「誰かの話」を書くときに、私が気をつけていること。

「書かれた人」はこの内容の公開に、同意しているのだろうか。もしや書かれたことすら知らないのではないかーー。そう考えて、目が止まる。
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ノンフィクションやエッセイが読めなくなった 

この20年、ネットの飛躍的な普及で、「書いて、発信すること」がすっかり身近になったと感じる。プロ・アマチュア問わず、世界中の老若男女が書いたものが、ずっと手軽に読めるようになった。

多様な人々の実体験を土台にしたノンフィクションやエッセイが、追い切れないほどの勢いで発表されている。この分野の愛読者としては嬉しい限りで、あれも読みたいこれも読みたいと、積ん読は増える一方である。 

なかでも私は好んで読むのは、外国を舞台にした作品だ。

自分では行けない場所を脳内で旅した気持ちになれるし、ところ変われど、人の感情や行動に共通点があるのを見て、この世界の狭さと近さにほっとする。ノンフィクションだからこその、現実感の手応えもいい。 

書き手の主観が前面に出るエッセイは、純然たる「事実」とは言い難いが、その主観効果で素朴な生活や風景も瑞々しく鮮やかに浮かび上がり、彩色写真を見るような楽しさを覚える。

そんな風に思いながら、縁と興味のあるノンフィクションやエッセイを手に取ってきた。分野は問わず、気の向くままに。 

しかしその長年の趣味を、このところ、気軽に楽しめなくなった。

どうしても引っかかる1点ができてしまった。それに遭遇すると、途端に先を読み進められなくなってしまうのだ。

引っかかるのは決まって、書き手が「他の誰か」について書いた場面。そしてその「誰か」が、舞台となる国の現地人や子どもなど、日本語が読めない人の時だ。

生い立ちやセクシュアリティ、経済状況や家庭環境などのプライバシーに関わってくると、眉間がぞわっと反応する。個人名が書かれていたら、反応はもっと強くなる。

「書かれた人」はこの内容の公開に、同意しているのだろうか。もしや書かれたことすら知らないのではないかーー。そう考えて、目が止まる。

そこで私は、文章の冒頭や末尾のページを開く。

まえがきやあとがきに、「書かれた人」の同意を示す文はないか?  取材協力者リストや謝辞は? もし、それらが見当たらなければ、今度は一縷の望みをかけて、巻末や冒頭に但し書きを求める。

 《作品中の人物名や地名は実際と異なります》

この一文で、「書かれた人」は最低限、個人の特定を避けられるからだ。最近の本にはそれらの表記が見当たらないことも多いのだが、どこかにどうかあってほしいと、祈る気持ちにすらなる。 

しかし、それも無ければ、私はページを閉じる。

この作品とは縁がなかったのだと諦め、嫌な想像と疑問を、噛みしめる。

誰かが書いた文章で、断りなく、自分の人生が明かされる。

いつの間にか、遠い国の人々に、自分の生活が漏れ伝わっている。

しかも「私」と特定できる、情報や描写はそのままに。

「それ」って、どうなんだ?

ある日、小学生の息子に「取材依頼」した

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私が「それ」に疑問を感じ始めたのは、昨年の秋。

きっかけは、自分の子どもを題材に、発達障害に関する原稿を書いたことだった。

「あなたの体験を伝えることで、日本の誰かを勇気付けると思う。書かせて欲しい」

私はこれまでの仕事と同じように、小学生の息子に、企画意図を説明して取材依頼をした。

「その記事は、日本語だけなんだよね?」

フランスで教育を受け、日本語の読めない息子はまずそれを聞き、少し考えてから答えた。

「顔出しや名前出しは無し。1回だけなら、書いていいよ」

その答えを受けて私は、はっとした。
そしてすぐ、「はっとした」自分を、奇妙だと感じた。

顔出し・名前出しのNGは未成年の取材ではよくあることで、筆者も保護者として息子のプライバシーを守るため、そうしようと考えていた。「1回だけ」の条件は初めてだったが、どんな条件であれ、可能な限り「書かれた人」の意向を重視すべきことに変わりはない。

なのになぜ、私は「はっとした」のだろう。
「はっとする」べきことなど、何もなかったはずなのに。

記事は子どもとの約束通りに作成し、その意向は本文でも明記した。が、しばらくの間、私の脳裏にはこのやり取りが残った。そして何度か考えていくうちに、「はっとした」理由に思い当たった。

まず私は頭のどこかで、「無条件で承諾されるに違いない」と思い込んでいたのではないか。 親から子への頼みごとだから、断られるはずがない、と。

私は保護者で、子どもの法定代理人でもある。子どもが未成年である間、彼にまつわる社会的な決定を全面的に託されているし、責任も負っている。だからその人生や発言もすべて私の差配(配慮)で発信していいのだ、と心のどこかで思っていなかったろうか? 

しかも私の子どもは、日本語を読めない。私の書いたことも、どうせ分からない……。

そこまで考えて、眉間がぞわっとした。

親であっても、「他者」の人生を、勝手にネタにしていいのだろうか?
本人が読めないものを、同意なく、何でも書いてもいいのか? 

