仕事始めに思う日本文化と研究力衰退の危機

「改革」にどれほどのコストがかかってきたのでしょう?
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Toru Hanai / Reuters

2018年仕事始め。木金とお休みを取れれば、まとまった休暇になりますが、各種の宿題もあるので出勤します。

年末年始は日本的な行事が続くので、どうしても日本文化を意識します。昭和の時代なら年末に障子の張替えを行い、お正月飾りを付け、年が明ければ初詣に行って新しい御札を頂く......。年ごとに「新しくする」ということが日本の文化の根底にあります。もう少し長い単位で言えば、20数年ごとの遷宮なども。「畳とナントカは新しい方が......」という言い方もありますね。

一方、八百万の神々を祀る多神教をベースにしているので、後から来た仏様でもイエス様でも受入れ可能。基本的には新たなものに取って代わられるのではなく、足されていくことになります。したがって、12月25日までクリスマスのデコレーションをしていたウィンドーは、翌日には急いでお正月モードに。この律儀さは驚異的です。私が見た範囲で言えば、クリスマス・ツリーは米国ならニュー・イヤーまでそのままのことが多く、これはクリスマス休暇から人々が戻ってから、さぁ、そろそろ片付けようか、ということになるからでしょうか。返還前の香港では、2月のChinese New Year近くまでは飾りっぱなしと聞きました。

......このようなメンタリティがもたらす弊害について考えたいと思います。

私が東北大学に教授として着任したのは1998年の11月でした。ちょうど「大学院重点化」という改革が粛々と進行中。日本の大学が次々と大学院の定員を増やした時期でした。十分な大学院教育が行えるか不明な大学でも「この流れに乗り遅れてはいけない!」モード。当然ながら大学院生の数が増えた分、教員ポストが増えた訳ではありません。そのツケは、まずは「ポスドク1万人計画」として先送りされます。

並行して、2004年に国立大学の「法人化」が決まり、「運営費交付金削減」と「競争的研究費増加」が進みます。国全体としても「選択と集中」が叫ばれている時期でしたので、これは文科省の対応としては仕方のないことだったと思います。ただ、問題だったのは、運営費交付金削減が毎年1%ずつ削減していく分を取り返すのに、競争的研究費や大学の「システム改革のためのプロジェクト」は、ほぼ5年ごとに新たな制度を作らなければならないことになりました。

私自身が関わったプロジェクトとしては、大学院生の教育・研究環境を向上させるための「21世紀COE(Center of Excelence」、「グローバルCOE」があり、その後継の「リーディング大学院」がそろそろ終わり、「卓越大学院」に変わると聞いています。それぞれの制度は「競争的」なので、担当の教員や事務系職員が申請書作成に汗をかき、申請には関わらない全国の教員が書面や面接審査を行わなければなりません。中間評価や終了評価も同様です。

運営費交付金が削減されると、教員や職員の人件費を削らなければなりません。教員が減った分は、競争的研究費を獲得できれば、ポスドク(博士研究員)を雇用することによって補います。職員削減の分は、他の業種の場合と同様に、派遣の事務員で補われることになります。したがって、大学にとって上記のような大きなプロジェクトを獲得することはマストのことでした。

他の変化として、入試制度の改革があります。全国センター試験の導入に加え、「多様な人材を受入れる」ためのアドミッション・オフィス(AO)入試が取り入れられて、AO1期、2期、3期と行われ、さらにごく最近では「国際バカロレア対応」の入試も行われます。本来、AO入試とは、いっせいに圧倒的多数の候補者に対して同じ日に筆記試験などを行うのではなく、アドミッション・オフィス専任の教員や事務職員が、送られてきた高校の成績、エッセイその他を評価して合否を決め、限られたボーダーの候補者のみに必要に応じて面接を行うというやり方です。ところが日本では、既存の入試に「加えて」これらの入試を行うので、担当する教員や事務職員の負担はどんどん増加しています。ちなみに入試は大学院の分もあります。

さらに上記のバカロレアを取り入れることも含め、「国際化対応」という問題も大きくのしかかっています。こちらも世界の情勢を鑑みて逆戻りはできないと思いますが、現場はたいへん疲弊しています。大学の書類はほぼすべて、これまで日本語のみだったのですが、留学生や外国人教員を増やすためには、日英併記に対応していく必要があります。「小学校から英語教育を」という初等教育のグローバル化は、将来的にどのような英語対応人材を育成するプランなのでしょうか? 現場では、留学生の窓口対応、在留資格認定のための支援等のための「英語を聞いたり話せたり」する人材も必要ですが、それ以上に、日英併記のための英語の読み書きが普通にできる人が不足していると思います。

これらの「改革」にどれほどのコストがかかってきたのでしょう? 少なくとも、教員が研究に割く時間は明らかに減少しています。その結果、研究力の低下が招かれます。

すでにいろいろな数字やグラフが提示されていますが、ここでは昨年5月のGender Summit Tokyoの折に公開されたエルゼビア社の分析結果のグラフを取り上げます。同社の扱う雑誌に掲載された論文について、男性および女性一人あたり、1996年〜2000年と、2011年〜2015年のそれぞれ5年間の間に発表されたものの平均値を求めたものになります。すべての分野をカバーしている訳ではありませんが、日本では女性(紫)、男性(緑)ともに、1996年〜2000年に比して、2011年〜2015年の論文平均数が減少しています。これはここに示す国の中では、ブラジル以外の他国と大きく異ります。研究人口が増えたはずなのに、生産性は減っているのです。ということは、他国よりも論文生産性が減るのは宜なるかな(例えばこちらの豊田長泰先生の分析(PDF)など)。詳しくはGender in the Global Research Landscape Reportを御覧ください。(ちなみに、このエルゼビア社の分析では、日本では例外的に男性よりも女性の方が平均論文数が多いのですが、今日は取り上げません。)

「昔は良かった」と言うつもりではありません。どこから手を付けたらよいのかわからないほどに問題は散らばっているのですが、少なくとも「何か新しいことを始める」のであれば、その分、何かを止める勇気も必要なのだと思います。

(2018年1月4日「大隅典子の仙台通信」より転載)