クレア・ホリングワースさん死去、第2次大戦勃発をスクープ テレグラフ紙が追悼の再掲載

「ポーランド国境に戦車1000台集結。電撃作戦のため10師団が待機」
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第2次世界大戦勃発の「世紀のスクープ」を報じたイギリスの記者クレア・ホリングワースさんが1月10日、香港で死去した。105歳だった。

イギリスの新聞デイリー・テレグラフはホリングワースさんの死を悼み、「世紀のスクープ」を再掲載した。

彼女の記事は、「ポーランド国境に戦車1000台集結。電撃作戦のため10師団が待機」というナチスのポーランド侵攻を伝える見出しで始まる。彼女は1939年にポーランドから外交官の車を借りてドイツ領に入った時、ポーランド国境にドイツ軍が集結しており、戦車、大砲、そして装甲車を目にした。

その当時、27歳の若い戦場記者だったホリングワースさんは、侵攻の3日前にこのニュースを伝えた。当時の新聞の慣例にならい、この記事には彼女の署名はなかった。

クレア・ホリングワースさんが、第2次世界大戦の勃発を報じたスクープ記事。テレグラフの新人記者によるものだと書かれている。

外国人記者クラブ(FCC)香港支部は次のように伝えた。

FCCは、心から愛されたメンバー、クレア・ホリングワースさんが105歳で亡くなったという悲しい報告をしなければなりません。

クレアさんは海外特派員として第2次世界大戦勃発を知らせた世紀のスクープをはじめとして、すばらしい経歴の持ち主でした。

FCCの会長タラ・ジョセフ氏は次のように述べた。

クレアさんが亡くなったと聞いて深い悲しみに暮れています。彼女は私たちに多くの感銘を与えてくれた、クラブの宝でした。彼女の105回目の誕生日を去年お祝いすることができてとてもうれしく思っています。

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クレア・ホリングワースさん。1985年撮影

テレグラフの編集者クリス・エバンス氏は次のように語った。

クレア・ホリングワースさんは、すばらしい記者であり、すべての記者、特に次世代の女性海外特派員に影響を与えました。

彼女は、テレグラフで働く私たちにいつまでも尊敬され続けるでしょう。友人やご家族にお悔やみを申し上げます。

葬儀の詳細や、クラブの通夜は後日発表されるという。

ホリングワースさんは、イギリスのレスターに生まれ、北京で1970年代に働いたのち、亡くなるまでの40年間は香港で生活していた。

彼女は、記者生活の大半を、世界中の紛争を報道するイギリスの新聞記者として過ごした。1939年に新人記者としてポーランドに派遣された時に、大スクープを報道した。

ナチスドイツが9月に侵攻を開始したとき、彼女は、新聞社とイギリス外交官に砲声が聞こえるように、電話を窓から外に出して知らせた。

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2016年10月に香港外国人記者クラブで行われた、彼女の誕生日パーティーで、友人たちに囲まれたクレア・ホリングワースさん。