以来、「書かれた人」の同意が見えないノンフィクションやエッセイが読めなくなった。 

特に「書かれた人」が、作者自身の子どもだったり、日本語を読めないと思われる外国人だったりすると、どうにも苦しくなる。あのときの私自身を、思い出してしまう。

同意を取る前から、書くのを許されるだろうと、無意識に思い込んでいたこと。どうせ読めないし、と一瞬でも考えたこと。チクチクと棘のように脳裏を掠めるのは、この2点だ。 

もしそんな風に、親に、外国の書き手に、自分の人生を扱われるなんて、私なら絶対に嫌だ。

私の人生は私のもので、発言も体験も、私のものなのに。

「親だから、悪いようには書かないよ」「遠い国のことなんだから、いいじゃない」。そうしてなんの断りもなく、私のセクシュアリティや家庭環境、経済状況を世間一般に発信されたら。私ならそれだけで、怒りを露わにするだろう。

一度この感覚が自分の中に芽生えると、引っかかる文章は、身の回りにいくつもあった。

「自分ではない誰か」について、具体的な地名や個人名を出した、外国を舞台とするノンフィクションやエッセイ作品の、なんと多いことだろう。

私はそれらに触れるたび、冒頭の作業を繰り返す。「書かれた人」の同意が明記されているか。個人は特定できるか。但し書きはあるか。それは私自身が心おきなく文章に浸るために、必要なステップになってしまった。 

このように感じるのは私だけなのか、と、気持ちの沈んだ時もある。作品に記していないだけで、同意済みなのかもしれない。はっきりと言語化されていなくても、書き手と「書かれた人」は通じ合っている信頼関係とも考えられる。 

個人の特定を避けるフェイクを、読み手には分からせずに加えてリアリティを出すことが、ノンフィクションを書く技術と考える人もいるだろう。まして読者の多くは、「書かれた人」の同意にそこまで敏感ではない。私は正義漢気取りで、職業病的にこだわりすぎているのでは、と。

私がノンフィクションを書くプロセス

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ここで、私の仕事の話をさせてもらいたい。私は在住国のフランスで、事実に基づいたノンフィクション原稿を書いているライターだ。

私がノンフィクションのライティングを学んだのは、日本の教育系出版社だった。そこでは「書かれた人」の同意は、原稿作成の基本中の基本、と教え込まれた。その原則は以来20年以上、媒体やテーマが異なっても、仕事を続ける上で変わっていない。

理由は単純で、題材となるエピソードや発言が、「書かれた人」の経験だからだ。 

多くの場合、ノンフィクションの企画はライターや編集者など、制作側から立ち上がる。ある人(取材対象者)の人生を、文章化して広く伝える価値があると制作側が考える。これを書きたいとライターが望み、読者に届けたいと編集者が願うのが、スタート地点だ。 

題材が著名人やビジネス関係者の場合は、世間に知られた実績や発想などをきっかけにして企画が生まれる。本人にとってもPRの一環になるため、取材対象者の側から「書きませんか」とアプローチされることもある。一方、一般人の場合は、彼ら彼女らが「私の人生を書いてください」と希望して企画が始まることは少ない。これは書籍や雑誌でも共通することだろう。 

誰かの人生や出来事を、話してもらう。聞いた話をライターや編集者が、記事や書籍にする。「誰か」について書かれた文章は、そうして生まれる。 

「あなたのことを書かせてください」と頼んだところで、了解されるとは限らない。

これまでにも実際、「書かれたくありません」と拒否されたり、「いずれ自分で発信したい」と断られたりして、実現しなかった企画はいくつもあった。そうなったら制作側は、ただ諦めるしかない。ごり押しすると、プライバシーの侵害や捏造といった問題に発展しかねない。「書かれた人」の同意が基本中の基本というのは、そういうことだ。 

同意を得て取材できたら、公開前に「書かれた人」に原稿を送り、内容に間違いはないか、公開してよいかと確認を取る。筆者の場合は、フランス人相手の取材が多いので、日本語原稿の内容を要約して伝えた上で、本人の発言部分を訳して見せている。内容について指摘されれば、相談し、修正し、合意できる形に持っていく。

先方から希望で、プライバシーに関わる情報は伏せたり、仮名などのフェイクを入れることもある。取材した人に「あなた方に任せる」と、確認なしで託されるケースもある(が、私はそれでも確認を取ることにしている)。

公開後は、媒体が書籍や雑誌であれば実物かコピーを、ネット記事であればURLを送る。「あなたのお話が、こうして発信されました」と報告する。 

私自身が取材された経験もあるが、ほぼ上記と同じ過程を経てきた。確認の手法や回数は、ライターや編集者によって変わり得るが、制作側と取材対象者は、公表される前の“作る過程”で、必ずつながっているのだ。 

なぜこうして、同意と確認の手順を踏むのか。その背景には「書かれる人」の人権の尊重に加え、出版業の置かれた特殊な立場がある。

日本には「個人情報の保護に関する法律」があるが、出版(著述)業は「表現の自由」を保障するため、その法律が適用されない分野になっている(個人情報保護法第76条第1項)。

