『映画 太陽の子』。何度だって、私は「三浦春馬」に出会っていた。

【加藤藍子のコレを推したい、第12回】『映画 太陽の子』。戦禍を生きた3人の「生」が眩しく輝くほどに、それを脅かす戦争の醜さが際立って迫ってくる。

戦争を描いた作品と言われてすぐに頭に浮かぶのは、『はだしのゲン』や『火垂るの墓』だ。原作者の壮絶な実体験を基に描かれたそれらの作品に私が触れたのは、小学生のころ。戦争を知らない世代の一人として大きな衝撃を受け、「絶対に繰り返してはならないことなんだ」と心に刻んだのを覚えている。

ただ、近年指摘されているように、第2次世界大戦を経験した人たちは亡くなっていく。社会が共有する「戦争の記憶」が薄れていく。そんな中で、直接的な描写よりも「普通」の人々の日常に光を当て、戦争を描き直そうとする試みが目立つ。アニメ映画『この世界の片隅に』(2016年)などが代表的だが、今回取り上げる『映画 太陽の子』(2021年8月から公開中)も、この系譜に位置付けられる作品だろう。

「映画 太陽の子」メイン写真
「映画 太陽の子」メイン写真
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

夏の木々の緑、砂浜の白、海の青。戦禍を生きた3人の若者を中心に物語は展開するが、彼らの豊かな表情や、取り巻く風景の美しさが、観る者の心に深く長く、残る。戦争は光あふれていたはずの世界に禍々しい影を落とし、葛藤や破壊をもたらすものとして描かれる。

事実、公式パンフレットによれば、本作の企画のきっかけになったのは、脚本・監督の黒崎博が、若い科学者が1945年当時に残した日記を読んだことだという。「日本でも原子爆弾の開発実験をしていたという事実に驚く一方で、毎日を一所懸命生きていた、我々と同じように丁寧に生きる若者たちの姿も見えた」と黒崎はインタビューで語っている。

「映画 太陽の子」より
「映画 太陽の子」より
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

【物語のあらすじ】

「この研究が成功すれば戦争は終わる」と信じて実験に没頭する若き科学者・石村修(柳楽優弥)。太平洋戦争終盤、軍から命を受けた京都帝国大学物理研究室では、研究員たちが原子核爆弾の開発を急いでいた。そんな中、建物疎開で家を失った修の幼なじみ・朝倉世津(有村架純)が、修と母の家で暮らすことに。1945年初夏、修の弟・裕之(三浦春馬)も戦地から一時帰宅し、3人は久しぶりの再会を喜ぶ。戦争の恐怖と葛藤しながらも、未来を見ようとする3人。しかし、裕之は戦地へ戻り、8月6日、日本に原子爆弾が落とされる――。

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研究を成功させれば数え切れない人命を奪う兵器になる。だが、失敗すれば敵国が完成させてしまう――そんな葛藤の狭間に立たされた科学者たちの苦悩と、その外側にある人々の暮らしを、本作はまるで天から俯瞰するように、静謐なタッチで映し取っている。

柳楽優弥、有村架純、三浦春馬の演技から伝わってきたのは、「私が『私』として生き、死んでいくこと」が許されないことへの憤りだった。3人の「生」が眩しく輝くほどに、それを脅かす戦争の醜さが際立って迫ってくる。

柳楽が演じる修は心優しい青年で、原子物理学を愛している。研究に熱心に打ち込むのは「私」として真っ当なことだが、やがてその研究が「何をもたらすのか」に直面させられ、苦しむことになる。真理へ近づいていく興奮と、それが殺戮へとつながってしまう恐怖。物静かで声を荒げることがない青年だが、矛盾する感情に引き裂かれ、焦点が合わなくなっていくようなその表情は、悲痛を「叫んで」いるように映った。

「映画 太陽の子」より
「映画 太陽の子」より
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

有村演じる世津は、戦争の只中にあってなお、「戦後」の未来を見据え続ける強さが印象的な女性だ。彼女は、軍の紡績工場で共に働く少女が「はよ結婚して、ぎょうさん子ども産んで、お国のために捧げます」と無邪気に胸を張る姿を目にする。世の中全体がそうした異常な空気に覆われているとき、「そう言わせているのはうちら大人や」と怒り、「戦争が終わったら教師になる」と宣言できる世津は聡明だ。

「戦争なんか、早う終わればええ。勝っても負けても、構わん」。作中、絞り出すようにつぶやくその言葉には、戦争という巨大な暴力にさらされてなお、「私」としての選択を手放すまいとする彼女の意志の強さが滲む。

そして、三浦演じる裕之。控えめな兄の修とは対照的に、明るく、たくましく、そこにいるだけで周囲に柔らかな陽だまりができるような青年だ。

黒崎監督は、公式パンフレットのインタビューの中で、三浦のことを次のように語っている。

「(裕之は)太陽みたいな存在でいてほしい。そう思った時に春馬君が浮かんできました」

「(撮影現場では)人生の瞬間、瞬間を精一杯生きている若者たちなので、そのエネルギー感をどうやって表現するかということを一所懸命考えている、という印象でした。(中略)現場での演技も生のエネルギーが爆発しているということをいつも感じていました」

