「子育ては本当に困難、か」思想家の内田樹さんに聞く

「子育ては親の仕事」という呪縛から自由になろう。内田樹さんが監修、聞き手を堀埜浩二さんが務めるnoteのインタビュー連載『困難な子育て』が書籍化された。
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写真上、左から『困難な子育て』著者の堀埜浩二さん、インタビューに登場する佐藤友亮さん、砂田沙紀さん、飯田祐子さん、写真中央、左から岡山亜里咲さん、永山春菜さん、光嶋裕介さん、同書で監修を務める内田樹さん、砂田祥平さん

現在、この国の「子育て」を難しくしている問題の多くは、「子育ては親の仕事」という呪縛によるものではないか━━。

その1つの問いをきっかけに、では、親だけでなく「みんなで育てる」ためにはどうすればいい? 子育てにかかわるみんなが「育てながら学ぶ」ためには? …など、実際に子育て真っ最中の方々に話を聞いたnoteの連載「困難な子育て」。この度、1冊の本にまとめられました

インタビューに登場するのは大学教授や建築家、会社員など、職業こそ様々ですが、みなさん、思想家・内田樹さんが主宰する道場「凱風館」で「合気道を学んでいる(もしくは、学んでいた)」方々です。

本にもその内容が詳細に収められる、凱風館で開催された「困難な子育て」のインタビューを受けた皆さんが登壇したフォーラムにお邪魔し、この連載の監修を務める内田樹さんに、ご自身の子育てについて、その楽しさ難しさについて、そして「子育ては本当に困難なのか」話を聞きました。

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『困難な子育て』で監修を務めた、内田樹(うちだ・たつる)さん。武道家でもあり、思想家でもある。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で小林秀雄賞受賞、著書多数

周りにいる大人がみんな違うことを言うなかで子どもは葛藤し、自立する

兵庫県神戸市にある「凱風館」は、思想家・内田樹さんの自宅兼合気道の道場でありながら、子どものための能楽教室やマルシェといったイベントの拠点になるなど、いま地域のコミュニティとしてその機能に注目が集まっています。

道場を通して人と人が繋がり、ゆるく連携し、子育てもシェアするという、凱風館の“場”としてのユニークな機能は、「孤育て」「保活」といった言葉に表れる、子育てがままならない今の社会にとって何か大きなヒントがあるのではないか。

本書『困難な子育て』は一貫して、子育てが難しい今の状況を悲観することなく、だからこそ「子育てを楽しもう」という気分をつくりながら、この国の「子育てのかたち」と「その営みの本質」に迫ります。

そのコミュニティづくりの中心であり、同書の監修を務める内田樹さんに、話を聞きました。

━━「みんなで子育て」を目指す時に大切になってくるのが、子どもの「集団として生きる力」です。それは、どんな「力」ですか?

「集団として生きる力」というのは、集団の中のどこが自分のいるべき場所で、その中でどんな働きを自分は果たすべきかを知る力のことです。

凱風館の場合、何もない空間ですけれど、小さい子どもたちをこの空間に放り出すと、大喜びして駆け回ります。でも、そうやって遊びながら「集団として生きる作法」を学習しているんです。みんなと呼吸を合わせて一緒に笑う、人の動線を塞がない…そういうことが集団行動の基本になります。

武道では「座を見る」という言い方をしますが、これは与えられた空間における自分のいるべき位置を知ることです。頭で考えることではなく、皮膚で感じることです。

いるべきではないところにいると、身体的なノイズが聴こえるはずなんです。そのノイズが消えるように位置を移動する。

武道ではこれを「触覚的に空間認知する」というふうに言ったりしますが、「いるべきところ」と「いるべきではないところ」の識別はときには死活的に重要なことですけれど、頭で考えてもわからない。身体感覚を研ぎ澄ますしかない。

凱風館には少年部があり、4歳から合気道を習うことができます。入ったばかりの頃は、「はい、座って」と言っても、どこにいればいいか分からない。ダマになったり、列を崩してバラバラになったりするんですけれど、2年3年と稽古をしてゆくと、その時の人数に応じて、列を作ったり、一人一人の間の間隔を調整したりできるようになります。俯瞰的に、自分自身を含む風景を見下ろすことができるようになっている。

