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やめた方がいいとわかっているのに、誰もやめると言い出せない。決断できない。この状況を戦争にたとえる人は多いが、頭に浮かぶのは、太平洋戦争でもっとも無謀と言われる作戦「インパール作戦」だ。
戦中も戦後も詳しい実態調査がなされず、大本営発表の下、日本軍による箝口令(かんこうれい)さえ敷かれた。
遺影の寄贈があるたびに追加展示してきたが、「家族が離ればなれで寂しそう」という声が遺族から寄せられていたという。
激戦地ラバウルの最前線「バイエン」に送られた水木さん。13人の部隊は水木さんを残して全滅。ジャングルを駆け抜け、命からがら生還した彼を待っていたのは冷たい言葉だった。
「この子が戦いに巻き込まれないように、声を大きくして戦争反対を叫べよ」。長男を出産したとき、母から託された言葉だ。母は2人の息子を戦争で失った。
光文社新書『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』から、終戦前後の様子を伝える10枚を紹介する。
式典会場では、密集を避けるため席数は2メートル間隔を空けて約500席に絞り、参加者の規模は例年の10分の1程度になった
長崎市出身のノーベル賞作家カズオ・イシグロさんもコメントを寄せています。
長崎市の平和公園で8日夜、市内の小中学生らが手作りした4千個以上のキャンドルに火をともし、犠牲者を悼み、平和を願った。
8月9日は長崎原爆の日。7万人以上の尊い命が奪われました。写真や記録から、その日を振り返ります。