被爆した路面電車の運転士だった祖母の体験をWeb漫画にした「さすらいのカナブン」さん。彼女が第2弾として取り組んでいるのは、祖母のいとこ、増野幸子(旧姓:小西幸子)さんの体験談の漫画化だ。「ヒロシマを生きた少女の話」というタイトル。現在は下書き段階だが、2016年の完成を目指している。
(※2020年から「ジャンプルーキー!」で掲載中)
「広島原爆の日」を翌日に控えた8月5日、モデルになった増野さんにインタビューした。70年前のあの日、15歳だった彼女は、爆心地から約2.1kmの地点で被爆。背中に114個のガラス片が刺さる重傷を負いながらも、九死に一生を得たという。
1944年、広島電鉄家政女学校に入学当時の増野幸子さん(当時14歳)
■「オバケじゃ!」と思いました
高層マンションが林立する広島市営アパートを訪ねた。外はカンカン照りだった。猛烈な暑さのため、外を歩く人も少なく、セミの声だけが響いていた。一室の玄関の前で、ピンポンを鳴らすと「はい、どうぞ」と、上品そうな女性がにこやかに出迎えてくれた。増野幸子さんだ。86歳とは思えないほど元気そうな様子。自宅で話を伺った。
増野さんは広島県粟屋村(現:三次市)出身。原爆が投下された1945年には、広島電鉄家政女学校の生徒だった。男性運転士が次々と出征する中で、広島電鉄が女性運転士を育成するために設立した学校だ。子供の頃から電車の運転士に憧れていた彼女は、いとこの児玉豊子(旧姓:雨田豊子)さんに続いて、この学校に14歳で入学した。
人手不足もあり、車掌業務を経て、翌年には念願の運転士になれた。「自由自在に電車を動かせるのは本当に楽しかった。まるで天下を取ったような気分でした」と、振り返る。男子学生からラブレターをもらったこともあったという。
終戦直前には授業は完全になくなり、昼夜を問わず運転に追われるようになった。運命の8月6日。空襲による停電のため、前日の運転業務が終わって寮にたどり着いたのは未明の午前2時を過ぎていた。寝付けないまま午前5時に起床し、朝の運転に向かおうとしたところ、原因不明の腹痛に襲われた(後に虫垂炎と判明)。初めて欠勤した。
午前8時15分、寮で寝ていた増野さんは、足の甲に猛烈な熱を感じた。途端に寝返りを打ったところ、次々と物が飛んできた。夢うつつで目を開けると、寮の天井はなくなり、真っ黒な空をゴミが飛んでいるのが見えた。下着姿で寮の前の広場に出ると、人々が「爆弾だ!」と叫んでいた。
ふと熱さを感じて、足元を見ると足の甲が火傷で水ぶくれになっていた。慌てて冷やそうと、寮の近くを流れている京橋川に行こうとして道路に出た。そこで彼女が見たのは想像を絶したものだった。
「『オバケじゃ!』と思いました。爆弾で、あんな風になっているとは思いませんでしたね。もう人の形はないんですよ。顔は真っ黒けで、手の皮はずるむけてていて、『熱いよぉ、熱いよぉ』と言いながら、ぞろぞろと歩いているんですね」
驚きながらも川で足を冷やしていると、市内は煙で真っ黒で何も見えなくなっていた。ただ下の方を真っ赤な炎が広がっていくのが分かった。投下地点から近すぎて、キノコ雲は見えなかった。川の中に大やけどをした人が入っていくのが見えたが、ボコボコと泡だけを残して、そのまま出てこなかった。
やがて、背中に生温かい物が流れているのを感じた。近くにいた人に背中を見てもらうと「うわぁ、あんたの背中血だらけよ!」と言われた。背中から流れた血で、足は真っ赤に染まっていた。「お母さん、助けてぇ!」。パニック状態になった増野さんは、郷里にいる母に向かって思わず何度も叫んだ。
このとき背中には寮の窓ガラスが割れたガラス片が114個も刺さっていた。現在でも背中の奥に数片が残っており、寝返りをしたときなどに痛むという。
さすらいのカナブンさんのWeb漫画「ヒロシマを生きた少女の話」より
■「私は死んでもいいから、早く逃げて」
倒壊した寮をぼんやりと眺めていると、「小西さん、そのままじゃどこにも行かれないよ!服を着なさい」と先生に注意された。慌ててガレキの中から制服を見つけた。背中が痛くて上着は着れないので、ズボンだけを履いて30〜40人ほどの集団で避難した。途中で、いとこの雨田豊子さんに再会。運転していた電車が被爆し、寮に帰ってきたところだった。彼女も頭に怪我をして、顔は血だらけだったという。