これは合気道の技がどうこうという以上に、大切なことだと思います。適切な空間認知ができるようになった。自分と自分の仲間たちが「どこで、何をしているか」を俯瞰で見下ろすことができるというのは、とても大切な社会的能力です。

というよりも、それができないと社会生活は始まらない。個人としての能力がどれだけ高くても、集団の中で自分がいるべき場所、果たすべき役割がわからない人は他者とコラボレーションすることができないからです。

ですから、小さい頃から、集団の中に身をおいて、子ども同士身体を触れ合いながら、転げ回って遊ぶことはとても大事なんです。

━━いまの時代、一人っ子の家庭も多く、「集団として生きる力」を子どもが体得する場が少ない気がします。また、親離れ、子離れが難しいとも指摘されますが、子どもの自立には何が必要でしょうか。

子どもができるだけたくさんの大人と関わりを持ち、できるだけ多様な考え方やふるまい方に触れるようにすることだと思います。

母親も父親も、学校の先生や、周りにいる大人たちがそれぞれ違うことを言っている中で子どもは葛藤し、葛藤を通じて自立する。周りの大人たちが同一の価値観である環境が子どもの成長には最も有害です。

「可愛い子には旅をさせろ」と言いますが、その通りだと思います。思春期になったら、家という閉じられた文化圏から外へ送り出して、いろいろな経験をさせることが子どもの自立の道です。

━━子育てが難しい社会である一方で、その経験の有無でもまた分断が生まれつつあるように感じています。

子育てしたからといって、いきなり人間的に大きく成長できるわけではありません。それは世の中を見渡しても分かります。幼児的な親はいくらでもいますから。経験から何を引き出すかは一人一人違います。同じ経験をしても、それで成長する人もいるし、しない人もいる。

ただ、子育てには驚くべき発見があるのは確かで、それらは本を読んだり、人から話を聞いて知ることとはレベルの違うリアリティーがあります。

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思想家・内田樹さんの自宅兼合気道の道場「凱風館」(兵庫県)

自分の子どもが生まれる時も「うまく愛せないんだろう」と思っていた

━━自身の子育てを通して、どのような発見をされましたか。

僕の場合は、ずっと、子どもが苦手でした(笑)。よその子どもを見てもとくに「かわいい」とも思わなかったし、子どもの方も僕にはなつかなかった。

だから、自分の子どもが生まれる時も「うまく愛せないんだろう」と思ってました。

でも、妻や家族の手前、「愛してるふり」「可愛いと感じてるふり」をしなきゃいけない。妻はそういうのをすぐに見破る人だから、「本当はこの子のこと、愛してないんでしょ!」とずっと言われ続けるんだろうな…と思ってました。

案の定、生まれた瞬間に看護婦さんに「抱いてあげてください」と言われて困り果てました。抱きたくなんかないので。いま、手が滑ってこのタイルの床の上に赤ちゃんを落としたら、どれくらい怒られるだろうと思うと怖くてしようがない。だから、3秒くらい抱いて、すぐに看護婦さんに戻しました。

でも、不思議なもので、生まれて3週間くらい経ったころかな、ある日溢れるような愛情がこみ上げてきて、「なんて可愛いんだ!」と。明らかに内分泌系の異常が起きたんです。「この子のためだったら死んでもいい!」と思えた。

心理学者の岸田秀さんは「人間は本能が壊れた動物だ」と言われてますけれど、「壊れている」だけで、本能が「なくなった」わけじゃない。それは自分の中に制御不能の「父性愛」が噴き出したときに実感しました。

たしかに、親は時として自分を犠牲にしても子どもを守らなきゃいけない。DNAを次世代に伝えなきゃいけない。それはたしかに生物としては合理的なふるまいなんです。子どものためになら死んでもいいというような「異常な」感情が発動して、僕はそれに支配された。子どもに対する愛なんて、親が自己決定できるものじゃないということを、その時知りました。

自分の意志で子どもに対する愛情はコントロールできないということは、実際に子どもを持ってみないと分からないです。

僕の場合は、その後離婚して、父子家庭で娘を育てることになりました。2人でしばらく生活するうちに、父子家庭ではなく、母子家庭になるしかないということに気がついた。

幼い子どもと二人で暮らす場合、「父の仕事」って、ほとんどないんです。「母の仕事」しかない。だから、父親をやめて、母親になることに決めたんです。

娘との12年間のふたり暮らし。あれは「母子家庭」だった

━━性別と役割は切り離して考えるという前提はありますが、「父の仕事」「母の仕事」はどういう意味で、具体的にはどんな変化があったのですか?

