東大医学部の面接導入

東京大学は、2018年2月から理科III類(医学部)の入試に面接を復活させると発表した。この発表を聞いて、東大医学部の凋落は、今後も続くと感じた。

東京大学は、2018年2月から理科III類(医学部)の入試に面接を復活させると発表した。この発表を聞いて、東大医学部の凋落は、今後も続くと感じた。それは、幹部に当事者意識がないからだ。

東大医学部が抱える問題は、医師にふさわしい学生を採れていないことではない。

05年に東大医科研に異動してから10年間、東大理IIIの多くの学生を指導してきた。みな優秀だし、人格的に問題がある人は少なかった。

問題は入学後の教育だ。

例えば、1990年代半ばの一連のオウム真理教事件には、私の高校・大学の同級生が関与した。その中には、東京都庁小包爆弾事件などで懲役15年の実刑判決を受けた人物や、逮捕はされなかったが、法皇官房次長を務め、一連の事件への関与が疑われた人物がいる。

二人とも真面目で、人柄も良かった。面接試験があっても、落とされなかっただろう。オウム真理教事件の教訓は「大学合格を目指し、純粋培養されてきた学生をいかにして社会で通用する人間に育てるか」だ。

東大医学部が再生するためには、診療・研究の能力に加え、社会性のある教育者を確保することだ。

では、現状はどうだろう。お世辞にも「社会性のある教員」がそろっているとは言いがたい。

例えば、血液・腫瘍内科の教授だ。患者に無断で、個人情報をノバルティスファーマ(ノ社)に渡していたことが2013年末、判明した。

患者の情報漏洩は守秘義務違反で刑法に抵触する可能性がある。同じ事をIT企業がやれば、社長の辞任は避けられない。

ところが、この教授は「自分は知らなかった」と主張し、現在も教授職にある。東大は、文書による厳重注意だけで済ませ、その後、この人物を総合内科科長にも任命した。関係した全日本人幹部を更迭したノ社とは対照的だ。

不祥事は、これだけではない。14年3月には、大学院受験を希望する医局員から100万円を受け取っていた眼科教授が諭旨解雇された。15年4月には、「週刊文春」が、院内で救急医学分野教授が、「霊感セミナー」を実施していることを報じた。この教授は今年3月末で「無事」に定年退職した。

研究不正疑惑も枚挙にいとまがない。循環器内科の教授は、千葉大学在職中の降圧剤の臨床研究で不正が指摘され、この研究を掲載したイギリスの医学誌は「利益相反の管理とデータの信頼性に問題がある」として論文を強制的に撤回した。この人も東大教授のままだ。一連の降圧剤の臨床研究不正で、トップが居座った数少ないケースだ。

今年になって、米国の研究不正を扱うサイト"PubPeer"で、糖尿病・代謝内科の特任教授が発表した論文にデータ改竄の可能性があることが指摘された。果たして、学内で調査するのだろうか。東大医学部の特徴は、不祥事が露見しても、教授が責任をとらないことだ。そして、それを誰も問題視しない。

この姿勢は幹部まで変わらない。14年末の東大総長選挙では、一連の不祥事の管理責任がある医学部長が立候補した。さすがに敗れたが、その後、医学部教授会で医学部長に再任された。

これは世界の常識とは異なる。大学には学問の自治を守るため、自己規律が求められる。相互批判が欠かせない。

ハーバード大学では、05年1月にローレンス・サマーズ学長が「科学や工学の分野で秀でた業績を残した女性が少ないのは、男女間に生まれつきの素質の差があるからだ」という趣旨の発言をしたとき、同大学の教授会は、サマーズ学長を不信任とする決議を採択した。06年6月、サマーズ氏は学長辞任を表明した。

湾岸戦争の司令官ノーマン・シュワルツコフ氏は「リーダーに求められるのは権限を惜しみなく与え、責任は自らがとる。そうすることで、部下はやる気を出し、実力を発揮できるチャンスも増してくる」と言った。これが世界のエリートの常識だ。

東大医学部に求められているのは、入試改革ではない。教授がリーダーとしての模範を示すことだ。変わるべきは教授たちである。

*この文章は「メディカル朝日」5月号に掲載されたものです。

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