黒崎博監督
黒崎博監督
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

その言葉の通り、三浦は適任だったと思う。この作品の本質と、裕之というキャラクターに求められている役割を存分に理解して演じていたと感じた。

裕之は肺の療養のため一時帰郷するが、再び戦地へ赴き、最終的には命を落としてしまう役だ。その儚さや、悲劇性を強調して演じることは、かえって容易いことだろう。三浦はそうしたアプローチではなく、前線での壮絶な戦いによってトラウマを抱えながらも、柔らかい光で周囲を照らし続けた裕之の「生」を描き切っていた。

本作は2020年8月に、テレビドラマ用に編集されたバージョンが地上波放送された。作中には裕之が、前線で死ぬのが怖いと泣きながら夜明け前の故郷の海で入水自殺を図り、修と世津に止められるシーンがある。演じる三浦の急逝が報じられて間もなかったこともあり、当時は好奇心混じりに「本人と重なる」などと騒がれた。

「映画 太陽の子」より
「映画 太陽の子」より
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

だが、本作をしっかりと見ていれば分かる。この場面で裕之が「俺だけが死なんわけにいかん」と泣きじゃくるのは、「死にたくないから」だ。人の生がいつか、あっけなく終わってしまうのだとしても、その道程を「私」として全うできないことへの、涙ながらの抵抗だ。三浦は全身で、裕之がどう生きたか、生きたかったかを語っていたと思う。このメッセージが、今こそあの当時よりもっとまっすぐに、観る人たちに伝わってくれることを願う。

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ここまで、作品について書いてきた。一方で、過去にも書いたように私は、三浦春馬という俳優をずっと推してきた。大好きだ。だからもう少しだけ、彼について語らせてほしい。

この映画が、三浦春馬の最後の作品だという事実を、いまだに受け入れられない自分がいる。黒崎によれば、彼は本作の脚本を読んだとき「これを映像化できるのだったら絶対自分は演じたい」と言ったという。作品が世に出るころ、まさか自分が舞台挨拶にも立てない状態になるなんて想像していなかっただろう。それぐらいに彼の演技は、プラスのエネルギーに満ちていた。

なぜ、この作品に強く惹かれたのだろう。この挑戦の先に、どんな未来を歩んでいきたいと思い描いていたのだろう。話を聞きたいのに、いくら待っても、彼は一向に語ってくれない。考えてみれば当然なのだが、今頃になって骨身に沁みている。

「映画 太陽の子」より
「映画 太陽の子」より
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

彼が急逝したあの日からも、出演作が新しく公開されるたび、映画館に足を運んだ。素晴らしい作品もあったし、そうは感じないものもあった。そしてふと、ずっと当たり前だと思ってきたものが欠けていることに気付いた。

「推しとこの役を出会わせてくれてありがとう!」とはしゃぎながら、友人や家族に「チケット代は私が出すから観て!」なんて半ば無理やり“布教”したこと。「この作品はうちの春馬のよさを全く生かしきれていない……」などとブツブツ不満を言いながら、「次はこんな役を演じてほしい」「こんな脚本家の作品に出てほしい」と勝手な夢を語ったこと。

そんな全てが、遠い景色になってしまった。同じ「三浦春馬」を見ているのに、あの日以前と以後では、私自身が変わってしまった。

この喪失感の引き受け方に思いを巡らせながら、彼が演じる裕之を見つめた。修や世津と「いっぱい、未来の話しよう」と笑う瞳。たまった涙が輝いていて、苦しいのに、美しい。出征を見送る母に敬礼する指先が、かすかに震える演技がこまやかだ――。気が付いたら、裕之を通して何度だって、私は「三浦春馬」に出会っていた。

「映画 太陽の子」より
「映画 太陽の子」より
©2021 ELEVEN ARTS STUDIOS / 「太陽の子」フィルムパートナーズ

同じ時代を生き、未来を共有していける存在ではなくなった「推し」を、推し続けることはできるものなのか。私は、その問いに全力で「できる」と答えたい。

三浦春馬さんへ。あなたは多くを語らなかったけれど、頑張り続ける日々の中で、苦痛を感じたり、すべて手放して諦めたくなったりした日もあったと思う。そんな日々をきっと幾度もかいくぐって、魂のこもった作品を届け続けてくれて、ありがとう。おかげ様であなたの物語は、もうあなた一人のものではありません。残してくれたすべての作品が、あなたが懸命に生きた、生きようとした証です。その「証」を通じて、私たちはいつでもあなたに会える。「いないこと」の苦しさも含めて、大切にしていきます。新しい作品を見られなくなるのはやっぱり悔しいけれど、素敵なあなたの片鱗を何度でも発見して、推し続けていきたいと思います。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko

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