「人は簡単に『忘れてはいけない』という。でもね......」外国人歴史家が体験した3.11

オーストラリアに生まれ、日本に40年以上暮らした歴史学者が、2011年3月11日、宮城県で被災した。彼はその日を、そしてそこから4年を、どう過ごし、考えたのか――。
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オーストラリアに生まれ、日本に40年以上暮らした歴史学者が、2011年3月11日、宮城県で被災した。彼はその日を、そしてそこから4年を、どう過ごし、考えたのか――。

2月下旬、澄み切った快晴の日。多賀城市にあるJ・F・モリスさんの自宅を訪ねた。

「私は地元のガイジン。あるいは土着性の強い外国人です」と茶目っ気たっぷりに自らを語るモリスさんは、1974年に留学生として来日。東北大学で博士号を取得し、仙台出身の女性と結婚し、現在は宮城学院女子大学教授として、日本の歴史を研究しながらこの地に拠点を構えている。

「東北大で博士号を取って、宮城学院に就職して、女房は仙台生まれ。ここで子育てをして、子供はインターナショナルスクールには行かせずに、地元の保育所、地元の小学校。普通の日本人として育ててね。自慢じゃないんですが、ほぼ完璧なモノリンガル(日本語のみ)。共働きで、家に帰ってくると子供が『お腹すいたー』って。バイリンガルとか悠長なことはやってられません。普通の親と同じですよ」。

被災者として、外国人として、歴史家として、どう震災に向き合ってきたのか。東日本大震災について聞いた。

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■生死を分けたのは「ケーキ」

――3月11日、あの時をどう迎えましたか?

あの時、私は市から頼まれた古文書の読解に失敗して苦しんでいました。午後2時46分、とんでもない揺れが来て、その時にいたビルから避難した。

家への帰り道、川(砂押川)を渡ってケーキを買いに行こうとしていたけど、疲れちゃって渡らなかった。渡っていたならばここでお話はできなかったでしょう。ケーキが食べたくて渡っていたかもわからない。生死を分けたのは、そんな差です。

マンションの自宅に戻って荷物を置いて、避難ベルにしたがってすぐそこの小さな公園に行きました。マンションにいる人たちが集まっていました。今まで私が全く知らなかった、ベラルーシ出身の女性と日本人の夫、それから東南アジア出身っぽい女性がいました。雪がパラパラ降っていて、あてもなく、いつ帰れるかなと思って待っていた。そうしたら誰かが「津波だ」って言って、みんな一斉に川の向こうの階段を登っていった。足の不自由なおばあさんがいて、私が彼女を背負って行ったんです。

ベラルーシの女性は日本語が非常にうまかった。東南アジアの女性は片言の日本語だけ。それでも町内会のおじいさんとはなんとかやれるんです。母語はタイ語だったと思うけど、タイ語や英語に全部置き換えなきゃいけないわけじゃない。

災害時に言われる、「多言語支援」とか「優しい日本語」とか。実際、そんなもの役に立たない。生きるか死ぬかの場面とか、避難所で大混乱が続いてる段階では、整っていない状況の中でどうやるかというほうが課題です。

夕方になって、高台から戻ってきて、自治体の人が「家に入っていいよ」という話がありました。どんな根拠があるかはわかりません。マンションの階段を上がると、暗闇の中で家の中になぜか入ろうとしない人たちがいました。住人じゃなくて、逃げてきた人たちだった。その時初めて、津波がすぐそこまで来たということを知ったわけ。現場にいると、見えないんです。マンションが衝立になっているから。見ていたら、生きていないからね。

――何も知らなかった。

そう。世界中の人たちはテレビで見てたけど、私たちは自分の目の届く先しか見えないんです。

目・口・鼻を全部塞がれたような状況でした。外のものが入ってこないし、こちらから外に呼びかけることもできない。それで、逃げてきた人たちを、住人が2軒か3軒で手分けをして泊めて次の日に、それぞれの生活に戻りました。

――ご家族は?

