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2020年04月03日 11時36分 JST | 更新 2021年03月27日 13時39分 JST

あの時の「かわいい」は、7歳だったわたしにルッキズムの呪いをかけた

ルッキズムの「呪い」に苦しめられてきた21年間。たくさんの国を旅して気づいたこと。

7歳の時、初めてバレンタインデーにチョコを渡した男の子のお母さんから、「うちの息子、かわいい〇〇ちゃんが大好きなのよ〜」と言われた。10年以上経った今、そのお母さんは私への感謝の気持ちで(お世辞も込めて)そう言ったとわかる。

でも、「好き」と言う感情が初めて芽生えたばかりで、「恋愛」の「れ」の字も分からなかった当時のわたしは、「かわいい=好かれる」のだと思い込んでしまった。それが後々、ルッキズムの呪いになるとも知らずに。

 

「かわいいことは良いこと」?

ルッキズムとは、外見によって人を評価、判断、差別することだ。この呪いの怖いところは、かかった人の多くがそれに「気がつかない」ということ。わたし自身もそうだった。生まれた時から、この呪いを日常的にかけられていたと思う。

物心ついた時から親や親戚から顔を評価されながら育ったし、幼稚園の時に大好きだったアニメの主人公たちの外見には一定の特徴があった。小学生の時にクラスで人気だったプロフィール帳には「かわいい子ランキング」の欄があった。

中学生の時に流行ったバラエティ番組では、女性芸能人に対する「ブスいじり」が笑いのネタにされていた。中学になると、世間が言う「かわいい」の条件がなんなのか、段々と「理解」してくる様になった。みんなで読み回ししていたファッション雑誌に出てくるモデルの脚が異常に細かったし、当時流行っていたプリクラは、わたしの目の大きさを倍にして肌を白くしてたからだ。

母と幼い頃の妹とわたし

こうして「かわいいことは良いこと」という呪いは自分の中でぐんぐん育ち、いつの間にかわたしの価値判断に深く根付くようになった。

 

ふくよかな女性が美しい モーリタニアに移住して気づいたこと

そんなある特定の「かわいい」の呪いで麻痺したわたしは、中学1年生でモーリタニアという国へ引っ越した。

モーリタニアと日本の「美」の価値観は、まったく異なっていた。

わたしが通っていた学校のクラスメートの半分はモーリタニア出身の生徒で、学校生活では日本とは全く異なる文化的価値観に触れることが多かった。HIVの感染者が多く、食料配給が国民に十分に行き届いてないモーリタニアでは、ふくよかな体型の女性が「富と健康」を表す象徴で、「美しい」と言われるのだ。

そして、その日本とは異なる美の価値観も、弊害をもたらしていた。

現地の女性たちは、脂肪分の高いヤギのミルクと砂糖を積極的に摂取する「ガバージュ」という習慣に従って育てられる。過度な脂肪摂取は、モーリタニア女性の健康に悪影響をもたらす。モーリタニア政府は独立以来ガバージュ廃止を呼びかけているが、根付いた美という概念は簡単にはぬぐいきれない。

モーリタニア・ヌアクショットアメリカンスクールで、クラスメートの友達と(2012年)

クラスメートに日本で流行っていたモデルやアイドルの写真をクラスメートに見せると、「日本人女性は痩せすぎ」だと驚かれた。それに、「幼く見える」「なんでみんな同じ格好をしてるの?」とも不思議がられた。

そして、サハラ砂漠の空気で乾燥している髪や肌を鏡で見るのが嫌になっていたわたしに、「あなたの方が可愛いよ」と言ってくれた。日本の友達みんなが「神」といって崇めるような、「かわいい」の頂点に立つようなモデルたちよりも、目の前にいるわたしをみて「可愛い」と言うのだ。

自分が縛られていた「かわいい」の正体が少しだけ視えた気がした、衝撃的な瞬間だった。そして、日本を離れている期間が長くなるほど私の「かわいい」の基準はどんどん多様化していった。自分が思っていた「かわいい」像とは異なるクラスメートたちを綺麗だと思うようになり、違う国に住む度にわたしの美の基準は変わっていた。

ルワンダ・キガリのインターナショナルスクールにて(2014年)

 

日本に帰国後、また呪いにかかった

2年前、日本に本帰国したわたしは、日本の美の基準にまた振り回されるようになった。外国人として住んでいた海外とは違い、日本社会では特定の美の基準を達成するように求められている気分がした。

希望いっぱいで入学した大学では、「顔選抜」のあるサークルやルッキズムを促進しているミス・ミスターコンテストにドン引きした。

たまに会う家族には「大学生だし、そろそろ化粧したら?」と言われ、携帯を開ければ出てくる「脱毛案内」、「ダイエット案内」。「綺麗であれ」「かわいくあれ」というプレッシャーを至る所で感じた。

そして、まわりにいる友達やサークル仲間が、挨拶をするかのように他人の外見に価値をつける。会った瞬間に、「痩せたねー!」とか、「あれ、少し太った?」とか、外見に対する意見を言われる。

気づかないうちにわたしは「化粧しなきゃ」、「痩せたい」、「太った」と口にするようになった。鏡を見ながら、自分の容姿には何か問題があるのではないのだかと、怖くなってしまう。鏡で自分の顔を直視できなくなり、電気を真っ暗にしてお風呂に入るようになり、目の前にいる相手に自分はどう映っているのだろうか、と心配になった。

モーリタニア・ヌアクショットで親友と (2013年)

呪いの正体は「空気」のようなもの

この呪いはどこから生まれたのか?誰がこの呪いをかけているのか?

呪いの正体は「空気」のようなものではないか、とわたしは思っている。広告、テレビや雑誌などのエンターテイメント、学校、ビジネスの世界などがお互いの顔色を見ながら、一定の価値観を生産している。そして、その価値観に基づいて、「こういう見た目であるべき」という考えに縛られてしまう。でも、鏡を見るたびに自分の「不正解」を探したり、「あと何点足りていないか」と気にしたりしながら生きていくのはすごく苦しい。

「ルッキズム」の呪いが解けた世界になってほしい。「外見によって自分の幸せの価値が決まる」と思い込み、その考えで苦しくなってしまう人が、一人でもいなくなる社会になってほしい。

 

そもそも、「美」という価値観に「正解」も「100点満点」も存在しない。

色々な国に住み、沢山の国を旅してきて思うことは、世界のどこでも「美」の概念は存在するが、地域や社会によって、その価値観はまったく異なるということだ。そしてその基準は、経済、社会、政治的概念に基づいているから、それが変われば、「美」の概念も当然変わる。

美の概念とは、その程度のものなのだ。

だから、「外見」について口にしそうになった時、一歩立ち止まって考えてほしい。その「可愛い」「ブス」「太った」「痩せたい」「綺麗」「醜い」「ダサい」…それは、誰からかけられた呪いだろう?その言葉を起点に、自分や誰かを、ルッキズムの呪いにかけてしまっていないだろうか? 

 

一人ひとりがその意識を持てたら、ルッキズムの呪いに苦しむ人が、なくなるかもしれない。その思いを込めて、この記事を結びたい。