「長崎の原爆ドーム」なぜ解体されたのか? 浦上天主堂が幻の世界遺産になった理由【長崎原爆の日】

長崎への原爆投下から77年。知られざる歴史を振り返ります。
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原爆で破壊された浦上天主堂。1945年9月13日撮影 (AP Photo/ACME/Stanley Troutman)
via Associated Press

8月9日は「長崎原爆の日」。長崎市内への原爆投下で、1945年だけで7万人以上が亡くなった。長崎では平和祈念像が犠牲者に黙禱を捧げるモニュメントとして知られているが、実は広島の世界遺産「原爆ドーム」に匹敵する原爆遺構が、かつて長崎市内に存在していた。

爆心地からわずか500メートルの位置にあったカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)」だ。もし現存していれば世界遺産になっていたことは確実だ。

熱線と爆風で甚大な被害を受けるも、建物の一部が残っていた。原爆の悲惨さを伝える貴重な遺構で保存を求める声も多かったが、被爆から13年後の1958年に解体撤去され、鉄筋コンクリートの建物に作り直された。一体、何があったのか。

歴史の闇に封印された「長崎の原爆ドーム」の謎を追った。

 

■「東洋一の大聖堂」と言われた、かつての浦上天主堂とは?

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原爆投下前の浦上天主堂
永井隆著「浦上天主堂」(浦上天主堂発行、1949年)より

長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって激しい弾圧を受けるも、地元住民はキリスト教への信仰を捨てず「隠れキリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。

江戸末期から明治初期にかけて「浦上四番崩れ」といわれる大規模な隠れキリシタンの摘発が浦上地区であった。これが欧米から批判されたことを受けて、1873年に明治政府がキリスト教の信仰の自由を認めた。釈放された浦上の信徒たちの間で、この地に天主堂を作る運動が盛り上がり、1914年には献堂式があった

当初は瓦屋根で教会の鐘の塔(鐘楼)はなかったが、1925年に聖堂の正面に双塔を建てて鐘楼とした。高さ25メートルの双塔の建設は、長崎県を中心に多くのカトリック教会堂の建設を手掛けた鉄川与助の手によるものだった。

赤レンガ造りの優美な姿から浦上天主堂は「東洋一の大聖堂」と言われるほどだった。

 

■爆心地から500メートル。浦上天主堂は倒壊炎上した

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原爆投下から15分後に、爆心地から9.4キロ離れた旧香焼村の造船所から撮影された巨大な雲(松田弘道氏撮影)
Galerie Bilderwelt via Getty Images

1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に原爆「ファットマン」を投下した。NHKの特集記事によると、爆心地の北東およそ500メートルの場所にあった浦上天主堂は、原爆の爆風によって一部の壁などを残して倒壊し、その後炎上した。

南北2つあった鐘楼のドームのうち南側のものは天主堂内に落下。北側のものは崖を滑り落ちておよそ35メートル離れた小川に落ちた。現在も半分近く土砂に埋もれたまま保存されている。 鐘楼のドームは重さ50トンもあり、原爆の衝撃を物語っている。

 

■カトリックの司教「ああいう建物は一日も早く取りこわした方がいい」

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原爆投下から10年後の1955年7月26日に撮影された浦上天主堂(AP Photo/Gene Kramer)
via Associated Press

福間良明さんの著書「焦土の記憶」(新曜社)によると、原爆で倒壊した浦上天主堂はしばらく廃墟の状態だったが、被爆翌年の1946年末には木造平屋の仮聖堂が建築された。

1949年のザビエル祭までにはガレキも取り除かれ、正面右側と右側面の一部側壁のみが残された。だが、復員や引き揚げ、転入によって増加した5000人の信徒を収容するにはあまりにも狭かった。

そこで浦上天主堂の「カトリック浦上教会」は、1954年に「浦上天主堂再建委員会」を発足。長崎県を管轄する長崎司教区の山口愛次郎司教が1955年5月から翌年2月にかけて、募金のためにアメリカとカナダを訪問。その後、再建の具体策を固めて1958年2月に信者達に説明会を実施した。

天主堂の解体撤去が濃厚になったことに、長崎市議会からは「原爆の恐ろしさを伝える歴史的資源にするべき」などと反対意見が続出。2月18日の臨時議会で天主堂の保存を求める決議が全会一致で可決された。

しかし、市議会の要請も空しく、教会は同年3月から解体工事を実施した。被爆した浦上天主堂は解体撤去され、鉄筋コンクリート製の新しい天主堂が作られた。外壁の一部だけが爆心地公園に移築された。

解体当時、山口司教は次のように述べていた。

「原爆の廃墟は平和のためというより、無残な過去の思い出につながり過ぎる。憎悪をかきたてるだけのああいう建物は一日も早く取りこわした方がいい」(週刊新潮 1958年5月19日号より)

 ■解体撤去の背景に、アメリカ側の意向か?くすぶる疑惑

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再建後の浦上天主堂(2012年撮影)
We-Ge via Getty Images

長崎市長の諮問機関である原爆資料保存委員会が1949年に発足した。この委員会は毎年9回に渡り「浦上天主堂を保存すべき」と答申を出していた。51年に当選した田川務市長も当初は、保存に前向きな姿勢を見せていた。

長崎市は1955年にアメリカのセントポール市と姉妹都市提携をした。田川市長は、これを受けて訪米して以降、浦上天主堂の解体撤去に前向きとなった。

田川市長や山口司教が原爆遺構の撤去に邁進した背景に、アメリカからの働きかけがあったと見る人は多い。

ジャーナリストの高瀬毅さんは以下のように書いている。

遺構撤去に米国の「圧力」があったのではないか。そういう疑惑はいまも長崎市民の中にくすぶっている。決定的な記録は、これまでのところ見つかってないが、「撤去」せざるを得ない状況や時代背景が、あの時代に集中的に生まれていたことは確かだった。ソ連との間で熾烈な核開発競争を展開する米国にとって、原爆の傷跡を示す天主堂は、目障りだったことは十分に考えられる。(週刊金曜日 2017年8月18日号より)

 

■「原爆の極限的な破壊をありのままに示した歴史遺産になったであろう」と惜しむ声

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1945年、原爆投下で焼け野原になった浦上地区の左奥に残った浦上天主堂の遺構
via Associated Press

広島市の「原爆ドーム」も保存か撤去かをめぐって議論が起きていた。「悲惨な思いがよみがえる」として取り壊す案もあったが,1966年に広島市議会は永久保存を決議。被爆から51年後の1996年には、世界遺産に指定された。人類史上初めて使用された核兵器による負の遺産としての価値が評価されたのだった。

被爆当時の浦上天主堂が現存していたら「確実に世界遺産になっていたのに……」と、悔やむ声は今も根強い。

青森公立大学教授の横手一彦さんは次のように著書で書いている。

天主堂は、被爆後の13年間、最も象徴的な被爆遺構であった。そして、半ば崩れ落ちた煉瓦壁や、鼻先や指先を爆風に吹き飛ばされ、熱線に傷ついた聖像たちは、あの瞬間の恐怖を、無言のうちに語り続けたに違いない。天主堂は、原爆の極限的な破壊をありのままに示した歴史遺産になったであろう。しかし、今となっては、それは幻の世界遺産なのである。(「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 ― 失われた被爆遺産」岩波書店)