「アンネの日記」最後の言葉から72年、そこに記された少女の願いとは

アンネ・フランクが記した"最後の日記"から8月1日で72年を迎えた。
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ナチス・ドイツによるホロコーストの悲劇を象徴する「アンネの日記」で、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクが記した"最後の日記"から8月1日で72年を迎えた。

アンネの日記」は、ナチスによる「ホロコースト」の悲劇や第二次世界大戦を象徴する本として世界約70カ国の言語に翻訳され、3100万部を売り上げるベストセラーとなり、「世界で最も読まれた10冊の本」の1つにも数えられている。

写真で振り返る第二次世界大戦
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1938年9月29日、ミュンヘン会談。左から英首相チェンバレン、仏首相ダラディエ、独総統ヒトラー、伊首相ムッソリーニ。チェコスロヴァキアのズデーテン地方の帰属を主張したヒトラーに対して、イギリスおよびフランスは「これ以上の領土要求を行わない」との約束をヒトラーと交わす代償として、ヒトラーの要求を全面的に認めた。
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ミュンヘン会談から帰国し、会見するチェンバレン英首相。戦争回避にわきたったが、のちにヒトラーはミュンヘン会談の内容を破棄。第二次世界大戦がはじまった。 (credit:Wikimedia)
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1939年、独ソ不可侵条約に署名するドイツのリッベントロップ外務大臣。後列最右はソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン。 (credit:Wikimedia)
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1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。写真はポーランド及び自由都市ダンツィヒの国境検問所を取り壊すドイツ国防軍。 (credit:Wikimedia)
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1939年9月、ポーランド侵攻時のブィドゴシュチュ付近におけるドイツのI号戦車 (credit:Wikimedia)
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1939年、ドイツ及びソ連の東ヨーロッパにおける新領土併合後に握手する両国の将校 (credit:Wikimedia)
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バトル・オブ・ブリテン時のドイツ空軍のハインケル He111爆撃機 (credit:Wikimedia)
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1940年12月29日、ドイツによる「ザ・ブリッツ(ロンドン空襲)」後のロンドン (credit:Wikimedia)
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1941年8月、北アフリカ戦線、トブルク包囲戦の前線の塹壕を受け持つイギリス連邦軍のオーストラリアの部隊 (credit:Wikimedia)
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1941年12月、真珠湾攻撃。日本軍の空母「翔鶴」上の零式艦上戦闘機。 (credit:Wikimedia)
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1941年12月7日、日本軍による空からの奇襲に遭う米戦艦「アリゾナ」 (credit:Wikimedia)
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1942年12月10日、レニングラード包囲戦のドイツの爆撃による破損家屋を去るソ連の民間人 (credit:Wikimedia)
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ミッドウェー海戦。爆撃機による攻撃を受ける日本空母「飛龍」 (credit:Wikimedia)
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1942年、太平洋戦域のガダルカナル島の戦いにおけるアメリカ海兵隊 (credit:Wikimedia)
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1943年1月のカサブランカ会談。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領とイギリス首相ウィンストン・チャーチル (credit:Wikimedia)
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1943年2月、スターリングラード攻防戦で対独反撃に出るソ連軍。 (credit:Wikimedia)
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1943年10月9日、ドイツのフォッケウルフの工場に対するアメリカ第8空軍によるB-17の爆撃 (credit:Wikimedia)
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1943年8月のクルスクの戦い。ドイツの拠点への反撃に出るT-34に続くソ連軍 (credit:Wikimedia)
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1943年のカイロ会談。左から、中華民国の蒋介石総統、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相。連合国の対日方針などが定められた。 (credit:Wikimedia)
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1943年11月テヘラン会談。米英ソの首脳が初めて一堂に会した会談。ナチス・ドイツに対する第二戦線の形成で合意。フランスへの連合軍の上陸などが首脳間で調整され、ノルマンディー上陸作戦へと繋がった。 (credit:Wikimedia)
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1943年のギルバート・マーシャル諸島の戦いにて、米海軍のUSSワシントン及びUSSレキシントン上空を哨戒するSBDドーントレス (credit:Wikimedia)
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「大東亜会議」に参加した各国首脳陣 (credit:Wikimedia)
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1944年5月イタリア戦線。「モンテ・カッシーノの戦い」の舞台となったモンテ・カッシーノ修道院跡\n (credit:Wikimedia)
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1944年6月6日、D-デイのノルマンディー上陸作戦でオマハ・ビーチに接近するアメリカ軍 (credit:Wikimedia)
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1944年8月、ナチスの占領に対するパルチザンの暴動を鎮圧する任務を負うドイツのSS武装擲弾兵師団 (credit:Wikimedia)
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1944年、マリアナ沖海戦にて攻撃を受ける日本の空母「瑞鶴」及び2隻の駆逐艦 (credit:Wikimedia)
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1944年6月21日のサイパン・ガラパンにて、山砲で攻撃する海兵隊 (credit:Wikimedia)
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特別攻撃隊の2機に衝突され炎上するUSSバンカー・ヒル。沖縄では、4,900人のアメリカ人死亡者数を出した。 (credit:Wikimedia)
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1945年2月、ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル、フランクリン・ルーズベルト及びヨシフ・スターリン\n (credit:Wikimedia)
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1945年6月3日、連合国による占拠後のドイツの国会議事堂\n (credit:Wikimedia)
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1945年8月6日、広島に原爆投下 (credit:Wikimedia)
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1945年8月、ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左からアトリー、トルーマン、スターリン。後列左からリーヒ参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員。 (credit:Wikimedia)
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1945年8月9日、長崎に原爆投下 (credit:Wikimedia)
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1945年9月2日、USSミズーリ艦上にて日本の降伏文書に署名する重光葵外務大臣 (credit:Wikimedia)


