児童養護施設の子どもたちをペットショップで飼い主を求める犬にたとえる迫るシーンなど極端な描写が、児童養護施設の関係者や里親、医師らから批判された日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」。今年1月15日の第1回放送後に施設の子どもがリストカットするなど様々な事態が引き起こされたケースが相次いで報告された。
ドラマは1月から3月にかけて放送されたが、視聴者による批判の高まりを受けて、提供スポンサーが告知をはずし、提供スポンサーのコマーシャルの放送を見合わせるなど、大きな社会問題に発展した。
このドラマについて、BPO(放送倫理・番組向上機構)の3つの委員会のうちの1つ、放送人権委員会は4月15日午後、東京都千代田区にある同機構内で委員会を開いて、熊本市の慈恵病院から人権侵害との申し立てがあった日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」について話し合いを行った。
その結果、放送人権委員会としては、4月15日も審議入りするかどうかの結論がまとまらず、申し立てを行っていた熊本市の慈恵病院に16日朝にその事実を伝えた。
放送人権委員会は3月の会議の後に、マスコミに対して、4月15日に「審議入りするかどうか」の結論を出すと公表していた。
「明日、ママがいない」をめぐっては、同じBPOの青少年委員会が3月16日に「審議入りしない」という結論を下している。
ドラマ「明日ママ」の第1回、第2回の放送では、児童養護施設が恐ろしい場所であるかのような表現や児童養護施設に入所する子どもたちを施設長がペットショップの犬にたとえて「食事が欲しかったら泣き真似がうまくなれ」と言って食べさせない、などのシーン、入所している子どもたちが里親とのマッチングを試す期間を「お試し期間」と呼んだり、里親を希望する人たちが「子どもを人形と同列に扱う身勝手な大人たち」として描かれるなどのシーンが問題視された。
また、日本では慈恵病院しか運営していない「赤ちゃんポスト」に捨てられていた、という設定の女の子が「ポスト」というあだ名で登場することも問題だとされたほか、家庭内で暴力が絶えず、親が身勝手な形で子どもを捨てていくシーンなどが「児童養護施設にいる子どもたちの心の傷」を再発させてフラッシュバックを起こしかねない、として児童養護施設の全国組織である全国児童養護施設協議会などが放送内容の見直しを日本テレビに求めていた。
また、子どもへの虐待と精神的な発達などとの関連を研究している「日本子ども虐待防止学会」や「浜松医科大学・子どものこころの発達研究センター」も日本テレビに「内容の見直し」を要請していた。
さらに全国児童養護施設協議会による調査でも、ドラマを見た児童養護施設の子どもが虐待などの心の傷をフラッシュバックさせて「死にたい」と漏らすようになったケース、自傷行為を及んでリストカットで病院の治療を受けたケース、あるいは、ドラマを見た学校の同級生からからかわれたケースなどの「実害」が報告されている。厚生労働省も被害事例について調査を進めてきた。
こうしたことを受けて、ドラマ「明日、ママがいない」の放映にあたっては番組の提供スポンサー全社が提供社名を告知せず、コマーシャルも放送しないという異例の事態になった。
ドラマ「明日ママ」について、放送番組のお目付役である第三者機関、BPOの委員会のうち青少年委員会は3月16日に「審議入りしない」と結論づけた後、4月8日に委員長コメントを発表した。
これは文章を読めば、「明日、ママがいない」のことだということは一目瞭然なのに、「子どもが主役になった話題のドラマ」という具体的な番組名や放送局名にあえて触れない不自然な形の文章だった。
想像するに、BPOの委員会としては審議入りしないことを決めた以上は、番組名や放送局名を明示する形では公式な形でできないという「建前」でそうしたのだろう。一般の視聴者にとってはわかりにくい表現で、BPOに関してはこうした「分かりにくさ」があちこちに顔を出す。
以下は、そのコメントだ。
子どもが主役になった話題のドラマについて。最終回まで視聴の上討論し、「審議対象とせず」。判断した経緯、今回の論点などについて、「委員長コメント」を公表