だからこそ自律的に、個人情報を厳密に取り扱う姿勢が求められるのだ。法律に縛られないから野放しで良い、というわけはない。

ここで補足するが、権力の監視や事実の開示を重要な役割とする報道は少し事情が異なる。取材対象者の同意よりも、その情報が開示されることの公益性を優先するケースがあるからだ。ただしそれは、裏の取れた事実に立脚し、訴訟リスクを考え合わせた上で行われる。公共の利益と個人のプライバシー保護は、原則的には報道でも、常に隣り合わせの問題だ。

筆者の周辺は、個人情報や「書かれた人」の同意を重要視する人ばかりだった。だから日本の出版およびメディア業界では、個人が特定される内容を同意なく書かれることは、特殊なケースだと捉えていた。 

しかしそれは、私の思い込みだったのか? 「書かれる人」の同意は、事実に基づく文章を書く上で、必須事項ではないのか? 

今更ながらその疑問に立ち止まるほど、「書かれる人」の同意が見えない日本語のノンフィクションは多いのだ。

個人の情報を「同意なく」暴露する意味 

その疑問を恐る恐る、知人友人のほか、プロの書き手や編集者、法律関係者などに投げかけてみた。すると幸か不幸か、疑問を感じているのは私だけではなかった。

「家族や友人など、個人の信頼関係に基づいて得られる情報を第三者が同意なく暴露することは、『信頼関係の破壊行為』と考えられますね」

そう言ったのは、国際弁護士の友人だ。「それを親子関係や外国人の例で考える試みは、とても興味深い」とも言い添えた。

また、親に成長過程を公開されている子どもたちが「晒されチルドレン」と呼ばれていると、教えてくれる人もあった。

そして会話を重ね、調べていくほど、これは線引きの難しいお題なのだと、分かってきた。

まず私の’’読めないポイント’’その1である、子どもに関して。

個人情報保護法の整備は、世界各国で進んでいる。が、未成年の個人情報保護は、保護者の管理(ペアレンタル・コントロール)に委ねられおり、ほとんどの法文では「親による暴露」は想定されていない。

国連の「子どもの権利条約」では、18歳未満の児童の名誉が保護される権利を認めているものの(第16条)、その保護を担う親自身が権利侵害者として想定されていない。

親権に基づいて、保護者が未成年の子のプライバシーや個人情報をどこまで開示して良いのか、どう管理すべきなのかは明確ではなく、グレーゾーンだ。日本でも、私の住むフランスでも。

そしてもう一つの’’読めないポイント’’である、外国人を取材対象としたものも、また別のグレーゾーンの中にある。 

「プライバシー侵害」の国際基準としては、OECD(経済協力開発機構)が提唱するプライバシー・ガイドラインなどがある。

もし書かれた内容がプライバシーの侵害にあたる場合、「書かれた人(取材対象者)」と「書く人(取材者)」が違う国に住んでいても、裁判で訴えることはできる。実際に訴えるとなると、そのハードルは決して低くはないのだが(どの国の裁判所に訴えるべきなのか? どちらの国の法が適用されるのか? )原則としては可能だ。

しかし大前提として、「書かれた人」がまず、侵害された事実を知らなければ始まらない。

取材方法に国際ルールはなく、制作側の良識による。「書かれた人」に同意を取るプロセスを経ず、その文章の存在が知らされなければ、「書き手」によってプライバシーが暴かれていることも分からないままなのだ。

インターネットに乗って情報が世界を駆け巡り、翻訳ソフトの精度が向上している21世紀、外国語の情報は、ずっと手軽に読めるようにはなった。が、外国語の文章はいまだに、大多数の一般人にとっては縁遠い存在だ。画像や映像とは違う。言葉の壁が、文章によるプライバシーの侵害行為の隠れ蓑となってしまっている。
 

本人が知らなければいいことだろう。

何でもプライバシー侵害と’’過剰反応’’したら、事実に基づく作品は作れなくなってしまう。

寝た子を起こすな。放っておけばいいのだ。

それは「書かれた人」と「書く人」の個人的な問題だ。

読者は余計な介入をせず、目の前の文章を楽しめばいい。

……と考えることは、筆者にはできない。眉間のゾワゾワを感じたまま、いくつかの作品は途中で読めなくなり、そっと本やページを閉じた。それはノンフィクション作品を読み続ける限り、続いていくのだろう。

それでも、読めなくなった作品については公言しないと決めている。プライバシーの侵害は「書かれた人」と「書いた人」の問題であり、第三者の私は裁く立場にもない。「同意を取らない・取れない」自分自身と真摯に向き合い、「書かれた人」との衝突を覚悟の上で、作品を発信する人もいるだろう。その過程を知らぬまま、結果の発信内容だけを安易に批判する真似は、したくない。

私にできるのはただ、読まない自由を行使することだけだ。

せめて私の周囲の人々の人生は、短い一文であっても、その人のものでありますようにと願いながら。

 (編集: 笹川かおり)

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