内戦が続くシリアで武装グループに拉致され、3年以上にわたって拘束され続けたフリージャーナリストの安田純平さん(44)が10月下旬、無事解放された。
だが、帰国した安田さんを待っていたのは喜びの声だけではなった。「自己責任論」に基づく批判も相次いだ。
実は私自身、内戦下のシリアを少しだけ取材したことがある。その意味で今回の騒動は、危険地域における取材のあり方や、そもそも戦争報道とは何かという問いを私に突きつけた。
シリア取材の経験と当時、現場で感じたことを振り返りながら、個人的に思うところを述べたい。
安全を最優先
私がシリアを取材したのは2013年1月下旬から2月上旬にかけての1週間だった。当時、私は朝日新聞モスクワ支局に勤務。中東やヨーロッパ各地にいた同僚記者たちがそれぞれのテーマに基づき、交代でシリア取材を続けていた。
私の場合、シリアにいるロシア人を追うことを取材の柱にしていた。
シリアはロシアの友好国で、多くのロシア人がシリアでビジネスをしたり、シリア人と結婚して現地に暮らしていたりしている。
ところが、ちょうどこの頃、ロシア人たちが相次いでシリアを出国する騒ぎが起きた。「内戦が急速に悪化している可能性がある」。現地のロシア人たちの生活を通じて、それを確かめるのが狙いだった。
紛争地にしろ、災害地にしろ、朝日新聞が記者に危険地域を取材させる際は、事前に現地の情報をできるだけ集め、危険度合いを慎重に検討する。
安全が確認できなければそもそも記者を送り出さないし、仮に派遣を決めたとしても安全対策を万全にする。
シリア取材のケースで言えば、現地の事情に詳しいシリア人のコーディネーターの男性に依頼し、入国前から出国まで同行してもらった。
この男性は、中東地域を担当してきた歴代の記者たちと多くの仕事をこなしてきた。経験が豊富なだけでなく、信頼関係もある。
シリアへの出入りは、隣国レバノンからの山越えルートを選んだ。山の上には、出入国を審査するシリア政府の施設がある。ここから入るということは、アサド政権が求める手続きを踏むことにほかならない。
内戦はそもそも、独裁者であるアサド大統領と、彼に反発する一部の市民たちが起こした抵抗運動から始まっている。
「政権側」から入国することで、取材や報道が妨害されたり、制約されたりする可能性はないのか――。そんな懸念はあった。それでもこの入国ルートを選んだのは、安全の確保を第一に考えたからだ。
もちろん、アサド政権からの干渉や制約がないという確証が事前に得られたことも現地入りに踏み切る理由になった。
シリア入国後、外務省を訪れて身分を明かした。その上で各地を取材したが、政権側の圧力や理不尽な制限を感じたことはなかった。
ただ一つ、地中海沿岸の都市タルトゥースにあるロシア海軍の補給拠点に近づくことは禁じられた。もっとも、これについては安全保障やロシアとの外交関係を考えれば、内戦にかかわらず、政権が制限するのは特別不当とは思わない。
もしかしたら、こうした取材のやり方に対して、政権側の「息のかかっていない」ルートを使うべきだと批判を受けるかもしれない。
例えば、反体制派と政権軍が激しく衝突していた混乱に乗じて北部(トルコ側)から入ることも考えられたが、安全上のリスクが高すぎると判断した。
確かにこのルートで入国を果たしたジャーナリストもいた。彼らに言わせれば、私たちの選択は「臆病」なのかもしれない。
だが、戦争取材の経験が決して豊かではない自分の力量や安全面を考慮すれば、私たちの選択は間違いではなかったと思う。
シリアでは首都ダマスカスにあるホテルに滞在した。同じ部屋を長期間借り、防弾チョッキやヘルメット、備蓄食料を置いていた。
数時間ごとに東京にいる同僚記者に電話連絡もした。行き先や現地の状況などをこまめに報告するためで、移動にあたっては、危険地帯の場所や道に詳しいシリア人に車の運転を頼んだ。
