マイノリティとして生きる人間が「世界図書館」で文学を読むこと。平野啓一郎さんとウィリアム・マルクスさんが語る

自分を助けてくれるのは、あまり読まれていないし翻訳もされていない遠くの文学作品かもしれない━━。アカデミズムの名門、コレージュ・ド・フランスの教授と、小説家の平野啓一郎さんが、文学のこれからについて語り合った。
平野啓一郎さんとウィリアム・マルクスさん
平野啓一郎さんとウィリアム・マルクスさん
KAORI NISHIDA/西田香織

マイノリティの立場からの文学体験、そして「世界図書館」の構想について、小説家の平野啓一郎さんが、来日したウィリアム・マルクスさん(コレージュ・ド・フランス教授)と語り合った。

マルクスさんはいわゆる「世界文学」ではなく、「世界図書館」を作ることを構想する。世界文学には欧米中心、英語中心などの側面があり、特権を作り出してしまう枠組みだ。一方で、実際の世界には、翻訳されずに埋もれている文学がたくさんある。世界文学の外側に存在する作品にも価値があるだろう。

人が危機に瀕したときに自分を助けてくれるのは、あまり読まれていないし翻訳もされていない遠くの文学作品かもしれないのだ。だからこそ、マルクスさんは学問的な理想として、世界図書館を可視化することを提案する。

世界的なアカデミズムの名門であるコレージュ・ド・フランス(フランス・パリ)で教鞭を執り、オープンリーゲイでもあるマルクスさんは、マイノリティだからこそ外部の視点から豊かに社会を見ることができたと言う。

平野さんは世界文学を構成する小説家の1人でもあるが、マルクスさんによる世界図書館の構想にも共鳴する。

世界図書館とは、具体的にどのようなものなのだろうか。対談の終盤には、マルクスさんから平野さんへの質問も投げかけられた。

KAORI NISHIDA/西田香織

「すべてを知っているわけではない」と感じながら文学と接する

平野啓一郎さん(以下、平野さん)マルクスさんが提唱する「世界図書館」と対比されている世界文学の概念については、日本でも最近よく議論されています。グローバル化がもたらしているもの、資本主義との関連について考える必要がありますね。

世界文学に対して、マルクスさんが構想する世界図書館とはどのようなものなのでしょうか?

ウィリアム・マルクスさん(以下、マルクスさん):世界図書館は世界文学を置き換えるものではなくて、学問的な理想であり、それが巨大な市場を構成するというよりも、新しい価値観となるものです。

例えば、私も日本文学をある程度読んでいますが、もちろん知らない作品もあります。私たちは、常にその作品群全部を読んでいるわけではなく、「すべてを知っているわけではない」と感じつつ、文学作品に接する必要があります。世界図書館とは、そのように倫理や謙虚さを教えるものです。

ゲイであることによって見ることができたもの

マルクスさん:私はゲイであることをオープンにしていて、そのことについて本も書いています(“Un savoir gai”[未邦訳])。

KAORI NISHIDA/西田香織

非常に早い時期から、私は自分がマイノリティであることを自覚していました。ただ、それが差別された立場であることよりも、むしろ豊かなものだと自認していました。なぜなら、自分がゲイであることによって、ヘテロセクシュアルの方には見えないようなものを見ることができるようになったからです。

マイノリティであることによって、マジョリティ、つまり自らを普遍的なものとみなす支配的な価値観に対して、その被支配者の側からの視点で見ることができます。被支配者の価値観が興味深いものであることを、自ら経験します。

ですから、私は常に外部性を維持してきたのです。ゲイであることは、隠すことだと社会から思われがちですが、私にとって、ものの考え方すべてに関わってくることなのです。

文学においても、選ばれた世界文学ではなく、その外部にあるマイナーな作品があります。世界文学は翻訳を超えて生きのびる作品を選びますが、世界図書館は、翻訳の試練に耐えられない文学にも興味を持ちます。そのような文学こそが他者性をより強く内包していると考えるからです。