家内は山形大に勤めていて、翌日(12日)の入試で山形に行っていたから無事です。けど、その夜は帰って来られなかった。持てるだけの水や必需品を買ってきて戻ってきたのは翌日です。それからが、自分にとっての『被災後の生活』だった。

■メディアに触れて、許せなかったある出来事

12日と13日は何してたかな……。少し記憶がグチャグチャで。

女房は何回拭くんだよ、というくらい床拭きをして、家の中を整理していました。私は家の中でウズウズして、何回か川を渡ろうとしたんです。やっぱり、普通の精神状態じゃなかったんだね。土曜日(12日)は水がまだ引いてなくて、土手に上がると水がすぐそこまで来ていた。あっちの田んぼの中には遺体もゴロゴロあった。車がボンって田んぼの中に刺さっていた。今から見るととても想像できない状況でした。

マンションでは自治会が炊き出しを始めていました。線路の向こうの、津波をかぶっていない農家のところまで行って、不要になった廃材を頭を下げてもらってくる。それは男の仕事でした。おじいさんは山に柴を刈りに……ってね(笑)。でも、おばあさんは川では洗濯できません。製油所が爆発して、川は油だらけだったから。

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被災直後の多賀城市

避難所になっていた自治会の集会場の端っこでは、若いお母さんが――5歳と3歳くらいかな――2人の男の子を抱えて、「静かにして、お願いだから」と言っていました。お母さんはなにもできない。福島の状況が不透明で、下手に外に連れて行って遊べって言えないし、寒いし。それを見てたまらない気持ちになった。

そして、臨床心理士の女房と相談して、自治会の了承のもと、子供の遊び場を作ったんです。

運営には気を使いました。まずは子供たちが夜、ちゃんと寝られるようにすること。電子ゲームとか、興奮するような遊びを一切禁止して、折り紙とか読書とか、作業療法的なものですね。そして、親との関係を強化すること。遊びに来る前に親の許可が必要だし、昼休みには親元に返して、夕方には片付けをして親元に帰す。現実の生活から乖離しないようにしました。

それで、4日目か5日目には電気が通って、ネットも繋がった。トイレも流せないのに世界へ向けて情報は流せるという。ほんとに、21世紀型災害だよね(笑)。

――トイレも流せない状況で、数日ぶりに接したメディアに感じたことは?

腹が立ったことがあってね。たとえば、ここのマンションに住んでいるかなりの人たちはどこかに脱出していたんです。ここにいてどうするんだと。水もないし電気もない。身を寄せる親戚が外にいる人は、ほとんど離脱しました。それは悪いことじゃない。外に居場所がある人はいないほうが助かるんです。食べ物も水もないから。

残っている人は行く場所がないからとか、何らかの理由があって残ってるんですね。

外国人がそれをやると国賊、裏切り者みたいに書かれているのを見てね、それが許せなかった。日本人も同じだったよ。当たり前じゃないか。それはなんでわかるかというと、マンションの駐車場がガラ空きだったから。あと、ガスが復旧するときに、元栓を閉めてないと爆発に繋がる恐れがあったんです。だから、マンションの中を一戸一戸回って、人がいれば断って閉める。いない場合には勝手に閉めて回ったんだけど、かなりの数、いなかったから。

自分の身を守るために移動する。それは何も悪いことじゃない。今でも思い出しますね。

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■「被災者に寄り添う」とは

――日常の生活が戻ったのは……

ガスが戻った、2週間後くらいだったかな。次に考えたのは、心理面のケアだね。

ところで、災害発生後に「被災者の心のケア」ということがうんざりするほど語られたんだけど、何が心のケアか。ほとんど誰も知らない。

――ひとり歩き。

そう。ひとり歩きしてた。「被災者に寄り添う」と。寄り添うって何なのか。

「心のケア」というとね、カウンセラーが来て「大変だったんだね、ちょっと悩みきかせてよ」というのをイメージするけど、違うんです。

それまでは、悲惨なできごとを経験した人がストレスを受けて、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になるというふうに考えられていました。今、新しい考え方の理論的根拠になっている『サイコロジカル・ファーストエイド』という文献では、「人はそう簡単にはPTSDにならない。人には自分で立ち直る力がある、それを高めれば多くの人たちは立ち直れます」と書いてあるんです。

他人に助けてもらうんじゃなくて、自分で立ち直る力をつける。この力をレジリエンスといいます。たとえば、水を渡すのでも、「ほら、水だ、飲め、ありがたく思え」っていう渡し方じゃなくて「大変だったんだろうね、水だよ、もう安心ですよ」と。こういうメッセージを送るだけでも、自分の友達や仲間と繋がることでもレジリエンスが高まります。

