黒澤明「七人の侍」、農民

「七人の侍」の最後のシーンは、何か独特な神秘めいたものがある。

最近ふと書店で偶然出逢った、

岡本太郎氏の「神秘日本」と「美しく怒る」の"農事のエロティスム"から、

黒澤明さんの「七人の侍」を思い出した。

3年ほどの海外生活からふらっとした一時帰国ほどの軽い気持ちで日本に帰国してしまったが、

岡本太郎氏が感じたものと全く同じような現象が起こった。

日本人というアイデンティティをふわっと消失させ

世界人として生きたいと、日本人をこれでもかという程避けて、

本当に色々な国の人と交流しぶつかってきた。

それがだんだんと馴染んで来てここニューヨークの地が自分の第二の生きる場所だと実感しはじめたころから、だんだんとぽっかりしたものが感じられ、

帰国後しばらくしてから、世界の人々のフュージョンに限界を感じ、

おのずと自分のルーツ、日本のルーツを辿り始めたのであった。

世界人として生きたもう1人の人間として黒澤明さんがいる。

渡米以前は、テレビ番組の懐古的なコーナーで、"世界のクロサワ"と称される人でしかなかったが、

ニューヨークに渡ると、

もうみんな口を揃えて"クロサワのサムライとヨウジンボウが好きだ!"と

それはもうかなり情熱的に訴えるのだ。

それでもあらゆる熱狂的な流行にあえてのりたがらない性格から、

黒澤明さんに本当に出逢うことになったのは、3年の月日が流れ、

日本に帰国後さらに1年ほど経過した頃であった。

娘さんの黒澤和子さんの本に渋谷のTSUTAYAで出会い、

ひとたび彼ののこした言葉を読み始めたとたん、それはもう、他人とは思えないほど共感し彼の関連本を読みふけったのだった。

"世界のクロサワ"はわたしの中で勝手に、"くろさわのおじいちゃん"になった。

それぐらい、とてつもない出会いだったのだ。

「七人の侍」の最後のシーンは、何か独特な神秘めいたものがある。

あわれな農民のために、男達が人肌脱いだように思われたのに

結局はその農民たちに、彼らがいっぱいくわされてしまったような

それでもポーズとしては額に汗して田植えをする矛盾した農民像に

なんだか途方もないむしろ神がかったものを感じるのだ。

その農民らの中の1人の娘と武士の青年の若き二人が戦乱の前夜に結ばれる。

翌朝に、その娘が父親にそれはもう、かなりこっぴどく叱られてしまう。

あまりにも現実味があり、その見事な演技と演出に、

わたしたちはそれを本気で信じて、かわいそうにと思ってしまう。

これが時代も国もちがっていたら、両親は呆れたように笑って済んだかもしれないようものが、

日本のなんというか恋愛に対する家族の御法度ぐあいというか、

なかなかつらいものがある。

デート中を目撃されたあとの親の冷やかな視線、夜にこっそり電話をしようものならおぞましいと決めつけられるこの、なんというか、笑

いくら慎ましやかな日本とはいえ、人を愛することがそんなにタブーなのかと思ってしまう。

慎ましやかな愛情表現をする日本の恋愛文化だからこそ、この二人の逢瀬がより、貴重なものになり、物語に深みが増すのかもしれない。

戦いを目前にし、明日は青年の命もあるか分からない。ずっと想いを寄せ合ってきた二人なのにもうこれで最後かもしれないと、必死の想いがやっと成就したというのに、それをよりにもよって父親から叱られてしまう、愛する人を愛しただけだというのに何が恥ずかしいのか。

しかし、娘は決して農民と武士の身分差の不条理を大人ぶって分別よくのみこんだふりなどしない。

純粋にまともにショックを受けて、一生懸命泣くのだが、その泣く姿がほんとうにけなげでうつくしい。

悲劇のヒロインぶったりなどしない、等身大のいっしょうけんめいな涙に、

わたしたちはどうしようもなく心を揺さぶられ、

やさしくて器の寛い"くろさわのおじいちゃんが、"世界のクロサワ"と呼ばれ、世界中の人々を魅了し続ける所以に納得するのである。