ウィリアム・マルクスさん
ウィリアム・マルクスさん
KAORI NISHIDA/西田香織

平野さん:マルクスさんのセクシュアリティ自体が文学と結び合う点は、非常に興味深いです。

世界図書館から蔵書を発見していくときの経路が、マジョリティの立場から探っていくときと、ある社会の中でマイノリティの人が未翻訳のものを探っていくときでは、探り当ててくるものが変わってくると思います。

というのも、もともと文学は社会のマイノリティである人たちのものだと僕は考えているからです。

僕自身は、例えば10代の頃からボードレールの詩が非常に好きでした。19世紀半ばのフランス第二帝政時代に、社会の落伍者のような立場から、自らの経験を非常に美しく歌い上げている。それを読む僕もまた、自分のいる社会では疎外感を感じていて、時代と場所を遠く隔てたところにいても強く共感することができました。

マイノリティとして生きている人間が文学を通じて他者を発見し、時代と場所を隔てた遠いところで強く共感する。それと同時に、自己を発見するひとつの回路となるのではないでしょうか。

平野啓一郎さん
平野啓一郎さん
KAORI NISHIDA/西田香織

マルクスさん:実際に文学は翻訳可能なものばかりではなく、さまざまな理由で翻訳できないものの中にこそ、おもしろい作品が含まれています。おもしろいというのは、つまりそこに他者性が入っているということで、その他者性が大きければ大きいほど、異質さがあって、努力しなければ理解できないかもしれません。非常に強い文脈を想像しなければならず、知的なチャレンジを要求するものです。その結果としてようやくその文学を自分のものにできます。

だからこそ、世界図書館は読者を変革し、その中心をずらし、その存在を刷新するのです。そういうものの中に、人間の多様性、あるいはその人間性の豊かさがあると私は考えています。

すべての文学が平等に扱われているわけではない

平野さん:それからもう1つは資本主義との関連です。資本主義システムのもとで世界文学が形成されていることは、マルクスさんも指摘されています。

日本では最近、脱成長や脱資本主義の文脈で、本のような「知」は資本主義体制下でそれを維持していくのではなくて、コモン化・共有財産化していくべきなのではないかと議論が行われたりしています。

僕は脱成長や脱資本主義の議論には一定の理解を示しつつ、文学に関して資本主義と手を切ることが、本当にどこまで有効なのか、ちょっと懐疑的なところもあるんですね。

例えば19世紀のフランス文学ではバルザックがいて、フローベールがいて、と非常に長い歴史があって、研究者の発見がそこに加わって、非常にマイナーなオクターヴ・ミルボー、ペトリュス・ボレルなどの本も、実は日本では訳されている。ロマン主義の有名な作家だけでなく、かなりマイナーな作家まで含めて文学史が形成されて、日本でも受容されてきています。

ところが、もしも資本主義ではなくコモンとして文学を受容しようとした場合、本当にもっとフェアな文学史になっていたのか? 資本主義とアカデミズムの組み合わせでつくられてきたものよりも、実際には偏った文学史になっていたかもしれません。

ウィリアム・マルクスさん
ウィリアム・マルクスさん
KAORI NISHIDA/西田香織

マルクスさん:資本主義と結びつく利点としては、市場の中でテキストが流通することが挙げられます。狭い範囲でなく、広いところまで文化が交換されていく。

加えて、商業と結びついていれば売れてお金になるので、それによって作家が生活を成り立たせることができます。ただし、その限界も明らかになってきました。

そこには2つの問題点があります。

1つ目は、すべての文学が平等には扱われていないということです。支配的な作家や作品が生まれてしまう。具体的には、英語で書かれた文学、あるいはアメリカの文学、そういうものが市場を独占していく傾向にあります。つまり、資本主義の中で生じている問題が、文学においても再生産されてしまうのです。

