サッカー派と野球派はなぜ仲が悪いのか?

サッカーというのは不思議なスポーツで、ワールドカップに出てない年でも、期間中はお祭り騒ぎになるほどに人気な国があるかと思えば、逆に特にアメリカ人なんかはいまだに、「ワールドカップ?ああ、やってるらしいね。ところでアメリカって出てるんだっけ?(最近ずっと出てますよ!)」的な人が結構いたりする人気の偏在っぷりが特徴です。

前回は余談に入って任天堂ゲーム機vsソニーゲーム機だとか妖怪ウォッチだとかいう話になってしまったんですが、気を取り直して、ワールドカップに合わせて「サッカー文化とは人類にとって何なのか」という大上段な論考を書きます。

サッカーというのは不思議なスポーツで、ワールドカップに出てない年でも、期間中はお祭り騒ぎになるほどに人気な国があるかと思えば、逆に特にアメリカ人なんかはいまだに、「ワールドカップ?ああ、やってるらしいね。ところでアメリカって出てるんだっけ?(最近ずっと出てますよ!)」的な人が結構いたりする人気の偏在っぷりが特徴です。

日本人の間でも、なんとなくWBCとワールドカップはオリンピックと同じノリで応援する(けどそれぞれのスポーツについて普段は全然気にもしない)・・・という層を除けば、「俺は明確に野球ファン」だという人で「熱心なサッカーファンでもある」人はかなり少なく、その逆も真であるようです。

私は小学生の頃サッカー少年団に入っていましたし、日本で野球をやってる人間の、「俺達が日本の中心で、野球やってない奴は日陰者」みたいな傲慢さを持っているような感じが(今はそうでもないですが子供の頃は)嫌いで、結構サッカー派よりで生きてきたと思います。友達と草サッカーはやったことがありますが、草野球は一度もやったことがありません。

一方で私の妻などは、明確にサッカー嫌いの野球派で、カープファンでもないのに前田智徳(サッカー派のあなたのために解説すると、長く怪我に泣かされたので数字的に飛び抜けているわけではないが、数多くのプロ同僚たちに唯一無二の打撃の天才と称された伝説的な選手)のバッティングについて熱く語れるくせにサッカー日本代表はホンダぐらいしかわからん・・・ってアラサー女子としてどうなんだ?というような感じだったりします。(今回のコートジボワール戦も、前半は一緒に見てたんですが、そのうちツマランとか言ってどっか行ってしまいました)

ネットでもよく喧嘩になっているところが、ちょっとソニー製ゲーム機派と任天堂製ゲーム機派との対立に似ているな・・・というところから前回の脱線話に繋がったわけですが、この両者の争いは、まあネタとして面白いから口喧嘩しているというのもありつつ、根底的には両スポーツの成り立ちの背後にある物事の捉え方・価値観の対立なんですね。

私は結婚してから、野球好きの妻に連れられて、ドラゴンズの試合を結構見に行くようになりました。そうすると、大人になって初めて野球場に行った分、「サッカー文化」との違いが色々と印象的でした。

やはり一番の特徴は、野球には「打席」とか「マウンド」とか、そういう「固定的な場」があるってことなんですよね。その「場」っていうのはもう「天与」のもので、何人もそれを侵すことができない聖域です。

そして、チーム内ではあまり有名な選手ではないかもしれない、年に数回しか出番のない代打選手でも、ことその「打席」に入っている時間だけは「唯一無二のキーパーソン」なのです。球場全体がその選手の名前を連呼して応援してくれます。他のことは一切考えなくてもいい。ただ投げ込んでくるボールをいかに打つか・・・だけに集中できる。