2014年4月8日
"子どもが主人公のドラマ"に関する
「委員長コメント」
放送と青少年に関する委員会・委員長 汐見 稔幸
I.審議対象とするかの考え方
テレビ番組の中でもドラマについて、青少年委員会が評価することには種々の難しさが伴う。とくにフィクションドラマの場合、作家と放送局側が主題を選び、その内容を効果的なストーリーに仕立てていくドラマツルギーの手法の選択の判断は、表現の自由としてもっぱら制作側に与えられている。その手法の斬新な創造にこそドラマの生命があり、作品の評価はその手法にも及ばねばならないからである。
もちろん、ドラマの中で青少年のメンタルヘルスが明らかに阻害される場面があったり、年齢にふさわしくない性的行為の場面や登場人物の人権が明らかに損なわれる暴力的・差別的な場面が、ストーリーの展開上必ずしも必要ないと思われるのにある場合には、たとえフィクションであったとしても青少年委員会として問題とし、放送局側と自由に意見交換して納得のいく説明を求めることは行う。その上で、必要ならば視聴者や関係者に対する配慮を放送局側に求めることもあるだろう。しかし、フィクションの場合、例えば差別用語を使用する場面があったとしても、ストーリー展開上、その場面が必要であるということはありうる。登場人物に差別的な呼称を使用するような場合や不必要に暴力的な扱いをするような場合もそうで、ドラマの効果上あってよい(あったほうがよい)場合と、ドラマであっても必要があるとは思えない場合があり、そこに公共の放送であること、放送時間帯などの問題が付け加わる。それらを含めて、いい悪いの境目をどう引くかということは、実際には微妙であり慎重さが要求される。
私たちとしては、青少年の視聴を念頭に、それ以外の手法でも十分ドラマとしてのリアリティ、アクチュアリティが保ちうるのに、あえて問題となるような展開に仕立てたときに、審議対象として取り上げるというのが基本スタンスになる。
II.何が"論点"となったのか
番組への視聴者の関心度を高めようとしたためと思うが、今回のドラマでは、とくに1話目、2話目で、登場人物の非人格的なあだ名呼称と施設長の差別的・暴力的な発言と行為が気になる点であった。これらは、子どもの人格を無視し、想像力を欠いたと思われるものが多く、施設で実際に生活している子どもが視聴した場合に心の傷が深まったり再発しないかということが懸念された。
青少年委員会で討論する中で、制作側としては、こうした設定もその後のドラマ展開の中で生きてくるという発想で行ったのかもしれないが、たとえそうだとしても、このあだ名呼称と施設長の差別的・暴力的な発言は当事者をあまりに無視しているという点で問題となりうるという意見があった。
しかし同時に、こうした世界が実際にあり、恵まれない条件でも必死に生きている子どもたちがいるということをこのドラマで初めて詳しく知ったという意見もあり、その後の展開を見た上で委員会として判断することになった。
私個人としては、主人公の子どものあだ名が実在の施設の固有名詞に近いものになっていて、フィクションであるにもかかわらずこの部分だけがフィクションを超えている可能性があり、事前にこの施設にあだ名呼称を使用することについての相談をすべきであったのではないかという点、そして、児童養護施設のあり方を改善してきた施設関係者の最近の努力を逆なでするような施設長の発言と態度に不快感を抱く関係者は多いだろうと想像できたのではないかという点が論点だと感じた。そして、今回のように現代社会の事象に対して問題提起する番組内容の場合、その引き起こす社会的波紋に対する事前の配慮は、通常にも増して行う必要があったのではないかと考えた。
しかしその後、番組の展開は当初のような批判を浴びるトーンから少しずつ変わっていき、好意的な感想が増えるような内容になっていった。実際にBPOに寄せられる批判的意見は大きく減じ、共感的意見も寄せられるようになっていった。
III.放送局と視聴者に求められるもの