子供たちに「学校は安全で安心できるところだよ、遊べる場もあるし、友達もいる。先生は守ってくれるよ」って、伝えられればそれだけで支援になるんです。津波があったから、学校という場所に関しては、安全だよ、安心だよ、というのは難しいですけどね。

カウンセラーがいなくても、自分たちで立ち直れる、そのことをまず学校の先生に伝えるために、ワークショップを開いたり、「ケア宮城」という名前で、宮城県の教育委員会と二人三脚で活動しています。きっとこの取り組みは、どこかで災害が起こった時にまた力になるだろう、そう思ってやっています。

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■「日本人的な美徳」の嘘

――この震災を経験して、日本という国に対して、日本人に対して感じたことはありますか。

私はそういう考え方を否定する。結果としてそう言わないと説明できないものもあるだろうけど。戦国時代の日本人と今の日本人は同じ気質ですか?

――違いますね。

違うよね。タイムマシンに乗って100年前の日本に戻ったら、生きていけますか?

――難しそうです。

東北の農民の古き良き伝統みたいにトイレットペーパーをやめてお尻を縄でふきますか? 「日本人の気質」と言われるものは、その時々の社会的状況に過ぎないんです。自分の知っている過去20年間くらいのものを、都合よく気質と言っているだけ。

避難所の中で日本人がとても行儀よく、慌てず、パニック起こさず、と言われましたが、アメリカを直撃したハリケーン・カトリーナの後に運動場に集まった人たちも同じでした。被災後に多くの人たちは実は非常に秩序正しく行動するというのが災害研究の常識です。じゃあ、そういう社会規律が崩れる条件はなんだろうか。極限状態だったならば、みんな立派にしていただろうか?

実際には、盗難、略奪、いろいろあったんです。避難所の中で子供の泣き声が気になって、お年寄りが刃物を振り回したとか。私も覚えています。避難所に入ったときの、ものすごい緊張感。もう、爆発寸前の火山です。そんな、清き正しき律儀な日本人、なんて状況じゃない。ギリギリのところで規律を保っていたんです。

外国人に関して言えば、尖閣諸島と竹島問題とかが、あの時点で今の状況になっていたら、どうなったものか。実際、当時だってデマがTwitterで流布していました。仙台でも摩擦が生じたけど、爆発点に達する前に解消されて大事に至らなかったことがあった。だから、日本人の気質とか、自分にとって都合のいいものを繋いで美化しても意味がないと思います。

東北で、何であれだけの状況になっても外国人が大きな問題にならなかったかというと、地元との繋がりです。もし自治体が、多数の外国人を受け入れながら、地域との関係性を作ろうとせず、最初から投げ出していたら。私は考えただけで恐ろしい。

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――地域との結びつきがあれば、正しい行動をする?

そんな単純なものじゃない。仙台では留学生が小さな地元の町内会の避難所に密集したとか。中国人研修生が30人いるところで夜通し泣いてたから迷惑だと。そういうことが起こった時に対処する能力があるかどうかです。中国人研修生の場合は、避難所として指定された場所に、中国からの物資が入って、研修生たちだけで食べきれないので、近くの人たちに配った。そこで、「悪い人たち」が「良き人たち」に転換した。

――ほんのちょっとの……

ほんのちょっとだけの差なんですよ。私自身、地元の人から「外人だ!」とか「どこから来たんだ?」って言われたことは一度もない。津波の後も、道ですれ違ったら、「ご無事でしたか」。それだけ。「お互い、無事でえがったね」って。

もしあなたが被災地にいれば、あなたは被災者。被災者とそうでない人しかいないんです。外人・日本人という差異は外から持ち込まれたものです。

■「歴史は、ただの過去じゃない」

――歴史家として、この4年間の活動はどんなものでしたか。

歴史学者としての役割は、史料をきちんと残していくこと。これは震災に関係なく、ずっと取り組んでいます。

地方には、先祖からの大事なものだけれど、どういう意味があるのか、どう保存するべきかわからずに悩んでいるって人がいるんですね。そこに歴史家が、あなたの持っている史料はこういう内容が書いてあって、こういう意味があって、だから大事です。こうすれば長期保存できますよ、ってやるとその人たちがとても喜ぶ。