三食、栄養バランスのよいご飯を作って子どもに食べさせる。洗濯して、アイロンをかけて、清潔な服を着せて、天気のいい日はお布団を干して、暖かい布団に寝かせて…という子どもの基本的な生理的欲求を満たすことが、僕がここで言っている「母の仕事」なんですけれど、それを丁寧にやっていたら、もう一日が終わっちゃうんです。「父の仕事」の出番がない。

僕が作ったご飯を子どもがぱくぱく食べているのを見ると、それだけで安堵して、「勉強しろ」とか「宿題やったのか」とか、そんなよけいなこと言う気にもならない。生きてくれていれば、それでいい。

一般的に父親というのは子どもに対して「生きていれば、それでいい」では済まないんです。何か余計なことを期待する。子どもを社会化することを自分の義務だと思ったりする。

でも、母親は違います。子どもの生存のための基本的な欲求を満たすのが主務なわけですけれど、母親をやっていると、それだけで一日分のエネルギーは使い果たしてしまいます。それ以上のことなんかする余力がない。

母親は子どもの衣食住の基本欲求を満たすことができればいい。夜寝る時に子どもが生きていれば、もう「100点ゲット」なわけです。勉強ができようができまいが、友だちがいようがいまいが、そんなことはとりあえず副次的なことに過ぎない。

父子家庭になって、母親としての仕事をするようになって、初めて母親の満足を経験しました。これは父親の仕事を果たすことの満足感とは比べ物にならないと思いました。

結局、父子家庭は12年間続きましたが、僕はあれは「母子家庭」だったと思っています。

━━「子育ては困難、か」というテーマでその難しさだけでなく、楽しさや、ご自身の子育てについてもお話をお伺いしましたが、最後にもう1つだけ…、子育てに終わりはありますか?

親子が一緒に暮らす時間は驚くほど短いです。うちの娘には、18歳になったら家を出るように早くから言っておきました。あとは自立してやってくれ、と。どこでどういうふうに暮らそうと、それは君の自由だよ、と。

娘は大学に行かずに、東京でバンドやったり、古着屋やったり、ぶらぶらしていたんですけれど、30歳過ぎてから「フランス語がやりたい」のでアテネ・フランセの授業料を出してくれと言ってきました。もちろん、ほいほい出しました。

別に娘だからというわけじゃなくて、僕の家に出入りする若い人たちを支援するのと、それほど違うわけじゃない。若い人の市民的成熟を支援するのは年長者の義務ですから、娘が知性的に成長したいと言って来たら、全力で支援します。僕は若い人には優しいんです(笑)。

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『困難な子育て』(堀埜浩二/取材・文・構成、監修/内田樹、ブリコルール・パブリッシング)

『困難な子育て』(堀埜浩二/取材・文・構成、監修/内田樹、ブリコルール・パブリッシング)

著者であり、インタビューの聞き手を務める堀埜浩二さんの「結婚や子育てに対する“安心感”を凱風館が提供している」という発見と、「“社会で子どもを育てる”ための場が全国に同時多発的に生まれている」という考察から始まったnoteのインタビュー連載が書籍化。 インタビューを受けた方々と、内田樹さんが、少子化時代の今の日本における「子育てのかたち」について語り合ったフォーラムの内容も収録する。 「余裕がないからできた、集まり、つながり合える『場』」「我が子と自分と、ダブルで生きる人生としての『子育て』」など、新たな地域コミュニティである凱風館の子育てのかたちを紹介。成功も失敗もないはずだけど、どこかうまくいかない、本当にこれでいいの? など、子育てにおけるモヤモヤを抱えている人にとってヒントとなる言葉が詰まった1冊です。