今回のドラマはこのように、当初視聴者から厳しい批判を受ける問題点をいくつか抱えていたが、その後、あだ名呼称など当初浮かび出ながら解決されない問題を残したものの、全体としては次第に視聴者に受容される内容になっていったといえる。差別され親の愛に囲まれて育てられるという当然の機会と権利を奪われた子どもたちの生き様の問題に焦点を当てたことの意義も、視聴者から認められたと思う。
そうした総合評価の上にたって、青少年委員会はこの番組を審議対象としないという選択をした。ただし、II.で述べた論点は、このドラマを最後まで見ても、ドラマの効果上必要性のある設定であったが故に解決されたと認めたわけでないということも述べておかねばならない。このドラマによって、心の傷を深めたり再発した可能性のある子どもがいるということが示されている以上、そのことを問題にした視聴者と関係者に対して、放送局側は、番組が終わった段階で、あらためて誠意ある態度を示すことが求められていると思う。そのことを示すために、異例ではあるが、今回のドラマを審議対象にはしないが、コメントを委員長名で出すことにした。その含意を汲み取ってほしいと思う。
あわせてコメントしておきたいことは、今回の番組をめぐって多くの視聴者が、番組が始まる以前から積極的に発言したため、途中から提供スポンサーにも影響を及ぼしたという点である。これは異例のことであった。
私たちは番組の内容をめぐって、番組を作る側が表現の自由を持っているように、視聴する側が自由に意見を言うことは視聴者の権利と考えている。しかし、視聴者からの批判が、提供スポンサーにまで影響を及ぼすということが安易に行われると、番組制作自体が次第に成り立たなくなっていく可能性が生じる。批判は大いに歓迎したいが、それが放送局と視聴者双方の表現の自由を制限する方向に向かわないようにすることが、今回のことが社会に投げかけた教訓といえよう。
以上
この委員長コメントに対しては、ドラマの第1回、第2回の放送を見て虐待体験などでフラッシュバックを起こしてしまった児童養護施設にいる子どもたちへの理解を欠いたものだとする批判が児童福祉関係者から上がっている。
第1回などの表現に、子どもたちへの「加害性」があるということが指摘されて、それが問題とされているのに、その回の「加害性」と虐待を受けた子どもに与える影響などを何ら検証することなく、ドラマの「その後の展開」で「共感的意見も寄せられるようになっていった」とその後の放送を評価している。
このことは私の個人的な見解では、巧妙な論理のすり替えだと思う。
私の知る限り、第1回の放送を見て「リストカット」にいたった施設の子どもたちや施設出身の若者が複数いたことは事実だ。
あのドラマでの児童養護施設やそこで暮らす子どもたち、実の親や里親候補者たちについての、暴力的な極端な描写が、たとえ少数者とはいえ、特定の子どもたちの心の傷に触れてフラッシュバックを起こし、リストカットなどを引き起こしたことは事実で、子どもの精神発達と虐待などの関連を研究している医師などが問題だと批判したのだ。
そうした状況をBPOとしてどう見るのか。それこそBPOが答えるべき最大のポイントだ。
そこには触れていない。
そもそも第1回放送の「加害性」は、第3回以降の放送で「解消」されるものなのだろうか?
もしも、第1回の放送を見て「リストカット」して、命を落とす結果につながった子どもが出てしまった場合、その後の放送が改善されたら、その子どもの命は回復されるのだろうか?
青少年委員会の委員長コメントからは、そうした危機意識はいっさい感じられない。
むしろ、委員長コメントでは、スポンサーのCMが流されなかったという事態の方を重くみている印象がある。
しかし、視聴者からの批判が、提供スポンサーにまで影響を及ぼすということが安易に行われると、番組制作自体が次第に成り立たなくなっていく可能性が生じる。批判は大いに歓迎したいが、それが放送局と視聴者双方の表現の自由を制限する方向に向かわないようにすることが、今回のことが社会に投げかけた教訓といえよう。
「視聴者からの批判」が「提供スポンサーにまで影響を及ぼす」ということを、委員長コメントにあるように「安易に行われ」と表現したことには違和感を抱いた児童福祉関係者は少なくない。
なぜなら、ことは「子どもの命」にかかわることだからだ。
「子どもの命」にかかわる、という問題意識がスポンサーに届くことは「安易」なのだろうか?
