「手づくり」は社会システムへの抵抗だ DV夫から逃げ出した女性の光「サンドラの小さな家」

【加藤藍子のコレを推したい、第8回】居場所が与えられない。取り返せない。サンドラたちの取り組みは、それなら「自分たちでつくってしまおう」というものだ。

社会は冷たい場所か、温かい場所か。そう尋ねられたとして、後者だと言い切る自分がイメージできない。「冷たい場所だ」と裏付ける光景や出来事ばかりが、嫌になるくらい思い浮かぶからだ。

今、幸運にも手にしている仕事を失ったら。信頼できる人とのつながりが突如、断ち切られたら。社会は私を助けないし、むしろ一層、おびやかしてくるに違いない。そんな予断を抱いてしまうのは、私だけではないだろう。

2021年4月から公開中の映画『サンドラの小さな家』は、それでも人間は、手を携え合うことで居場所を「再建」できると力強く謳い上げている。

舞台はアイルランドの首都ダブリン。主人公の女性サンドラは、家庭内暴力を振るう夫の元から逃げ出し、2人の幼い娘と共に生活することになる。女性支援団体が仮住まいとして手配したホテルの一室に身を寄せるものの、「家=居場所」とは言い難い代物だ。

サンドラは清掃員やパブ店員の仕事を掛け持ちしながら生計を立てるが、ホテルは勤め先から遠すぎて、ただでさえ少ない稼ぎが車のガソリン代に消えていく。ホテルスタッフからは「一般の宿泊客がいるロビーには立ち入るな」と邪魔者扱いだ。支援団体の担当者は「今だけの我慢だ」と励ますが、申し込んだ公営住宅の入居順番が回ってくる気配はない。しかも元夫は、日常的にサンドラへ接触することを禁じられた身でありながら、その規則を守らない。なだめたり脅したりして、執拗に「やり直そう」と迫ってくる。

片手が不自由になるほどの暴力を受け続けたトラウマに苦しみながら、娘との穏やかな生活を守り切ろうとするサンドラ。気丈に振る舞いつつも、コンクリートの駐車場の一角でふとしゃがみ込んでしまう場面は、彼女がさらされている孤立感を如実に物語る。

孤立を極めたからこそ、無謀ともいえるアイデアに希望を見いだしたくなったのかもしれない。ある夜、彼女がスマートフォンで、ブラウザの検索窓に「build your own house」「cheap」と打ち込んだところから、物語は大きく展開していく。

ネット上には、「3万5千ユーロで家を建てる方法」をシェアしている建築家のウェブサイトがあった。サンドラは、公開されていた設計図を頼りに、自分の手で「娘と3人で住む家」を建てるというプロジェクトに夢を抱き始める。

だが、設計図だけでは家は建たない。土地や資金はもちろん、建築作業には人手も必要だ。何も持たない、行き場のないサンドラの「夢」を、確かな希望へと変えていく助けになったのは、同じように「持てるもの」などほんの僅かしかない、名も無き隣人たちだった。

※この先、物語の核心部分に触れる記述があります。

サンドラの小さな家
サンドラの小さな家
Aiko Kato

集まってくる数人の仲間たちの中で、特に印象深い人物が2人いる。

一人は、サンドラが清掃員として働く家に住む老齢の女性、ペギー。一見、気難しく偏屈に映るが、家造りの計画を知ると、空き地になっていた裏庭の一角を無償で与える。必要な資金も貸すと言い始める。

あり得ない、と思うだろうか。彼女の行為の真意は、作中で雄弁には語られない。だが、会話などから断片的に伝わってくるのは、元従軍医であること、そして愛する娘の一人にも、何らかの理由で先立たれていること。経済的には困窮していないが、「自分が生き長らえていること」自体の空虚さに傷ついているのだ。