ハフィントンポストUK版より翻訳・加筆しました。

▼画像集が開きます

写真で振り返る第二次世界大戦
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1938年9月29日、ミュンヘン会談。左から英首相チェンバレン、仏首相ダラディエ、独総統ヒトラー、伊首相ムッソリーニ。チェコスロヴァキアのズデーテン地方の帰属を主張したヒトラーに対して、イギリスおよびフランスは「これ以上の領土要求を行わない」との約束をヒトラーと交わす代償として、ヒトラーの要求を全面的に認めた。
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ミュンヘン会談から帰国し、会見するチェンバレン英首相。戦争回避にわきたったが、のちにヒトラーはミュンヘン会談の内容を破棄。第二次世界大戦がはじまった。 (credit:Wikimedia)
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1939年、独ソ不可侵条約に署名するドイツのリッベントロップ外務大臣。後列最右はソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン。 (credit:Wikimedia)
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1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。写真はポーランド及び自由都市ダンツィヒの国境検問所を取り壊すドイツ国防軍。 (credit:Wikimedia)
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1939年9月、ポーランド侵攻時のブィドゴシュチュ付近におけるドイツのI号戦車 (credit:Wikimedia)
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1939年、ドイツ及びソ連の東ヨーロッパにおける新領土併合後に握手する両国の将校 (credit:Wikimedia)
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バトル・オブ・ブリテン時のドイツ空軍のハインケル He111爆撃機 (credit:Wikimedia)
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1940年12月29日、ドイツによる「ザ・ブリッツ(ロンドン空襲)」後のロンドン (credit:Wikimedia)
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1941年8月、北アフリカ戦線、トブルク包囲戦の前線の塹壕を受け持つイギリス連邦軍のオーストラリアの部隊 (credit:Wikimedia)
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1941年12月、真珠湾攻撃。日本軍の空母「翔鶴」上の零式艦上戦闘機。 (credit:Wikimedia)
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1941年12月7日、日本軍による空からの奇襲に遭う米戦艦「アリゾナ」 (credit:Wikimedia)
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1942年12月10日、レニングラード包囲戦のドイツの爆撃による破損家屋を去るソ連の民間人 (credit:Wikimedia)
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ミッドウェー海戦。爆撃機による攻撃を受ける日本空母「飛龍」 (credit:Wikimedia)
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1942年、太平洋戦域のガダルカナル島の戦いにおけるアメリカ海兵隊 (credit:Wikimedia)
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1943年1月のカサブランカ会談。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領とイギリス首相ウィンストン・チャーチル (credit:Wikimedia)
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1943年2月、スターリングラード攻防戦で対独反撃に出るソ連軍。 (credit:Wikimedia)
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1943年10月9日、ドイツのフォッケウルフの工場に対するアメリカ第8空軍によるB-17の爆撃 (credit:Wikimedia)
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1943年8月のクルスクの戦い。ドイツの拠点への反撃に出るT-34に続くソ連軍 (credit:Wikimedia)
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1943年のカイロ会談。左から、中華民国の蒋介石総統、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相。連合国の対日方針などが定められた。 (credit:Wikimedia)
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1943年11月テヘラン会談。米英ソの首脳が初めて一堂に会した会談。ナチス・ドイツに対する第二戦線の形成で合意。フランスへの連合軍の上陸などが首脳間で調整され、ノルマンディー上陸作戦へと繋がった。 (credit:Wikimedia)
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1943年のギルバート・マーシャル諸島の戦いにて、米海軍のUSSワシントン及びUSSレキシントン上空を哨戒するSBDドーントレス (credit:Wikimedia)
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「大東亜会議」に参加した各国首脳陣 (credit:Wikimedia)
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1944年5月イタリア戦線。「モンテ・カッシーノの戦い」の舞台となったモンテ・カッシーノ修道院跡\n (credit:Wikimedia)
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1944年6月6日、D-デイのノルマンディー上陸作戦でオマハ・ビーチに接近するアメリカ軍 (credit:Wikimedia)
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1944年8月、ナチスの占領に対するパルチザンの暴動を鎮圧する任務を負うドイツのSS武装擲弾兵師団 (credit:Wikimedia)
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1944年、マリアナ沖海戦にて攻撃を受ける日本の空母「瑞鶴」及び2隻の駆逐艦 (credit:Wikimedia)
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1944年6月21日のサイパン・ガラパンにて、山砲で攻撃する海兵隊 (credit:Wikimedia)
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特別攻撃隊の2機に衝突され炎上するUSSバンカー・ヒル。沖縄では、4,900人のアメリカ人死亡者数を出した。 (credit:Wikimedia)
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1945年2月、ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル、フランクリン・ルーズベルト及びヨシフ・スターリン\n (credit:Wikimedia)
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1945年6月3日、連合国による占拠後のドイツの国会議事堂\n (credit:Wikimedia)
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1945年8月6日、広島に原爆投下 (credit:Wikimedia)
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1945年8月、ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左からアトリー、トルーマン、スターリン。後列左からリーヒ参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員。 (credit:Wikimedia)
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1945年8月9日、長崎に原爆投下 (credit:Wikimedia)
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1945年9月2日、USSミズーリ艦上にて日本の降伏文書に署名する重光葵外務大臣 (credit:Wikimedia)

(スライドショーが見られない方はこちらへ)

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