震災の直後、牡鹿半島の向こう側、あの、多くの子供が亡くなった大川小学校の近くに行って、地元の人に会いました。津波でやられてコンクリートの基礎しか残っていないようなところでね。何万点もあった史料は全部屋敷ごと流された。幸運なことに、その史料は震災の前に、石巻市史を作る時にデジタル化していたから、それを印刷して持ち主に渡したんです。

持ち主の方は、食べ物もままならないし、着てるものも全然替えてないでしょうし、避難所暮らしだし。でも、それを受け取って「救われた」と言った。その人にとって、先祖代々から引き継いできたその史料が、自分たちの生きた時代に流された。その史料には、自分の一生だけじゃなくて、系図が何代まで遡れる。それを証明するものが残ったというだけでも、何かが「救われた」って。

津波や災害は、人の尊厳まで奪うんです。

支援というと、水でしょ、食べ物でしょって言われる。たしかにそうだ。非常時に、こういう尊厳に関わることが重要だということは言いづらい。でもそこには、その家の人たちだけじゃない、地域全体のアイデンティティというのがあるんです。それを失ってしまったら、戻る人たちも戻ってこない。地域として立ち直れない。

今の自分は何者なのか。それがわからないと人は彷徨う。「自分たちはこういう人たちだ」と、たいした根拠がなくても、手がかりがあれば立ち向かっていけるんです。

今も、冊子にするために史料をまとめて、解説を書いているんだけど、これは地元貢献だと思っている。全く読まない人もいっぱいいるでしょう。でも、自分のルーツを辿りたい、興味のある人たちにとってこれはアイデンティティを取り戻すための、大事なもの。歴史は、ただの過去じゃない。いまを生きる私たちの自己認識、そのものなんです。

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■そして歴史家として、震災を見つめるということ

――歴史家として、東日本大震災をどう捉えていますか。

一番の問題は、地域経済・地域社会にどう影響するのかということ。立ち直れるか、そうでないか。明暗はすでに自治体によって分かれ始めています。

非常に冷徹な言い方をすると、今回の震災は時計を20年から30年間進めただけ。だから、復興は、東北が東京の植民地であるという、従属関係を組み直して、地域が独自に成り立つように組み替える必要がある。元通りに戻すんじゃなくて、元の関係を克服して持続可能なものにしなければ復興は袋小路だと思うんです。

もう一つは、この教訓を覚えるか、覚えないか。今回の震災でも、明治や昭和の津波を覚えているところと覚えていないところで明暗が分かれた。

人は簡単に、「忘れてはいけない」と言う。でもね……人は悲惨なできごとを忘れないと明日へ向かって生きていけないんです。私自身の記憶もかなり書き換えられているし、潜伏しているんです。

――この4年間で。

そう。この4年間で。

あれだけ鮮烈な経験をして、忘れなきゃ生きていけない場合だってある。子供を亡くした方とか、その方々は引きずるんです。3.11で私自身は何の被害も受けてないのにそれを冷静に語れないかというと……。

……実は私は10歳の時に父が目の前で帰らぬ人となるのを見ているわけ。私にとって、それが重なっているんだろうと思うんです。パカっと開けて頭の中の配線は確認してないけど、たぶんそうだろうと思う。

だから、私個人は、忘れたい、でも忘れられない、そうやって死ぬまで引きずるんです。

でも、地域としては一生懸命、風化させないためにやる。歴史家としてもね。実際、今回のことについて残した書物が100年後に読まれるかというと、読まれないでしょう。次に、大きな災害がどこかで来たら、東北は忘れられます。置き去りになります。阪神大震災だって、関東の人にとっては風化しているだろうけど、神戸の人たちと話すと、やっぱりまだ引きずっている。

――20年ですね。

うん、20年。それを経験した人は生涯忘れられない。だけど今、いろんな祈りの行事をやってはいても、それを直接に経験した人がいなくなったら距離がグッと遠くなると思います。それはやむをえないんです。

ただ、許せないのは、原発を建てるために過去の津波被害を過小評価してきたこと。

歴史の記録は確かなものではないんです。モヤの中でなにかをつかむような作業です。そこからわかるのは、福島原発を建てたところは慶長三陸地震(1611年)の津波をかぶってるはずです。ただそれは地名とか、神社の名前とか、そういうものからしか再現できないですが、何かは残されていた。それを無視して原発を建てた時点から、慶長の津波はなかったことになった。記録から抹消されてきたんです。あのようなことは、絶対にやってはならない。

それがこれからの、私の歴史家としての使命です。

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