記者、ジャーナリストとして取材は大切だ。だが、それ以上に、無事戻ることを至上命題とした。
現場は「魔物」
記者にとって現場はつくづく「魔物」だと思う。事件であれ、災害であれ、そして戦争であれ、よりリアルな情報を読者に届けようとすれば現場に肉薄することは不可欠だ。
だが、現場に危険はつきものだ。場合によっては命を落としかねない。それでも記者はしばしば、眼の前に広がる非日常に触れると、その高揚感によって感覚が麻痺し、リスクより「使命感」を優先してしまうことがある。
そうやって命を落としてきた戦場ジャーナリストの話をよく先輩記者から聞いた。「勇気と蛮勇は違う」。臆病と言われようとも、私が肝に銘じていることだ。
暴力や戦闘だけが戦争報道なのか
「臆病」な私はシリア滞在中、当時激戦地となっていたアレッポなどに行くことはなかった。それは私だけでなく、朝日新聞の方針として同僚記者たちも厳守した。
私が行ったところは、首都ダマスカス、ロシアの海軍拠点があるタルトゥース、すでに政権軍と反体制派の戦闘が沈静化していたホムスなどだった。
いずれも激しい戦闘行為を目撃したわけではない。見た光景と言えば、市場で買い物をする母子、カフェでおしゃべりを楽しむカップル、路上でサッカーをやる子どもといった、何気ない日常ばかりだ。
だが、むしろそこにこそ、戦争のリアルと恐ろしさがあると気づいた。というのも、彼がそうやって日常を送っているダマスカスの数キロ先では、政権軍が反体制派に対して空爆していたからだ。
断続的な轟音と空高く上がる黒煙。非日常的な出来事にもかかわらず、市民はすっかり慣れてしまっているのだろう。何事もなく日常を送っていた。
それまで戦争といえば、弾道ミサイルの発射や戦車による砲撃、兵士らによる戦闘行為、血を流して運ばれる人々、そんなイメージばかりだった。
それらは一見、強烈な印象を与えるが、実は戦争の断片的な光景でしかない。戦争と言っても、間断なく、あらゆる場所で戦闘行為が行われているわけではない。
考えてみれば当たり前かもしれない。だが、それがわからなくなってしまうほど、戦争報道はステレオタイプになっている。
私がダマスカスで目撃した光景は、平穏な日常に、空爆という非日常が自然なほど溶け込んでいた。戦争のリアルに触れた思いがし、恐ろしさを感じた。
私はTwitterで、それまでメディアが報じてきた戦争の光景とは違う写真ばかりを投稿した。若者の笑顔、アイスをほお張る男女、「KARAOKE」という看板が掲げられた店、ケンタッキーフライドチキン・ダマスカス店......。
フォロワーたちから反響もたくさん頂き、戦闘地を避けた「臆病」さがもたらした思わぬ産物となった。
自己責任論に思う
危険を承知で戦争地に向かうジャーナリストたちの仕事は、同業としてもリスペクトしかない。様々な制約が予想されるフリーの人たちならなおさらだ。
安田さんが言ったように、ジャーナリストは自らの意思で戦争の悲惨さを伝えようとしている。
たとえ政府が退避勧告を出していようとも、ジャーナリストとしての良心や使命感によって危険地に踏み込むのであり、誰の命令でも要望でもない。まさしく自己責任だ。
だが、そうした自己責任と、いざ窮地に陥った国民を国が救出することは別の話だ。
かつて海外の邦人保護を担当していたある外務省職員も同じ意見だった。「危険地に行こうとするジャーナリストの思いは理解できる」。彼はそう話していた。
ただ、だからといって「救ってもらって当然」と考えるジャーナリストがいるとすれば、私は賛成しない。同じ社会に暮らすメンバーとしてまず、感謝の気持ちを伝えたいし、謙虚であるべきだと思うからだ。
そう考える私はジャーナリストとして意識が低いのだろうか......。答えはいまだに出ない。