形としての「house」はあっても、居場所としての「home」はない。彼女がサンドラに与えた裏庭は、まさに「空っぽ」で放置されていたhouseの一部だ。同情だけが理由ではないだろう。彼女自身、自らの中に命を注ぎ込みたかったのだ。

ここで提示されるのは、この映画に通底する主題である「異なる傷を持つ者同士の連帯」だ。

もう一人が、土木建築業者として働く老齢男性のエイド。たくましいが長年の酷使で内臓に不調が出始めた体、ぶっきらぼうな物言い。暮らしぶりはよくなさそうだし、自分の仕事に前向きな意味は感じられていないが、「俺の人生なんてこんなもん」という諦念が染みついている風貌だ。

彼とサンドラは、家の資材を買いに出かけたホームセンターで偶然に居合わせる。分からないことだらけのサンドラを迷惑そうに追い払ったサービスカウンターの店員が、すぐ後ろで順番を待つ彼に「お待たせしました」と声をかけると、しかめ面をピクリとも動かさずにこう言った。「サービス係なら、客の力になれ」。そんな些細な関わりがきっかけで家造りへの協力を頼み込まれ、初めは渋々といった面持ちで、技術面での司令塔を担うようになる。

この映画の見所の一つは、異なる傷を持つ者同士で構成される一種のコミュニティーに、エイドのような人物も包摂されていることだ。シングルマザーや障害者(作中で明言されないが、公式パンフレットによれば、仲間の一人に加わるエイドの息子はダウン症)、黒人女性らが集う中に彼もいて、建材を運んだり組み立てたり、手際よく指示を出したりしている。

かといって、過剰に物分かりのよい人物にも仕立て上げられていない。家を建てる過程でも、サンドラは元夫から報復される恐怖や、過去に暴力を振るわれた光景のフラッシュバックに苦しめられ、時折、仲間を困惑させるような感情的態度を取ってしまう。予算が限られた中で、ドアの錠前をもっと安全なものに変えたいと訴える場面もあるが、エイドは「なぜだ」とか「高すぎるんだ」とかいった言葉で否定するだけだ。

描きようによっては「暴力に怯えて生きるシングルマザーの苦しみなんて、何も分かりっこないオジサン」だ。それでも、エイドが非難を受けることはない。サンドラを抱きしめる相手は他にいる。作中ではペギーだ。

誰かと誰かの間で、時に厳然とした分かり合えなさが露呈しても、「家を建てる」という行為を介して一緒に居続けられるサンドラたちの在りよう。それは、湿っぽくないのに温かくて、「あってほしかった社会の姿」だと感じた。

サンドラたちの「手づくり」の試みは、自分たちに理不尽な傷を負わせたこの社会と、それを下支えしている血の通わない巨大なシステムそのものへの抵抗精神を湛えている。居場所が与えられない。取り返せない。それなら「自分たちでつくってしまおう」という取り組みなのだから。

それでいて、彼らは生々しい傷を互いに見せ合うことはしない。「あなたと私は同じだね」という確認もなければ、「あなたより私のほうがつらい」という争いも起こらない。そもそも、主人公以外の人物の過去や境遇は、観客の私たちにもほとんど開示されない。断片的に語られるか、あるいは全く触れられないのだ。でもきっと、居場所を求めているであろうことは伝わってくる。

家を自分で建てるという、何だか面白そうなプロジェクトに惹かれて、週末ごとに、ひとところへ集まる人たち。疑似家族というには遠すぎるこの心地よい関係を、何と呼べばいいのだろうか。

そして、この映画の最も素晴らしいところは「家が完成した場面」で終わらないことだ。「家がないなら、自分で造ればめでたし」という誤った解釈が導かれることは、慎重に回避されている。サンドラたちの家はむごいことに、おそらくは元夫の放火によって、跡形もなく焼け落ちてしまうのだ。それでも、残るものとは何か。用意された最後のシーンこそ、この映画が私たちに届けてくれる最高に美しい贈り物だと思う。

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