一般論として、内容は良い番組なのに特定団体が何か気に入らないとして抗議の声を上げて提供スポンサーに働きかけ、番組内容に影響があった場合、ケースによっては「安易に行われ」という表現は当てはまるかもしれない。
だが、今回は「子どもの命」の問題で緊急を要するとして関係者が声を上げた経緯を私自身は取材の過程で知っている。
それを「安易」という表現で片付けられてしまって、真剣に考えてきた専門家たちにとってはたまらないと思う。
こうした状況を受けて、放送人権委員会が「審議入り」するかどうかが注目され、結論を出すと言われたのが3月18日で、そこでも結論が出ずに4月15日の会議に持ち越され、ここで結論を発表するとBPOはマスコミに公表していた。
しかし、4月15日も結論は発表されずに5月に先送り。
審議に入るかどうかという入り口の議論でこの2か月、判断できない状態が続いているのだ。
問題の第1回放送からだと、もう3か月。来月に本当に結論が出るなら4か月もかかって結論を出せない。
しかも、この2か月間、申し立てを行った慈恵病院に対して、BPO側が、手続き的に、どこがどう不十分で、こうすれば審議対象にする、というような懇切丁寧な説明をBPO側が行ったという事実は私が取材した限りでは今のところない。
これではBPOとしての「能力」「姿勢」が問われることになると私は思う。
今回の事態を大ざっぱに振り返ってみたい。
1月の「明日ママ」の第1回放送の後、慈恵病院や全国児童養護施設協議会などの関係者が記者会見などを通じて放送局(日本テレビ)に内容改善などを求めた。
しかし、放送局側は応じなかった。
このため、慈恵病院がBPOに申し立てを行ったほか、児童養護施設の関係者らが国などの関係機関に働きかけた。
申し立てに対して、BPOはすみやかに審議するかどうかの結論も出せなかった。
放送局もBPOも速やかに対応しない。
そういう状況を受けて、関係者の一部がスポンサーにも働きかけたことは事実である。
その結果として、スポンサーのCMが流れないという異例の事態に発展した。
「子どもの命が危ない」。
そう考えた専門家たちがテレビ局や放送倫理を統括する機関であるBPOに働きかけても、すぐに動いてもらえなかったから、スポンサーに働きかけた。
スポンサーに働きかける以外に方法があったのだろうか?
放送局やBPOが迅速に動き、対応する体制や姿勢があれば、スポンサーに働きかけるような形で問題は広がらなかった。
その点を一切、反省することもなく、その点を反省するコメントも出さずに、「安易」だという表現で説明するような青少年委員長のコメントは、BPOの自らの怠慢や能力不足を棚に上げているのと同じだと思う。
申し立てを受けて、とっくに審議を開始していいはずのBPO放送人権委員会は、1月の放送から3か月以上経っても結論を出せない。
その結論は、審議入りするかしないかなのだ。
5月に結論を出すにしても、4か月後に審議するかどうかの結論が出る。
審議入りするながら、そこから実質的な調査などが始まるのだ。
こんなに時間を浪費してBPOは一体どうしたいのだろうか?
審議入りしないなら、だらだらと待たされた側のこの間の時間は何だったのだろう?
一体どうしたことか。
BPOの個々の委員や職員がまったく怠慢で無能だと言っているのではない。
それそれの職責で努力された人たちがいたし、それらの努力の末の結論であることは理解しているつもりだ。
だが、医師や施設関係者らの専門家たちが「これは子どもを守るための緊急事態だ」として声を上げても、迅速に対応できないのであれば、それは現在のBPOのシステムそのものに欠陥がある、と言わざるえない。
少なくともBPOは「放送倫理上」「適切だったのか」「不適切だったのか」「加害性をどう考えるのか」を調査し、判断する役割を期待されているのに、その入り口でこれほど時間がかかってしまう。
このことは極めて残念だ。これでは視聴者はBPOを信頼しなくなる。
そうなるとどうなるのか。
もし、「これは放送倫理上、問題がある」と視聴者の少ない人や専門家らが感じた番組が放送された場合でも、放送局やBPOに働きかけても、アテにはならない、ということだ。
そうなると、青少年委員会の委員長コメントにある通り、「提供スポンサーにまで影響を及ぼす」という事態がますます引き起こされることになる。
委員長コメントは、そうした事態を憂慮しているが、実際にはそうした事態を広げつつあるのは、迅速に対応できないBPO自身だということに気がついていないのだろうか。
BPOはたった一つのドラマについてさえ、こんな対応をして、「審議に入るかどうか」という入り口の話で2、3か月を費している。
今回はテレビ局だけでなく、BPO自身の信頼も失われかけているということを関係者はどこまで意識しているのだろうか。
(2014年4月16日「Yahoo!個人」より転載)
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