サッカーはそういうわけにいきません。ゴールを決めた選手だけが、スタジアム全体の自チームサポーターの歓喜と敵チームサポーターの恨みを一身に受けて「圧倒的な主役」になります。そして時にラストパスを出したアシストの選手も多少は褒められますが、その数手順前に重要な局面の転換を起こした知られざるプレー・・・などは人目に触れることはほとんどありません(よっぽどのマニア観客は見ていてくれますが、下位打者でも打席に立ったら誰でも球場全体に名前を連呼してもらえる野球選手とは比べ物になりません)。また、ディフェンダーやゴールキーパーの選手などは、敵の攻撃を止められて当然、止められなければ許されざる戦犯扱い・・・というなんともツライ立場におかれます。

しかしだからこそ一方で、サッカーには当然サッカーにしかない魅力があります。サッカーはとにかく自由です。ディフェンダーだって攻撃に参加してもいい。「打席」という制約がない分、ボールを受け取ったらドリブルしてもいいしパスをしてもいいしシュートを打ってもいい。ありとあらゆる創意工夫をすることができます。

つまり、大雑把にまとめると、野球選手はキャリアの中で「同じこと」を物凄い回数練習し、技術を磨き上げ、それを披露する「一所懸命」型のスポーツであるのに対して、サッカー選手はキャリアの中で常に「全くあたらしいシチュエーション」に出会い続け、その場その場での創意工夫を披露し続けることが求められる、「千変万化」型のスポーツだということです。

(もちろん、野球選手が「同じこと」をするといっても相手の投手によってそれぞれ彼らにとっては「全然違う」レベルの違いに出会い続けているのでしょうし、サッカー選手も「固定的な技術」を積み上げていくべき領域がある・・・・というのはわかります。しかし比較問題で言えば、野球選手にとって投球が5センチずれたらそれは戦局に決定的な違いをもたらしますが、サッカー選手にとってはシュートが5センチ差で入るか入らないか・・・よりは、「そもそも5センチ違っても入るシチュエーションを作ること」が決定的な違いとなることが多い・・・という比較問題としてはみなさん納得していただけると思います。)

そしてその違いは、ファンの価値観の違いにもなります。

時代の流れに敏感に反応して、最速のスピードで気の利いたアプリを提供するゲリラ的ITビジネスの会社があったとして、そこの社員に「サッカー派と野球派」のどっちが多いか?というと、明らかにサッカー派が多いでしょう。

一方で、「一所懸命」的に事業ドメインを確保し、そこに必要な技術や取引関係などを長い時間かけて積み上げていくことで価値を出している伝統的製造業の会社・・・などでは、まあ世代によりますが大きく見れば野球派が圧倒しているように思います。

なんか、こう書くと、両者の仲が悪いのは結構当然かもしれないような気すらしてきますね。

つまり戯画的な言い方をあえてすると、

野球派から見てサッカー派は、「自分だけの本業」に腰を据えて地道に積み重ねていく根性のない根無し草のチャラいだけのお調子者たちに見える

のに対して、

サッカー派から見て野球派は、自分たちの慣れ親しんだやり方に固執して時代の変化に対応しようとしない鈍重で時代遅れな人たちに見える

・・・・わけです。

一つの国における「最大のメジャースポーツ」は、国民の日常生活のあらゆる場所での意思決定のモードに決定的に影響を与えます。また逆に、そういう国民の日常生活のあるモードが、その国民なりの「そのスポーツのやり方」に影響することも、南米・アフリカ・ヨーロッパそれぞれのチームが実に「それっぽい」サッカーをしていることからも理解できるでしょう。

サッカーが圧倒的に最大メジャースポーツである国では、ある意味で国民生活の全体が「サッカー的」に行われていて、その選手はナチュラルに育った文化の自然な価値観の延長でサッカーができます。

しかし、日本には野球という大きなライバルがいて、伝統的な経緯もあって特に上の世代の「野球的世界観」の強固さは圧倒的です。自然といろいろと「齟齬」も生まれることになります。

本当かどうか知りませんが、サッカーアメリカ代表はある時期まで、サッカーのポジションを「野球」のように明確なものと捉えすぎる文化があり、お互いをカバーリングしたりする動きをすることは、「相手の領分を侵す良くないこと」だと思ってしまうようなギクシャクしたところがあったそうです。それの「克服」が歴代監督にとって重要な仕事だったという記事をどこかで読んだことがあります。