2つ目は、世界で流通する文学とは、翻訳可能なもので、外国人でも理解できて、世界中で読み得るものだけであることです。これは文学そのものに関わる問題です。言葉を変えれば、文化の画一化、人間性の貧困化に寄与していると言えます。多様な文学があるにも関わらず、皆が読める部分だけを流通させていることに問題があります。

日本の近代、ヨーロッパの近代とは何だったのか

ウィリアム・マルクスさん
ウィリアム・マルクスさん
KAORI NISHIDA/西田香織

マルクスさん:私からも平野さんに質問をさせてください。デビュー作『日蝕』から始まるロマン主義3部作の『一月物語』、そして『葬送』まで読ませていただき、他者の「生」を理解しようとする試みに感銘を受けました。

とくに『葬送』では、外部の視点から西洋を見る挑戦が読み取れます。極東とも言われる日本から西洋を見て、ルネッサンスの内部に入り込み、西洋の魂をその分裂も含めて理解しようとされた姿勢は、非常に貴重なものであったと思います。

西洋には、例えば『蝶々夫人』のように日本の女性、日本の魂を描いた作家たちもいましたが、それはやや植民地主義的で、ポストコロニアルな視点も含むものでした。

平野さんは、反対に日本から西洋の魂の奥底まで入り込もうとする。しかも、『葬送』におけるショパンの描写のように、大量の資料を参照しながら、西洋の人間を造形する意図はどこから来ているのでしょうか?

平野さん:ありがとうございます。

まず、僕にとっては外国文学が10代のときから非常に身近なものだったんですね。フランス文学も好きでしたし、ドイツのトーマス・マン、ロシアのドストエフスキーなど、いろいろな作家の作品を読んできました。

そこに描かれている登場人物は、僕の隣にいる同じ街で育った友達よりも、はるかに精神的に近いものを感じることが多かったんですね。ですから、そういう意味では、外国文学に表れている思想が、自分から遠いものだという印象はあまりなかったのです。

次に、日本は近代化以降、基本的には欧米の思想を受け入れて近代化を進めることをずっと目指してきたと言えます。つまり、「近代の日本とは何か」を考えることは、常に「ヨーロッパの近代とは何か」を考えることにつながっているわけです。

僕にとっても、ヨーロッパの近代を考えることは、決して遠い外国のことではなくて、自分たちの一部です。特に僕が10代から20代の頃は、ポストモダニズムが社会を席巻していて、「近代以後」が非常に多く語られていました。しかし、そもそも「近代とは何か」という問いに十分な答えが得られていたとは思いません。

文学の世界では「もう近代文学は終わったんだ」、あるいは「文学が終わったんだ」と言う人たちもいた。だけど、その人たちが本当にヨーロッパの近代について自分の頭で考えているのだろうかと疑問もあって、僕自身もヨーロッパの近代を自分でもう1度考え直して、ポストモダニズムと言われている思想にまで、自分なりにたどり着きたいという思いがあったんです。

平野啓一郎さん
平野啓一郎さん
KAORI NISHIDA/西田香織

マルクスさんが「すべてを知っているわけではない」と感じながら文学に接する態度は、人間との関係とも似ているように思える。

マイノリティに接するとき、「私はあなたのことをわかっている」と思った瞬間に、驕りが生じる。他者のすべてを知ることはできない。

それでも、平野さんは、時代的にも地理的にも離れた他者であるショパンに「自分なりにたどり着きたい」と迫った。『本心』(2021年)では、AIで再現された母と生きる人間を描くなど、時代や場所を超えて、奥底まで入り込もうとする。

原体験には、平野さんが10代の頃、ボードレールに強く共感したことがあった。私たち1人ひとりにとってのそんな作品が、いつの時代の、世界のどこにあるのかわからない。それは「被支配的」な領域にひそんでいるかもしれないのだ。

だからこそ、マルクスさんによる「世界図書館」の構想に価値がある。私の「その存在を刷新する」ような文学は、どこで私を待っているだろう

(取材・文:遠藤光太 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

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