■悲劇の少女、アンネ・フランクとは

アンネ・フランクは1929年6月12日、銀行家の父オットーと母エーディトの間に、2人姉妹の妹としてドイツで生まれた。4歳までフランクフルトで育ったが、折しもドイツではヒトラー率いるナチスが政権を獲得。ユダヤ人への迫害が激化していった。

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アドルフ・ヒトラー

身の危険を感じた一家は国を逃れ、オランダのアムステルダムに移住したが、1939年9月にナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、中立を宣言していたオランダにもドイツ軍が侵攻。オランダは占領され、ユダヤ人は激しく迫害された。

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アムステルダムに入ったドイツ軍。1940年5月

1942年6月、アンネは13歳の誕生日に、父からサイン帳をプレゼントされた。アンネはこのサイン帳に日記を書くことにした。日記の体裁は、心の支えとなる架空の人物「キティー」に送る手紙という形をとった。

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ベルリンのアンネ・フランク・ツェントラムに展示される、アンネが日記に用いたサイン帳。

1942年7月からは、一家はユダヤ人狩りから逃れるべく、知人らと一緒に「隠れ家」で生活を始める。以後、アンネは約2年間にわたって学校の先生や友人との出来事、激しさを増すユダヤ人への差別や隠れ家での生活に関する話、戦争と平和に対しての思いを書き綴った。その間、隠れ家には泥棒が入り、食糧事情も劣悪化するなど、アンネを取り巻く環境は悪化する一方だったが、そんな過酷な環境下でもアンネはひたむきに日記を綴った。

じっさい自分でも不思議なのは、わたしがいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。(中略)いまでも信じているからです。———たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。

(1944年7月15日)

名著36 『アンネの日記』:100分 de 名著より)

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アムステルダムにあった、父オットーの会社の建物。この建物の裏につながって存在する「後ろ家」の3階と4階部分に隠れ家があった。現在はアンネ・フランク財団によって管理されている。

1944年6月、アメリカなど連合軍によるノルマンディー上陸作戦が始まると、アンネ一家にも希望の光が差し込んだと思われた。しかしその2か月後、ナチス・ドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)によってアンネ一家は捕らえられ、強制収容所へと送られた。

連行される直前、アンネは日記に「理想の自分になりたい」という願いを記している。これがアンネ最後の日記となった。

なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです。

(1944年8月1日 最後の日記)

名著36 『アンネの日記』:100分 de 名著より)

だが願いむなしく、アンネは強制収容所でチフスに罹り、わずか15歳でこの世を去った。日記は戦後、生き残った父オットーによって出版され、2009年には世界記憶遺産となった。

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1947年にコンタクト社から発売された「アンネの日記」