「『幸っちゃん、生きっとたんね。よかったねぇ』。豊子さんが言うてくれて、二人で抱き合って泣いたですよ。『それにしてもあんた、ひどい怪我をしたんじゃね。しっかりしんさいね。私が連れて逃げてあげるから』と言ってくれました。あの人のお陰で現在の私があるんですよ」
途中の共済病院でピンセットで背中のガラス片を取ってもらい、3つの三角巾を体中に巻く応急処置を受けた。広島市南部の神田神社で夕方までいたが「ここは夜が危ない」という教師の指示で、姉妹校の実践女学校まで避難したが、約10kmの道のりは地獄だった。
「豊子さんに肩を支えてもらいながら、片足をつきながら歩いていきました。足が火傷でうずき、背中もチクチクするので5分と歩けないんですよ。『豊ちゃん、もう私は歩けない。私は死んでもいいから、早く逃げて!』。私は何十回も叫んで、街を埋める死体のそばにしゃがみこみました。そのたびに、豊さんは『しっかりしんさい!頑張らないといけん』と私を叱って、引きずるようにして連れていきました。豊子さんがいなかったら、到底生きてここにはいなかったでしょうね。私がしゃがみこむと、まだ生きている人が『お水をください……』と話かけるんですが、『私もないんです』と話したことを覚えています」
通常であれば徒歩で2時間ほどで行ける距離だったが、焼け野原を裸足で歩いたため8時間ほどかかった。実践女学校に着いたときには真夜中になっていた。講堂に寝かされて、生死の境をさまよっていたが、8月14日に家族の迎えで郷里に帰った。玉音放送が流れたのは、翌日のことだった。家族は体を震わして泣いていたが、幸子さんは「これであの苦しい戦争が終わったんだ」と、ホッとする気持ちの方が大きかったという。
さすらいのカナブンさんのWeb漫画「ヒロシマを生きた少女の話」より
■「ピカドンの毒が移る」と言われて
実家では母の懸命な介護と、医師の治療の甲斐があって、ぐんぐんと回復していった。10月、運転士に復帰しようと広島を訪れたが、車庫で聞かされたのは「家政女学校は9月で廃校になった」という悲しい言葉だった。「働くところはありませんか?」と尋ねた結果、支線の宮島線の車掌として翌日から勤務するようになった。
終戦3年後の1948年には、兵庫県姫路市にあった東洋紡績(現:東洋紡)の工場に就職した。そのときのつらい経験は未だに忘れられないという。女子寮には1000人以上の地方から出てきた女性が集まっていたが、広島の原爆のことを詳しく知っている人はいなかった。
「寮の共同浴場に入っているときに、私の背中の傷が気になったんでしょうね。『あんたの背中、どうしたの…』と聞かれたので、『広島のピカドン(原子爆弾)で怪我をした』と言ったら、側にいた人たちが『ピカドン?早く逃げなさい、毒が移る!』と言って、20人ほどいた同僚が一斉に浴場から出ていってしまいました。一人残された私は泣きました。脱衣所で傷だらけの自分の背中を見ながら、『こうなったのは、私のせいじゃないんよ。原子爆弾のせいで怪我をしたんだから、私が悪いんじゃない』と一生懸命、自分に言い聞かせたのを覚えています」
インタビューに答える増野幸子さん(2015年8月5日撮影)
■「昔のことを話すのは、抵抗ないです」
壮絶な被爆体験を、よどみなく話す増野さん。当時のつらい経験を話すことに抵抗はないのだろうか。そう尋ねると、にっこりと笑いながら、こう言った。
「昔のことを話すのは抵抗ないですよ。大勢の人に知ってもらった方がいいと思うので。豊子さんのお孫さんにも、漫画も上手に描いてもらってうれしいですね。今度、豊子さんが主人公でNHKのドラマになりますが、私の役も出るというので、若い女優さんが挨拶に来たんですよ」
8月10日に放送されるNHKの実写ドラマ「被爆70年 一番電車が走った」には、当時の人物が実名で登場。増野さんの役は、清水くるみが演じる。命の恩人である児玉豊子さんとの交流は、近年まで続いているという。
「去年の11月に主人が亡くなったんですが、それまでは1年に2回は、豊子さんを誘って三次市の君田温泉に一緒に行ってましたね。『命の恩人じゃけえ』と主人が誘ってね。豊子さんとは被爆当時の話はあまりしないですね。いい思い出じゃないから……。久しぶりに会うのでワーワー言って、『あんた元気?』『うちはこうじゃ』といった話ばかりでした」
【関連記事】
ハフィントンポスト日本版はTwitterでも情報発信しています。@HuffPostJapan をフォロー