さぁ、憲法の話を(堂々と)しよう

わからない人は色んなちがった意見に触れなくてはいけない。

うちの近所にものすごく安倍首相が嫌いなご様子の家があり、門に張り紙をしてまでその嫌悪を表明している。

「安保法制反対!」「安倍の独裁を許さない!」「憲法改悪するな!」

悪霊退散の御札か。

先の衆院選で自民党が大勝すると、ややトーンダウンしたのか、

「安倍に改憲をさせるな!」「一強となった安倍政権をよく監視」

に変わっていた。

いや、ちょっとちがうんじゃないかな。改憲は国会議員の3分の2以上による発議を受けて国民投票によって決まる。

つまり、安倍政権ができるのは「国民の皆さん、どう思いますか?」という発議までで、最終的には国民の承認でそれは改正される。だから、安倍政権が好き勝手に変えられるわけではない。

だから、「国民による改憲を許すな」が正確で、これでは「お前は誰やねん」である。民主主義を否定することになる。まぁ、たまに否定したくもなる気持ちはわからなくもないけど。

僕は個人的には国民投票というのをやってみたいと期待する。大統領制の国とはちがい、総理大臣を選ぶ投票もできないし、大阪都構想の時の大阪府民のように住民投票すらしたことはない。

結果は多数決で決まってしまうとはいえ、間接民主制の我が国で、個別案件について自分の意見を直接的に表明することができる機会はそうそうない。

「改憲勢力」とひと言でくくられる、自民党と、改憲には慎重な姿勢なんだけど公明党、なんだかグラグラしている希望の党も一旦入れよう、それから日本維新の会の議員数を合わせると国会発議が可能な情勢になった。

以下に、憲法改正に関する論説を書くが、もっとも関心の高いであろう9条に限定することにする。そして、その際に、重要なことは「解釈に頼らない」ということと、「今現在に視点を置く」ことだと思う。

我が国の憲法は「解釈」によっていかようにも歪めたり、現状に捩じ込んだりが可能である事実が、さまざまな噛み合わない論議を惹起してきた。

〈前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。〉

この一文をもっても、「自衛隊は陸海空軍その他の戦力」なのかそうでないのか、解釈によって屁理屈をこねることは可能であった。

そして、「交戦権」とはなんなのか、ひとつの答えはない。憲法起草の責任者であったGHQ民政局次長のチャールズ・ケーディスですら「正直なところ今でもわからない」と1981年のインタビューで告白している。

自民党の改正草案では

〈前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。〉

として、第9条の2においては、

〈我が国の平和と独立ならびに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高司令官とする国防軍を保持する。〉

と、はっきりと「自衛権はある」「国防軍を持つ」としている(これからの議論により、自民党案がそのまま国民投票にかけられるとは限らない)。

改正部分がわかりやすいのはこちら:

次に「今現在に視点を置く」ことであるが、これは憲法成立の歴史を知ることは重要なことではあるものの、歴史の一部は再び「解釈」に委ねられる性質のものであり、事実が混沌とした部分を避けられないからだ。

「日本国憲法は日本人が書いたのか、アメリカ合衆国が書いたのか」は、これまたずっと噛み合わない議論である。GHQの命令により、日本人が苦心して書いたものは「アメリカが書いたもの」でもあるし、「日本人が(敗戦の軛に堪えて)書いたもの」でもある。

バイデン前副大統領は「我々が書いた」と言ったが、〈前項の目的を達するため〉という文言を付け足した芦田修正まで含めて、完全にアメリカが書いたとも言えないだろう。

「あの仕事? あぁアレね、オレオレ。俺がやった」という、広告業界でいうところの「アレオレ詐欺」みたいなものだ。一旦どっちだっていいじゃん。

アメリカが書いたから我が国の名誉回復のために改正するのか、もしも日本が書いたなら一言一句変えないのか、いま必要な論点はそこではないのだ。

憲法第9条をどうするかは、「安全保障をどのように考えるか」の一点による。

「安保法制反対」も、「沖縄の米軍基地反対」も、「オスプレイ反対」も、「打倒、安倍政権」も、「では、どのように安全保障をよりよくするの?」という疑問に答えないから、議論が前に進まない。日本人は討論ができない、とハナから諦めたくなるような状況になる。

