親のことを嫌ったこともあるんです。その想いを両親にもぶつけました。もちろん、両親はひどく怒りました。『そんなことを言うなら、出て行きなさい』と、目も合わせてくれなくなってしまった」

ボラさんの両親が、自らの障害をネガティブに捉えていないことが伝わってくる。

「そのとき、両親はわたしのことを恥ずかしいだなんて思っていないのに、どうしてわたしは彼らのことを恥ずかしいと思ってしまったんだろう、と後悔したんです。それ以降、『わたしの両親はろう者です』と紹介できるようになりました」

「そもそも障害があることは悪いこと、恥ずかしいことではないですよね? それを間違えてはいけないと思うんです。障害者の親に問題があるのではなく、それを恥ずかしいと思わせる社会にこそ問題がある。そう捉えられると、聴こえない親との関わり方も変わってくると思いませんか?」

そして、ボラさんはぼくを見つめ、こう続けた。

「いまではCODAとして生まれたことを、とても良いことだったと思っています。差別や偏見を目の当たりにしてきたから、傷ついた人に寄り添ってお話ができる。CODAとして生まれたから、そんな感受性を持つことができたんです」

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Ken Tanaka

「手話は言語である」と認めることの意義

韓国では、ボラさんらの活動によってCODAやろう者への理解が深まったそうだ。

「ここ5年でだいぶ変わってきたように感じています。CODAへの関心が高まったこともあって、韓国のCODAたちが集まる“CODA korea”というグループも作ることができたんです」

「先日、学生を対象にした講義を行ったんですが、『CODAという言葉を知っていますか?』と訊いてみたところ、『学校で習いました』という声が上がりました」

「韓国では教師の間でもCODAという言葉が認知され始めていて、子どもたちに教えてくれているんです。本当に大切なこと。わたし自身、CODAという言葉に出合ったのは20代になってからでした。もしも子どもの頃に知っていたら、世界はもっと広がっていたと思います」

ぼくも同じだった。「CODA」に出合ったとき、息がしやすくなった。初めて自分をカテゴライズできる言葉を知ったのだ。でも同時に、「もっと早く知りたかった」とも思った。

この世界には、自分がCODAであることを知らず、たったひとりで泣いているような子どもたちがまだまだ大勢いるのではないか。彼らが生きやすくなるためには、やはりもっと「CODA」を広めていかなければいけない。

ボラさんは、教育や政治、出版など様々な分野で広めていくことの大切さを語った。

「各分野で足並みを揃えることが必要だと思います。先ほど、教師からCODAについて教わったという学生のエピソードをお話ししましたけど、別に教育(カリキュラム)に組み込まれているわけではないんです。だから、早く教科書にCODAという言葉を載せてもらいたいですし、それについて書く作家の存在も必要。政治からCODAをサポートすることも重要だと思います」


「2019年に『私たちはコーダです』という本を出版したんですが、共著者であるひとりのCODAは言語学を専攻していて、手話にまつわる政策も提案しています。それを受けて、韓国では“手話の日”が制定されたんです。彼女が大きな役割を果たした。そんな風に、さまざまな分野で仕事をするCODAの輪が広がったらいいと思います。

韓国で「手話の日」が制定された。その事実だけでも素晴らしいことだが、現在はさらに手話を言語として認めようという動きも見られるそうだ

「2016年に『韓国手話言語法』が制定され、手話は『手語』という公式な言語として認められました。研究も盛んに行われています。正直、まだまだ言語として広く知られているとは言い切れないのが現状ですが、法律ができたことの意味は大きいとも思います。『手話は言語です』と国が断言することで、聴者も自然と受け入れるようになると思うんですよね」

日本には、自治体による「手話言語条例」があるが、国レベルの法律はまだないのが現状だ。なお、同条例は、手話が言語であることを明確にし、その普及に努めるというもの。全日本ろうあ連盟の「手話言語条例マップ」によると、2021年2月の時点で条例が成立しているのは29道府県/14区/273市/56町/2村の計374自治体だという。

CODAにもさまざまな物語がある

(左から)イギル・ボラさんの翻訳書『きらめく拍手の音』(リトルモア)、CODAについて書いた筆者の新刊『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)
(左から)イギル・ボラさんの翻訳書『きらめく拍手の音』(リトルモア)、CODAについて書いた筆者の新刊『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)
Dai Igarashi

ボラさんの話から、これまでの活動が着実に実を結んできたことがわかる。だからこそ、どうしても尋ねてみたいことがあった。

それは、「CODAとして体験してきたつらい過去を伝えていくこと」の意味について。

ぼくは、本連載や書籍の執筆を通じて、子どもの頃に体験したことを綴ってきた。そこにはどうしても苦しさやつらさ、葛藤ばかりが滲んでしまうが、現実を伝えることで、「二度とこんなことを繰り返さないように」と社会が前向きに変わることを望んでいる。

一方で、ぼくの発信によって傷ついてしまう人たちの存在にも気づいた。例えば、まさにいまCODAを育てる聴覚障害の親たちだ。ぼくがCODAとしてのつらい過去を吐露すればするほど、彼らは自分の子どもの将来を重ね合わせ、暗い気持ちになるかもしれない。

聴覚障害やCODAについては広めたいと思っている。けれど、聴覚障害のある親や、まだ幼いCODAたちに恐怖心を植え付けたいわけではない——。

すると、ボラさんはぼくの悩みを吹き飛ばすように、力強く言った。

「CODAというラベルがあっても、ひと括りにはできません」

「わたしみたいにポジティブなアイデンティティを確立しているCODAもいれば、まだネガティブに捉えているCODAもいるはず。それなのに、『CODAとして生まれて良かった』というポジティブな話ばかりが浸透していったら、そうではないCODAたちが追い詰められてしまう。『どうして自分は前向きになれないんだろう』って悩んでしまう」

「CODAのポジティブな面を発信する人、ネガティブな想いを発信する人、両方がいて良いのだと思います。それぞれのCODAがそれぞれの気持ちを伝えていく。どう伝えたとしても、根底には聴こえない親との愛情があると思うんです。その愛には、喜びもあれば哀しみもある」

「だから、CODAを理解してもらうためには、ポジティブな部分もネガティブな部分も、すべて見せていくことが大切なんですよ」 

CODAにもさまざまな人がいる。聴こえない親を愛する人、嫌う人、和解した人、疎遠になった人。それらのCODAを誰ひとりも取りこぼさないためには、CODAのなかにある多様な価値観を共有することが大事なのだろう。 

「わたしが映画や本を通して一番言いたいことは、『一人ひとりが、それぞれに語るべき物語を持っている』ということなんです。CODAに限らず、ろう者も聴者もみんな。そして、それをどんどん語っていくべき。それぞれの物語を共有すると、違いが見えてきます。それを受け入れることが、多様な社会を実現する。そんな世のなかって、とても美しいですよね」

五十嵐 大 

ライター、エッセイスト。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。2020年10月、『しくじり家族』(CCCメディアハウス)でエッセイストデビュー。最新刊は『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)。

 〈五十嵐大さんの新刊が2月10日に発売されました〉

五十嵐大さんの『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)

(編集:笹川かおり、通訳:根本理恵)

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