日本は過去20年間、アメリカよりももっとずっと本格的に「サッカー」にのめり込んでいますから、さすがにそんな不自然なことはありません。しかし、サッカー文化が日本社会の「保守本流」的な世界からは常に本能的に「異物扱い」されているので、「サッカー文化しかない国」が他の選択肢がありえないことによる自然さで動いているのに対して、どうしても「意識して意識して、野球じゃなくてサッカーなんだからこうするべきだろ?と"アタマで"考え続けながらやる」というような不自然さを抱えているようにも思えます。

日本代表の歴代の中心選手(特にナカタ・ホンダ両氏)が常に日本社会との間に野球選手にはありえない軋轢を抱えているのもそれが理由でしょう。

また、代表チームが「良いムード」の時には世界を驚かせるような活躍を見せられるのに対して、ふと緊張の糸が切れてしまうと突然なんだかありとあらゆることがうまくいかなくなってしまい、考えられないミスを連発してたたみ込まれてしまう脆さを「持病」として抱えていることにも、日本サッカー全体が、乗り慣れた自転車を無意識に漕いでいるような状態ではなく"物凄く意識してやっている"状態にあるからだと私は考えています。

初戦を落として後がない日本ですが、それでも諦めずに「自分たちの形」を目指していく時に、「失うもののないふっきれた気持ち」から、もう一歩「自然な形」が出せて良い結果を生まれることを祈っています。そうすれば勝敗に関わらずそれがさらに「次」に繋がっていくでしょうからね。

つまり、その「自分たちの形」が、物凄く必死に意識付けをするまでもなく「自分たちの素直な形」として出せるようになるか?がこれからのチャレンジなんですよね。

そういう意味において、長期的に見て日本サッカーが「さらに先」へ進歩するためには、彼らの精神を本能的に常にチクチクと刺している国内における「野球文化」との間の断絶にあたらしい連携が生まれていって、

「野球"も"強い国だからこそできるサッカーの強さ」

という形を模索していくことが必須不可欠なプロセスになると私は考えています。

またそれは、一試合あたり選手が走った距離だとか、守備の選手のタックルの回数と成功率だとか、一昔前には考えられなかったレベルまで精緻にサッカーというスポーツがありとあらゆる側面からデータ化され、分析され、改善が求められるようになる中で、「私の戦術はロナウドだ」的に一人のスーパースターのエゴ爆発のプレーだけで勝つことが難しくなってくる結果、つまりいわばそれぞれのプレイヤーに求められることが理性的に分析されて明確に定義されていき、野球における「打席」のようなモジュール(部品)になっていく・・・・という、

「サッカーに対する野球的な見方」が今後重要になってくる世界的なトレンド

に合致するあり方でもあるのです。

さらにマクロ的に見ると、そういうプロセスを日本が歩むことは、「グローバリズムの中の機敏な動き」と「日本の強みである長い時間をかけた蓄積を伴うビジネス」との間の、今はお互いの価値観が違いすぎて常にギクシャクしている両者の間の連携の文化を生み出すことで、経済・経営面においても「日本再反撃」の重要なパーツとなるでしょう。

ワールドカップの期間を通じて、そういう連載をネット上でやりたいと思っていますので、ご期待ください。

投稿は不定期なので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

ちなみに、この話はすでに私の著書「21世紀の薩長同盟を結べ」の中で1章を割いて詳述したものを、今回のワールドカップの話題を織り交ぜながら書きなおしていく試みなので、ご興味があればそちらをお読みいただければと思います。(この記事における"両者"の存在を幕末の薩摩藩と長州藩の連携に例えて、その性格や考え方が大きく違う2つの勢力の間の"薩長同盟"の成立が、現代の日本においてもあたらしい持続的な発展への鍵となる・・・という趣旨の本です)

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/

ツイッター→@keizokuramoto

注目記事