「憲法改正について話し合いを...」

「憲法改悪反対!」

「第9じょ...」

「絶対反対!」

「安全ほ...」

「戦争反対!」

「な」

「安倍辞めろ!」

「ちょ...」

「ネトウヨ!」

「ちょ、ちょっと待ってください。チャイナの習近平国家主席は、今年の共産党大会で『今世紀半ばまでに世界一流の軍隊を作る』と宣言していますよね。戦時でもない今、どういう意図なのでしょう。南シナ海ではベトナムやフィリピンからの反発と仲裁裁判所の判決をものともせず、確実に海洋権益を拡大していますよね。ジャパンにおいては尖閣の奪取、沖縄の分断も狙っていると危惧もされています。この状況を踏まえて、どのように平和と独立を守りますか?」

「対話です。まずは相手の話にじっと耳を傾けることです」

「どの口が言うwww」

となる。

本当はこういった大事な話こそ自由闊達に話し合わなくてはいけない。わからない人は色んなちがった意見に触れなくてはいけない。

とは言っても、僕だって犬の散歩中に、あの張り紙をしてる家の前でおっさんと出くわした時は、顔を伏せてその場を通り過ぎた......(そりゃそうか)。

アメリカの大統領補佐官(国家通商会議議長)であるピーター・ナヴァロ氏が著した『米中もし戦わば 戦争の地政学』(文芸春秋)には、あらゆる角度からアジアの安全保障状況、アメリカの軍備、開戦した際の戦略などが具体的にシミュレーションされている。安全保障とは「想定すること」なのだと示してくれる本である。

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前田将多

その中に「第39章 中国との対話は可能か」という章がある。

アメリカは、「我が軍にはこれほどの戦力がある。手を出さない方が身のためだ」という透明性を抑止力とする戦略をとり、一方のチャイナは自国の能力を隠して競合国を不安にさせることで抑止力につなげるという指摘がされている。

話し合う際にも多国間協議を嫌い、優位に立てる二国間協議にこだわり、条約を公然と破るチャイナとの対話にほとんど絶望的な見方をしている。

フェアであるために念頭に置いておかなくてはいけないのは、アメリカという国は建国以来飽きることなく「何かを恐れてきた国」であるということだ。

開拓時代は先住民族に、第二次大戦前にはジャパンに、戦後はソ連と共産主義に、現在ならイスラム教徒に、過剰ともいえる恐怖を抱いて、独自の「正義」に基づいた世界観によって世界に火種を撒いてきたと言える。だから、ナヴァロ氏の言説にもすこーしだけ眉に唾をつけてみてもいいとは思う。

彼自身も、著作の終盤では、現実から目を逸らさず、リスクの大きさを双方が完全に理解できれば希望が見えてくる、と説く。

〈中国とは話し合える、話し合いはできない、といったゼロか百の議論はすべきでないと思う。私なら、「中国と話し合うことはできるが中国と話し合うのは難しい。だから、粘り強く取り組む必要がある」と言う〉との、ジョンズ・ホプキンス大学デビッド・ランプトン教授の言葉も、一面の真理を突くものだ。

では、憲法に自衛権を明記し、国防軍を創設することのメリットとデメリットを考えてみよう。軍事力による抑止力は働くだろう。

アメリカとの軍事同盟も改めて結ぶだろう。同時にアメリカ製の兵器をさらに大量に買わされることは言うまでもない。核兵器を持たないなら、アメリカの核の傘の下にい続けなくてはならないことには変わりがない。そして、平和のコストとしての軍事的エスカレーションは免れまい。

しかし、これが世界中の国々が採るであろう定石である。

9条を堅持はするが、価値観を共有しない国に隷属することのないよう、「平和!」「戦争反対!」という誰でも言える安易さに堕することなく、本当の抑止力を機能させることは果たしてできるのか。世界に類例はない。

このあたりを、国民一人ひとりが考えなくてはいけなくなった。これが、「改憲勢力が整った」今の日本だ。結構キツイ思考が求められる。

僕個人の意見はある程度固まっていて、それも言うは易く行うは難しなのだが、以前に(無責任に)書いたからここでは割愛する。

およそ6年たってまったく意見が変わっていないわけではないし、状況もちがっている。「憲法9条を一言一句変えるな」と強硬に考えているわけではない。ただ、自衛権とは、武力のみで構成されるものではないだろう、というのが僕の持論だ。

2012年1月は当時の民主党野田政権の時で、安倍政権は第1次が頓挫したあとだ。この時のコラムで引用した識者たちの一部とは、日本の現状の把握の仕方について意見を異にしてしまっている。

今回改めて憲法を取り上げ、もう一度考えを整理して、読者諸氏がご自分の意見形成をされる際の参考にしていただこうと思った次第だ。

いやー、それにしても、カンタンではない......。

「一粒飲めば全快するクスリ」や「これだけ唱えていれば安心なおまじない」はないのである。